第5章  自己の関わりを振り返って(3)
 
コミュニケーションの特徴       
 
  ―Thomas Gordon「教師学」の観点を参考に―  
 
1 過去の児童指導事例の再考察
 
  過去の児童指導を振り返ってみたときに、特にうまくいかなかった事例について取り上げ、なぜうまくいかなかったのか、その原因を細かく分析していくことが、今後の筆者自身の児童指導上とても大切であるという指導を受けた。そこでここでは、うまくいかずにとても悩み苦しんだ事例を3つ取り上げ、コミュニケーションの特徴を考えてみたい。
 (  )内は、どんな話し方をしていたかその様子を表している。Tは、教師である。
 
指導事例(1)体育委員長の仕事をしないH男
 
T1:「体育委員長なのになぜ模範演技しないの?」(普通に)           
H1:「だってやりたくないんだもん。」(吐き捨てるように)           
T2:「やりたくないって、おまえ委員長なんだよ。責任があるだろう。」      
H2:「俺好きで委員長になったわけじゃないもん。」(口をとがらせながら目は反抗的)
T3:「でも最後は自分でも認めて委員長になったんだろう。何とかがんばってみたらど
   うだ。先生も教えるぞ。」(説得するような言い方)             
H3:「俺、嫌だよやりたくねえもん。」(体を揺すっている感じ)         
T4:「小学校時代のいい思い出にもなるし、おまえだったら絶対できるよ。がんばって
   みようよ。」(何とかさせようと必死に説得にかかる)            
H4:「嫌だ絶対にやらない。」(目つきが悪くなり睨んでくる。)          
T5:「なんだその態度は、この野郎。」                     
  (こっちがこんなに一生懸命指導しているのに全然わかってくれないH男への態度に
   とうとう我慢ができなくなりついカッとなってしまった。)         
 
  この学校では業間に全校体操があり、体育委員長が朝礼台の上に立ち、毎年模範演技をするのが慣習になっていた。しかしH男は、模範演技はしたくないと言い、教師の指導もうまくいかなかった。筆者は体育委員長であるH男に対して、その責任を果たさせようという気持ちで指導している。過去においては、必ず体育委員長が模範演技をやってきたのであるから、今回も何とかやらせなければ教師の面子が立たない、子どもに負けるわけにはいかないと考え、一方的に「責任」という言葉で押し通そうとしているのである。Gordon1985)の言う「第T法」(勝負あり法)による指導である。
  H1の発言を筆者は単なるわがままと捉え、T2のように「責任」という言葉で、何とか模範演技をさせようとしている。H2の発言に対しても、「何を今更言い訳じみたことを言っているんだ。」という気持ちがあったために、T3のように説得にかかっている。説得するためには、まず相手が納得しているということが大前提である。相手の気持ちも考えずに、教師側だけの考えばかり押しつけられてもうまくいくはずがない。この辺りから筆者とH男の会話は全くかみ合わなくなっており、最後には筆者がカッとなってしまい、指導は失敗してしまったわけである。
  改善しなければならないことは、H男の気持ちをまず理解しようとすることである。そのためには、H男が素直な気持ちを表現できるような筆者の言葉の投げかけ方が重要になってくる。H男は一貫して「やりたくない」と言い張っている。自分の気持ちを分かろうとしない筆者に対する、精一杯の抵抗のようにも思える。
  H男は、野球が好きで体育も得意な活発な子である。授業中も手を挙げて発表することが多く、係や当番の仕事は真面目に取り組むタイプの子である。そういった意味では責任感のある子である。しかし、きちんとした言葉遣いや、礼儀正しい行動はやや苦手であった。模範演技をするとなると、きちんとやらなければならない。やりたくないというH男の気持ちに焦点を当ててみると、その辺りがH男にとってはストレスになっていたのかもしれない。
  H1の発言に対して「もしかしたらお前、きちんとやらなければならないと思って、プレッシャーを感じているんじゃないのか?」と言葉を投げかけてみれば、H男も「絶対やりたくない」とは言い張らず、自分の気持ちを筆者に伝えてくれたかもしれない。H男の本当の気持ちが分かれば、教師としてどんなことで協力することができるか、一緒に考えていくこともできたと思う。
 
指導事例(2)自分の非を認めないY男(喫煙)
 
T1:「一緒にいた仲間がおまえがたばこを吸っていたかもしれないと言ってるんだけど
   吸ったのか?」(冷静に)                         
Y1:「吸ってないよ。」(目を合わせようとはせず落ち着かない感じ)        
T2:「吸ってなかったんだな。でも口にはくわえたか?」(語りかけるように)   
Y2:「そんなことやってないって言ってるでしょう。」(イライラした感じ)     
T3:「口にたばこをくわえてもいないって言うのか?仲間は確かに口にはくわえたって
   言ってるぞ。どうなんだ、正直に言ってごらんよ。」 (少し強い口調で)   
Y3:「本当にやってないって。」(目を合わせない)                
T4:「一緒にいた仲間がくわえたのを見たと言ってるんだぞ。なぜ正直に言わないんだ。」
    (何とか本当のことを言わせようとする)                 
Y4:「あいつら嘘ついてんだよ、俺やってないもん。」(だんだん意地になっていく感じ)
T5:「嘘つくなよ。本当のことがなぜ言えないんだよ。」(相手の気持ちがくみ取れない)
Y5:「・・・・・・。」                            
T6:「もう授業が始まるからいったん教室にもどりなさい。後でまた聴くから。」  
    その後家に帰ってしまう。                        
 
