1 歴史的経緯と本来の目的・定義
栃木県教育委員会事務局義務教育課(1998)によると、「文部省では(現在は文部科 学省)小中学校の別なく『生徒指導』と表現しているが、栃木県では小学校を『児童指 導』中学校を『生徒指導』と区別している」と書かれている。以下文章表現で、生徒指導という用語が出てくるが、生徒指導=児童指導として理解していただきたい。
生徒指導はGuidance Of Pupil Personnel Workの訳語であり、平たくいえばガイダンスである。 まず歴史的経緯について、上寺(1982)、仙崎(1990)を参考にして以下に述べる。
1946年(昭21)米国教育使節団による報告書で戦後の日本の教育
再建の基本方針が示された。その勧告を要約すると、@人間の人格の重要
性 A児童生徒の個人差を重視した教育計画 B個々の児童生徒の発達の
ための教育方法等である。
1947年(昭22)CIE(The Civil Information and Education
Section 民間情報教育局)のカーレー(carley,v.a)の指導のもとでガイダ
ンスやカリキュラムの講習会が行われた。
1948年(昭23)前記の指導の報告書として学芸図書より教師養成
研究会編「指 導」が公刊された。同年9月から1952年3月まで8期 にわたり教師の再教育のためIFEL(The Institute For Educational Leadership 教育指導者講習会)が全国で開催され、そこでもガイダンスが重要な講義内容とされた。
1949年(昭24)文部省「児童の理解と指導」や「中学校・高等学
校の生徒指導」が公刊された