  この指導は、子どもがたばこを吸ったかどうかの事実だけを聞こうとしている。そこで正直に話をしないY男に対して筆者は苛立っている。子どもにしてみれば、筆者が最初から疑ってかかっていることがわかっているので、もし話せば叱られる、という気持ちになり、話をする気持ちにはなれなかったのだろう。
  Y男は個性の強い子で、人と同じことをするのが嫌いであった。独創性があり、人と違ったことをしては、目立とうとするタイプであった。喫煙したことはたぶん事実であると筆者は確信をもっていたわけであるから、吸ったか吸わなかったかという事実を確かめるようなT1のような話し方ではなく、「お前、また目立つようなことやっちゃたな。」と笑顔で話しかけてみればよかったかもしれない。そうすればY男の方も、「ちょっとやっちゃいました。」とおどけて答えたかもしれない。
  ここでの指導で大切なことは、今後吸わせないようにするためにどんな対応をしていったらよいかを考えることだったと思う。吸ってほしくないというメッセージを「わたしメッセージ」(Gordon,1985)でY男に伝え、その時の状況を詳しく話してもらうことも考えられる。言葉の投げかけ方としては、「お前にたばこを吸ってほしくないと先生は思っているんだ。友達と一緒にいたときの状況が分かれば何かいいアドバイスができると思うんだ。少し詳しく話してくれないか?」という言い方である。Y男から話ができるような雰囲気作りをすることが必要だったと思う。
  証拠を押さえ、過去を罰することもある意味大切だが、それは教育の作業ではない。これからどうするか、今後吸わないようにするためにはどうするかが教育の作業である。たばこの害についての指導は授業中にやるとして、好奇心から吸ったという場合は、「吸うことは良くないということは、わかっているよね。」と相互確認した上で、二度と吸わないように約束する場合も考えられる。
  自分の会話文を振り返ってみると、表面上は冷静を装っているが、内面は怒っていることがわかる。感情が言葉の中に込められているのだ。このことが子どもにはわかっているのかもしれない。自分のものの言い方を工夫しなければならない。
  たばこに関しての指導は、好奇心からだったり、無理矢理吸うように強要されたりする場合がある。もし後者の場合だったなら、教師の援助が必要になってくる。断ったり、逃げたりするような、自分を大切にするメッセージを送ることが考えられる。
 
指導事例(3)B子の給食を受け取らなかったA男
 
T1:「B子の配った給食を受け取らないで、自分でさっさと分けたそうだな。」   
  (やや強い口調で)                            
A1:「・・・・・・。」(目を合わせようとしない。)               
T2:「それはB子に対しての差別なんじゃないのか?先生は差別は絶対に許さない徹底
   的に戦うって前に言ったよな。」(語りかけるように)            
A2:「・・・・・・。」(口を曲げなにも言いたくないような表情)        
T3:「おまえにそんなことをされて、B子がどれだけ傷ついているかわかるか?」  
  (割と冷静に)                              
A3:「僕はB子じゃないからそんなことわかりません。」(ぶっきらぼうな言い方) 
T4:「B子じゃないなんてそんなこと当たり前だろう。自分がされたらどんな気持ちに
   なるか考えてごらんよ。」(少し笑顔で)                  
A4:「自分はそんなことされたことないから、考えることなんかできません。」   
   (相変わらずつっけんどんな言い方)                    
T5:「もう少し落ち着くまで待つから、少し真剣に考えてごらんよ。」       
A5:「別に落ち着いていますから大丈夫です。」                 
T6:「おまえは馬鹿じゃない、頭がいいんだから、賢いんだからそんなこと言うなよ。
   素直に言ってごらんよ。」(おだてるように、下手に出るような言い方)    
A6:「全然わかりませんよ。そんなこともうどうでもいいでしょう。家に帰りたいんだ
   から帰らせてくださいよ。」(パニック状態)                
T7:「どうでもいいとは何事だ。B子は傷ついているんだぞ。おまえが今困っていてど
   うしようもないくらいB子だって苦しんでいるんだよ。なにが家に帰りたいだ。甘
   ったれるのもいい加減にしろ。おまえがしたことはいいことなのかよ。よく考えて
   みろ。」(今までたまっていた鬱憤が一気に爆発してしまい興奮状態、A男はびっ
   くりしてこちらを向く)                         
                                       
  しばらく時間が経過(5分くらい)                      
                                       
T8:「自分のしたことはいいことなのか?」(やさしく)             
A8:「悪いことです。」(小さな声で)                     
T9:「よく正直に言ったな。えらい。自分でしたことをよく反省してB子に二度とそん
   なことしないように先生と約束してくれ。」                
A9:こくりとうなずく。(目は合わせていない状態)               
 
  この指導は、筆者特有の失敗するものの言い方の典型である。A男の行為自体を反省させようとして、A男が何故このような行動をしたのか、その理由を聞こうとはしていない。ものの言い方が最初から高圧的な印象がある。次のような言い方をすれば話の展開が変わっていたであろう。
  「B子の配った給食はどうしても受け取りたくないと思っているんだね。理由があるのなら教えてくれないか?」このように聞けば、何らかの理由を答え、それに対応してあげることができたかもしれない。最初から君の行為は悪い、という指導で入っていってしまっているので、冷静な気持ちで対応できれば良かったと思う。実際、B子の爪が伸びていたことが、原因の一つだったことを後から聞き、反省させられた。
  筆者のものの言い方で「相手がどんなに傷ついているか、わかるか?」という話し方がある。本人を反省させる目的でよく使う方法であるが、教師の言動から怒りの感情が子どもに伝わってしまうと、何も話す気にはなれないのであろう。
  A男は「僕はB子じゃないからそんなことわかりません。」とか「自分はそんなことされたことないから、考えることなんかできません。」と答えている。筆者はそんな当たり前のことを、なぜあえて言うのか分からなかった。そこで、T5やT6のような言い方をしている。しかしここでA男の言葉の意味をもう少し深く考えるべきであった。
  何故こんな言い方をしたのだろうか?それは、「僕は」とか「自分は」という言葉の中に『自分には自分の言い分があるのに、何故相手のことばかり聞くんだ。自分の気持ちをどうして聞こうとしてくれないんだ。』というメッセージが込められていたからなのだ。筆者は、A男の気持ちなど全く無視し、ただ「善悪」の判断のみで指導に当たっていたのである。T6で相手をおだてるようなものの言い方に切り替えているが、自分の気持ちを分かってくれない人からおだてられて、誰が素直な気持ちになれるだろか。A6でパニック状態になっているのは、自分のことなんか分かってくれない、というとてもきつい心の状態の表れだったのかもしれない。それに対してT7では、ものすごい剣幕で怒ってしまう。たぶんこの時、A男は「この人にもう何を言っても無駄だ。」と思っていたのかもしれない。
  事例(1)から(3)のようなものの言い方では、善悪の判断やこうあるべきだという価値規範で教師が子どもに対応しているために、子どもは自分の思っていることを、はっきり言えない。それは教師のものの言い方が影響し、とても言えないとか言ってもしょうがないなどという気持ちにさせているのだろう。教師側が、こういう考えがあって、子どもにこうしてほしい、というのであれば、まず子どもの言い分に耳を傾けるべきだ。行動レベルの判断で「善悪」の判断をするのは、子どもだってできることだ。教師であれば、何故この子はこのような行動に走ったのかというレベルで、一歩上をいく考え方をする必要があろう。そのためには、子どもの方から話ができるような、話しやすいような状況を教師が意識して作っていかなければならないと考える。
 
 
 
 
 
 
 
                                
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 教師の見方を変える
 
  自分なりの、子どもの見方を変えるきっかけとなったものを、近藤(1994)の中からいくつかの観点を取り上げて考えていきたい。 
 
(1)「考える」という観点から
   今までの指導は、「善悪」の判断という1つの価値観で子どもに接していたように思う。子どもの気持ちなど考えずに、無理矢理その価値観に子どもを当てはめようとしてきた。子どもの心の中にある悩みや、問題行動を引き起こす原因となっているものなど考えようとはせず、その場その場の対処で終わってしまっていた。
   表面に出ている行動だけを見て指導するのではなく、その行動の背後にあるものを考えて、子どもの気持ちを考えて指導していく必要があると感じた。筆者が児童指導上よく使う「相手がどんな気持ちでいるか、考えてごらん。」という言葉を、そっくりそのまま自分に当てはめるべきだと思うようになった。
   事例(1)のH男の場合も、なぜやりたくないと思っているのだろうと考えてみるべきであった。自分の主張をいかに通そうかと、そればかりばかり考えていたような気がする。また、自分の言い方にも問題があるのではないだろうかとも、考えるべきであった。H男が一貫して「やりたくない」と言っているのであるから、自分の対応の仕方も考えなければ、進展もなければ筆者の意志も伝わらない。
   事例(3)のA男についても、「僕はB子じゃないからわかりません。」と、なぜこんな当たり前のことを言うのか、考えることが必要だったと思う。A男の言ったことを額面通りに受け止めていた自分を恥ずかしく思い、反省させられた。
   また感情ばかりが先走って叱りたくなるとき、それは自己満足の何ものでもなく、決して子どものためにはならないのだ、ということも考えさせられた。
   
(2)「見つめる」という観点から
   自分の狭い価値規範で子どもを見ていた自分を改め、もっと広い視野で子どもを見つめていこうと感じた。
   子どもは、指導中は反省しているように見えるのだが、何度注意しても、また同じことを繰り返すことが多い。悪いと分かっていても繰り返してしまうのは、何か他に理由があるのかもしれない。その子の家庭環境や日常の言動など、もっと幅広く見つめられれば、何らかの理由が見つかるかもしれない。愛情不足の裏返しかもしれないし、成長過程の一つかもしれない。「今まで自分の力に対する自信を潰され萎縮してきた子どもが、自分の存在を実感することを通して、はじめて自分の居場所や力を確信することができ、その過程で、いたずらをしてしまう場合」(近藤,1994
   このように広い視野で子どもを見つめることができれば、目先の問題にすぐにかりかりしながら指導に当たる自分に、ワンクッションおくことができると思う。冷静な気持ちで子どもに接していく必要があると感じた。
   「見つめる」ということを考えるときには、目つきにも注目する必要がある。事例(2)のY男に対して筆者は、「お前がやったことはもう分かっているんだ。だからさっさと正直に言ってしまえ。」という気持ちで指導しているので、犯人を取り調べている警察のような目つきだったに違いない。
   事例(1)のH男に対する言葉の投げかけ方にしても、普段のH男の性格や行動の様子を見つめていれば、H2のような話し方はしなかったであろう。
 
(3)「聞く」という観点から
   今までの指導で失敗の原因になっているのは、子どもの言い分を全くといってよいほど聞いていなかったことである。教師が子どもを指導する場合、子どもに一方的に説教をし、子どもはひたすら聞いているというパターンが多い。最初から教師が威圧的に子どもを見下ろしている形があり、子どもの方から話ができるような状態にはなっていない。子どもの考え、気持ちなどを上手に聞くことができるような雰囲気作りや、話のもっていき方を考えていく必要があると思う。
   事例(3)では、Y男の言い分を全く聞こうとせず、筆者の主張ばかりしていた。あわせてY男が話ができないような雰囲気を筆者が作り出してしまった。(T2の発言) 事例(1)、(2)でも相手の話をまず聞いてみようなどとは思っていない。自分に一番欠けている部分なので、肝に銘じておきたいことである。
 
(4)「受け容れる」という観点から
   問題行動を起こしている子どもの現象面だけを見るのではなく、その子の行動自体を全て受け容れる、ということである。
   問題を起こした子どもを、まず何とかして変えなければならないと、意気込みすぎて失敗することが多かった。まずその子の行動をしっかりと受け容れる。肩肘を張らず、自然体で、ゆったりとした心で子どもを受け容れるという気持ちが必要であると思う。自分の心にゆとりや待つという気持ちがあれば、すぐに答えを出そうと焦って、失敗することも減るだろう。
   事例(1)のH男の場合も、模範演技をやりたくないことに対して、それはけしからんと考え、すぐに別の対応策にうつるのではなく、やりたくないことはやりたくないこととして全面的に受け入れてみればよかったのである。その後どうすればよいのかという対応策を考えていけばよいのである。事例(2)のY男や事例(3)のA男の言動も全て受け入れてから、どうすればよいのかを考えればよかったのである。今まで筆者は「受け入れるふり」をしていただけで、あくまでも自分の主張を通すことばかりを考えていたように思う。
   自分が今、この子を何とかしなければ将来間違った道に進んでしまうなどと、大それた誤解は捨てて、ゆったりとした気持ちで、子どもを受け容れることから指導を始めていきたいと考える。
 
 
 
 
 
3 教師と子どものよりよい関係作り
 
    「ほとんどの教師は規律を維持しようと思うあまり、罰に頼りすぎ
    ている。権力や権威を振りかざして、子どもを従わせようとしてい
    る。そのため児童に本来身につけさせたいと願っている、自主性を
    教師自らがつみとっている。教師の一方的な指導では、子どもの依
    頼心のみが育ってしまい、自発的に考えようとはしなくなってしま
    うのである。」(Gordon,1985
 
  ここでは、教師と児童のよりよい関係を作り上げていくために、Gordon(1985)の中で取り上げている方法を参考にし、筆者の児童指導を振り返りながら検討していきたい。
 
 (1)児童が問題を抱えている場合、教師はどうすればよいのか?
   児童が問題を抱えている場合とは、体育委員長であるが人前では模範演技はしたくないなど、「生徒が怒りや、失望をあからさまにしているとき」(Gordon,1985)である。このような場合教師はどのような対応をしたらよいのか?
    筆者は模範演技をしないH男に対して、責任があるだろうと説教してみたり、お前ならできると、ほめてみたりして見事に指導は失敗した。よりよい関係を作るためには、児童の言葉を聞かなければならないのである。そのための4つの技術をGordon(1985)は紹介している。
   @受動的な聞き方・・・・何も言わず、黙って耳を傾ける。
   A承認を表す方法・・・・あなたの言っていることは、分かっているよと、言葉で言ったり、 微笑やうなずいてみたり、身を乗り出すなどの動作で伝えたりする。
   B心の扉を開く言葉・・・そのことをもっと話してくれないか?とか、もっと聞か               せてほしいなど、相手の話の内容に何も評価を下さない               ような言い方。
   しかし、この@からBの聞き方では、子どもが教師に対して一方的に話しているだけで、会話のやりとりがなく、本当に教師が子どもの言い分を理解しているかどうかが分からないのである。筆者は実際に教育相談のときに、@からBの聞き方はよく使っていたが、話が前に進まずに困ってしまった経験があった。そこで4つ目の方法が出てくるわけである。
   C能動的な聞き方
    「これは、生徒が独自の方法によって教師に言葉でメッセージを送ってきたときに、教師がメッセージの意味を理解しようと解読し、生徒に答える前に自分の理解の仕方が正しいかどうかを確かめるために、フィードバックしてみるという方法である。」(Gordon,1985
    例えば、体育委員長のH男の場合を考えてみると、H男は、「俺やりたくない。」と、独自の方法で私にメッセージを送ってきた。そこで私は、そのメッセージの意味を理解しようとしなかったために、指導がうまくいかなかったと考えられる。つまりここで、「俺やりたくない。」というメッセージを額面通りに受け止めるのではなく、「きちんとやらなければならない」という気持ちがあるからなのかと、解読して、H男に「きちんとやらなければならない、気持ちがあるからなのかい?」と、自分の理解の仕方が正しいかどうかを確かめるために、フィードバックしてみればよかったわけである。これが能動的な聞き方である。そこでH男が「そうです。」   と答えれば、そのことに対する指導ができたであろうし、もし違っていたら、また新たな解読を試みればいいわけである。
    現場にいると時間に追われているため、なかなかこのような対応ができない。しかし、時間がかかってもいいからこの「能動的な聞き方」を指導に取り入れていけば、教師の押しつけによる指導ではなく、児童の気持ちを理解してあげた上での援助的な指導ができるのではないかと思う。
 
 (2)児童のせいで、教師が問題を抱えたときにはどうすればよいか?
   教師が問題を抱えている場合とは、
 
     「生徒の行動が、自分に実際に具体的な影響を及ぼしている時または、
     自分の欲求が妨げられ、受け入れられないと感じているときである。
     手がかりになるものとして次の2つがある。まず、教師自身の感情で
     ある。悩み、欲求不満、怒りなどの感情が起こった時。もうひとつは、
     内的感情の身体的表現である。緊張、不快感、頭痛などの症状が起こ
     った時である。」(Gordon,1985
 
   具体的な場面を例に取り上げると、習字の時筆を床に落とす。理科の授業の後実験道具をもとの場所に片付けない。給食中に大声を出して騒ぎ、教師の言うことを聞かないなどである。このような状況におかれたときに、教師が頻繁に発するメッセージには次の3つがあると、Gordon(1985)は指摘している。それは、「解決メッセージ」「やっつけるメッセージ」「遠回しのメッセージ」である。また、3つのメッセージを発し続けていては、児童の問題行動は最終的には解決できない、とも指摘している。筆者の指導では、この3つのメッセージを見事に使っていた。
   例えば、理科の授業の後、実験道具をもとの場所に片付けない児童に対して、「実験道具をきちんと片付けなさい。ぐずぐずしていると休み時間が終わってしまうぞ。」(解決メッセージ)「何できちんと片付けないんだよ。全くいつもお前たちはそうなんだから。」(やっつけるメッセージ)「一体それは誰が片付けてくれるんだろね。だれかやさしい人はいないもんかな?」(遠回しのメッセージ)
   もう一つ、帰りの会の時間になってもざわついていて、児童がなかなか席に着かない時。「席に着きなさい。静にしなさい。」(解決メッセージ)「もういいです。勝手にしなさい。お前たちはまるで猿だな。」(やっつけるメッセージ)「自分が当番の時こうだったら、どんな気持ちになるんだろうね。」または、ずっとそのままの状態にして黙っているとき。(遠回しのメッセージ)まだまだ例を挙げればきりがない。このような指導の仕方を何故してしまうのか?Gordon(1985)は、次のように言っている。「この3種類のメッセージは、自分自身が子どもの頃、教師や親からいつも言われてきたことである。」なるほど、言われてみると思い当たる点がいくつも浮かび上がってくる。
   児童のせいで、教師が問題を抱えたときの効果的なメッセージは「わたしメッセージ」といわれるものである。Gordon(1985)によると今までのメッセージは、主語が「あなた」の「あなたメッセージ」であり、教師は自分のことは語らず、児童に焦点を当てていたという。教師が問題を抱えている時には、「わたしメッセージ」でなければならないというのだ。
   例えば理科の実験道具の件でいえば、(わたしは)実験道具が片付けられていないと次の仕事ができなくてすごく困るんだよ。帰りの会の件では、(わたしは)みんなが騒々しいと、とても嫌な気持ちになるんだよ。などという言い方である。つまり「自分の感情を相手に伝えるというメッセージである。」(Gordon,1985
   実験的に家庭で使ってみた。わたしが仕事でとても疲れていたときに、5才になる娘が「遊ぼう」と言って肩に乗ってきた。今までのわたしだったら、「うるさいな。何するんだよ。」と(あなたメッセージ)を送っていた。そこで(わたしメッセージ)を使ってみた。「今日はとても疲れていて遊ぶ気になれないんだ。休みたいんだ。」すると娘は、素直に肩から下りて、ひとりで遊び始めたのである。
   Gordon(1985)の言葉を引用すると「子どもは(大人もそうだが)自分の行動が他人にどんな影響を与えているか、気づかないことが多い。しかし、(わたしメッセージ)で正直に非難がましくなく話されると、予想以上に相手の欲求を考えてくれるのである。」
   「わたしメッセージ」を使うことで児童は教師の感情を理解できる。これが繰り返されていくと、児童も「わたしメッセージ」を使ってくる可能性がある。その時教師は「能動的な聞き方」で児童の気持ちを聞いていけばよいのである。また子どもどうしでも「わたしメッセージ」が使われていけば、お互いの気持ちが理解し合え、思いやりの育成にも役立ちそうな気がする。
 
 (3)教師と児童が対立した場合、どうしたらよいか?
   これは、教師側の欲求と児童側の欲求が対立した場合である。つまり、「教師が(わたしメッセージ)を送って自分の感情を伝え、児童も自分の行動が教師にどんな影響を与えたかを理解しても、児童がその行動を変えないような場合である。」      (Gordon,1985
   その原因として、Gordon(1985)は2つあげている。@児童の抵抗力が強すぎて児童が変わらない。A教師と児童の関係が弱すぎて、教師の気持ちに児童が応じようとしない。その結果、教師と児童が対立するというのである。
   Aについては、教師と児童の信頼関係ができていれば問題ないと思う。信頼関係を築くためには、わかる授業を実践したり、児童が問題を抱えたときに、教師が適切に対応したりすることなどが必要であると思う。
   問題は@の状況になったときである。例を挙げて検討していきたい。
    学校にカードゲームなど、学校にもってきてはいけない物を持ってきてしまう子への指導である。これはなかなかうまくいかなかった指導の一つであった。
    教師として筆者は、勉強に必要なもの以外は、持ってきてほしくないという欲求がある。児童には、友達に見せたい、遊びたいから持ってきたいという欲求があって対立しているのである。筆者は教師の権威を振りかざし、「学校には勉強以外のものは持ってきてはいけない。」というきまりがあると言って、児童を押さえつけたり、授業中カードのことが気になって、遊んでしまうからとか、休み時間に友達にあげたり、交換したりして、トラブルのもとになったりするからだめなんだと、「あなたメッセージ」で指導してきた。この指導の仕方は「教師が勝って、子どもが負ける、第T法という解決法である。」(Gordon,1985)その逆の「第U法」という解決法もある。教師が負けて子どもが勝つというものである。子どもがカードを持ってくることに、一方的に教師がやり込められてしまうことだ。これは教師として使いたくない解決方法である。筆者の指導は、ほとんどが第T法であった。
    しかし、この解決法で指導をしていると、児童の表情が暗かったり、徹底されなかったりして、自分なりに納得はしていなかった。教師の顔色をうかがって行動している様子を感じたり、隠れて持ってきたりしている子が実際にはいたのである。 Gordon(1985)も次のような表現をしている。「権威、権力による第T法を使うと、子どもをダメにする。子どもは、反抗、ごまかし、ご機嫌取り、弱いものいじめなど、様々なやり方で、権威、権力に対する処理方法をとるようになる。」
    そこで第V法という解決法がでてくるわけである。これは「勝負なし法といわれ、どちらも負けない解決法である。」(Gordon,1985)簡単に説明すると、教師の欲求も児童の欲求も満たすように、両者で解決策を見つけだす方法である。
    第V法を使った問題解決過程を、Gordon(1985)は6つの段階に分けて説明している。「学校にカードゲームなど、学校にもってきてはいけない物を持ってきてしまう子への指導」を例にして、6段階について考えていきたい。
 
  @問題をはっきりさせる。(ここに一番時間をかける)
   「教師は自分の感情・欲求を(わたしメッセージ)で伝える。(あなたメッセージ)は絶対にさける。児童にも、教師が(能動的な聞き方)をして(わたしメッセージ)で欲求を表現してもらえるように工夫する。」(Gordon,1985
   筆者の場合は、授業中遊ばれたり、カードのことが気になって授業中集中しなかったりされるとイライラするとか、カードの貸し借りでトラブルがあるとその指導のために時間をとられ、自分のやりたい仕事ができなくなるので辛いなどと言えばよい。児童の方からも様々な欲求がでてくると思われるので、双方の欲求をはっきりさせてから「私たちの抱えている問題は、何なのか?、規則は、何が必要か?、どんなやり方をすればいいのだろうか?と投げかけ、問題をはっきりさせる。」(Gordon,1985
 
  A可能な解決策をたくさん出す。
   教師と児童ができるだけたくさん解決策を出す。例えば、カードを持ってきても授業中は出さない。友達には貸さない。休み時間だけ遊ぶ。けんかしない。など、とにかくできるだけ出してみる。
   「この時注意しなければならないことは、提案された解決策を評価しない。どんな風変わりなアイディアでも口を挟まず受け入れる。弁明や説明は求めない。全員が話せるよう手助けするが強要はしない。などである。」(Gordon,1985
 
  B解決策を評価する。
   「教師や児童が受け入れられない解決策は、(わたしメッセージ)で伝え、リストから消す。全員が一つの解決策に同意したとはっきりするまで、各自に発表させる。そのためには焦らないことが必要。」(Gordon,1985
   例えば、晴れた日は外で遊ぶことにして、雨の日など校庭が使えないときは、カードで遊んでよいことにする。などの解決策。
 
  C最前の解決策を決める。
   「複数の解決策が残った場合、多数決では決めない。仮投票はしてもよいが、その結果では、拘束しない。提案された解決策をシュミレーションして検討してみる。決定は一応暫定的なものにしておく。」(Gordon,1985
 
  D解決策を実行する方法を決める。
   「だれが、いつ、何を、いつまでに、やるかを決める。決めたことを書き出し、掲示する。」(Gordon,1985
 
  E解決策がどれだけ問題を解決したか、評価する。
   「時間が経ってみると、予期せぬ問題が出てくる可能性がある。」(Gordon,1985
   例えば、雨の日以外でもカードで遊んでいることがあったり、カードの貸し借りがきっかけでトラブルが起こってしまったなどの問題が出てくる場合である。
   「このような事態が起こってしまった時には、児童のせいではなく、決定が悪かっ    たと考え、もう一度解決策を話し合うようにする。」(Gordon,1985
 
  話し合いの時間が、このような段階をふまえて進められていけば、子どもたちも自分達で決定したことだという自覚があるので、きまりを守るようになると思う。教師からの押しつけでなく児童の自主的な行動が期待できると思う。かなり時間がかかりそうなので、実行できるか実際のところ不安も残るが、「教師が第T法を使って規則を守らせるのに毎日どれくらいの時間を浪費しているかを考えれば」(Gordon,1985)時間をかけてみる価値は十分にあると思う。
 
 
 
 
 
 
 
4 教育現場の問題点
 
  子どもの悩みに耳を傾けること、子どもたちとじっくり向き合うこと。新採の頃の筆者はこれらのことを意識しながら、教師生活を送っていたと思う。ところが教師生活が長く続くにつれて、子どもの行動の表面だけを見て「善悪」で判断するようになり、その場その場で対処してきた自分に気づき、愕然とすることになる。
  学校現場にどっぷりと浸かっていると、今まで意識していたことがいつの間にか薄れていってしまうような気がする。教師が教師らしくなるということは、子どもの気持ちが次第に見えにくくなってしまうような感じさえしてしまう。
  新採の頃の、子どもの前に立ったときのあの時の気持ちがなぜ薄れていってしまったのだろうか?教師という仕事の慣れからきてしまったことなのだろうか?
  ここでは、近藤(1994)Gordon(1985)を参考にしながら、教育現場の問題点を考えていきたい。
 
(1)多忙感
  近藤(1994)は、著者自身の教師経験(大学教師)から、この「多忙感」を取り上げている。私もこの「多忙感」については同感であり、忙しさをどのようにうまく処理していくかが、まるで教師の能力ではないか、と感じてしまうことさえもあった。
  自分の時間を生み出すために、いかにテキパキと事務処理をしていくか、そんなことに力を入れているようなときがある。とにかく教師は忙しい。時間に追われ、ざわついた気分でいることが多い。落ち着いた、ホッとした気分になれる時間がなさすぎる。ゆったりとかのんびりとか、そのような感じが許されないような雰囲気さえ感じることがある。このような生活が長く続くために、子どもに対して自分がゆっくり、じっくり関わることができなくなってしまったのではないだろうか。
  教師にゆとりができれば、児童に対しても、じっくりと対応ができるようになると思う。子どもに対する個別対応が難しい現在の学校の構造的欠陥を改善しない限り、根本的な解決策は生まれず、ゆとりの時間も見出せないかもしれない。忙しさの原因になっている点をいくつか取り上げ、少しでも減らしていけば良いと思うが、楽をしようとしてそんなことを言っているのではないかとか、今までの教師はやってこれたのに、なぜ減らそうとするのかと、批判されるような雰囲気を感じてしまうため、難しい問題である。
  しかし、このままでよいはずがない。ただ忙しいから、何かを減らしましょうという考えではなく、このことをするためにはこれだけの時間が必要である。だからこのことは減らしていきましょうというように、現場での状況を分析することが必要だと思う。もし減らすことを強く求めているのなら、親も含めて学校単位で改善していくことが大切だと思う。
  犯罪を犯した子どもが、学校ではどんな子だったかというと、そのほとんどが、普通の子、素直な子だったという報道が多い。子どもとじっくり向かい合い、子どもの内面を見つめることができなかった結果、そのような子ども像だけしか教師の目には映らなかったのではないだろうか。
  下野新聞の論説(平成13年2月2日)に、次のような記事が掲載されていた。
     「荒れの背後には、理由がある。なぜ荒れるのか、子どもが抱える痛みに寄り添うことが不可欠だ。問題を起こす子どもの出席停止徹底を求める法案も対処療法にすぎない。問題を起こすまで、追い込まないためどんなケアができるのか、どう普段から先生が子どもと心を通わせることができるのか、肝心な点を抜きに出席停止だけを論じても、問題の所存を見失う。」(一部抜粋)
 「どう普段から先生が子どもと心を通わせることができるのか」この点が大いに問題だと思う。子どもと心を通わせるためには時間が必要である。教師に時間的ゆとりが出てくれば、今まで以上に子どもの内面に向き合うような指導ができると思う。
 
(2)教師という役割
   「教師とは本来、目の前にいる子どもの心そのものと付き合う仕事であるはずが、教師という役割が目標に向かって子どもを動かし引っ張っていく仕事になっている。そのため児童の表面にあらわれた行動が目標に合っていれば良しとし、逆に目標に向かって思い通りに動かぬ子どもに苛立ちをつのらせ、その行動だけを叱って全てが済んだ感じになっている。」(近藤,1994
   このような教師という役割を、いったん脇に置いてみることが必要であると近藤(1994)は指摘している。教師という衣を脱いで子どもの傍らに立ち止まり、子どもから発せられるものをそのまま虚心に受け取る姿勢が必要であるといい、隣のおじさん、おばさんのような気持ちになってみるという工夫をしてみてはどうかとも、指摘している。教育の現場では、教師に対して世間が要求していることが多い。そのため、教師の役割という「衣」を身にまとって自分を守ろうとしているのである。教師が何でもかんでも全てを受け入れ、あれこれやらなければならないという意識を変え、程々にやっていこうというくらい、気軽に考えていった方がよいのかもしれない。教師はスーパーマンではない。教師という役割にがんじがらめに縛られることなく、ひとりの人間として、指導に当たっていきたいと思う。
 
(3)教室環境
   学校の教室というと、どこも似たような設計や装飾になっている。そのことについて筆者は慣れ親しんでいるため、別に何の疑問も持っておらず、こういうものだという意識でしかいなかった。
   しかし、椅子一つ考えてみても、長時間座っているとお尻が痛くなる。ソファーだったらゆったりした気持ちで授業も受けられるだろうと思う。子どもの椅子をソファーにするなど現実的ではないが、ソファーの柔らかさ、温かさが児童に与える影響は堅く冷たい感じがする今の椅子に比べると、ずいぶん違ってくるのではないかと思ってしまう。
   以前筆者が勤務していた学校の特学の教室は、児童に人気があった。床には絨毯が敷かれ、ソファーもあり、教室全体が何となく温かい雰囲気でホッとする空間なのである。普通教室にも、このような雰囲気があれば児童の気持ちにもよい影響を与えるのではないだろうか。
   我々教師は児童のやる気を引き起こすために、また、児童が生活しやすくするために、教室環境に様々な工夫をしてきている。Gordon(1985)の中に、教室環境を改善していくための、現実的に可能な方法が紹介されていたので、いくつか取り上げてみたい。
   ・装飾を明るい色にする。
     壁面が暗い色だと教室全体も暗い感じになってしまう。明るく温かみのある色で装飾するとよいのかもしれない。
   ・必要なもの以外全て片付ける。
     教室内が雑然としていると、児童も教師も何となく落ち着かずざわついた雰囲気になってしまいがちである。
     時間がなくて、なかなか片付けまで手が回らないのが現状だが、児童のための環境整備として意識しておかなければならないことである。
   ・時々他のクラスと合併授業をする。
     教師にとっても児童にとってもよい刺激となりそうな気がする。(単学級では無理だが、低、中、高のブロックなどで教科によっては可能である。)
   ・机の配置を時々かえてみる。
     話し合い活動や給食などで、すでに実践していると思う。その場の指導に合った机の配置を、教師は意識しながら実践していく必要があると思う。
   ・鉛筆削りやくず箱を増やす。
     なん箇所かに設置しておくと混雑は解消される。数が少ないために、トラブルの元になることがある。児童や教師のイライラも減る可能性がある。
   ・ドアの把手や物かけを低いところにつける。
     サッシの鍵が低学年のところは、低い位置にあるとよい。大人の目線ではなく常に子どもの目線で物を見るような、意識を持つことが大切である。
   ・運動用具の保管場所を再検討し、児童が自分で管理できるようにする。
     設計の段階で考慮すべきだと思う。体育館の器具庫や校庭の体育小屋など使い     にくい学校が多い。
 
   「教室は教師だけの所有物ではない。そこに集まるみんなの部屋なのだ。
    児童にも教室環境の再整備に参加できるチャンスがあれば、献身的に
    なる。教室は私たちのものと考え、責任を持つようになる。ぜひ、教
    室環境改善には、児童を参加させるべきだ。」(Gordon,1985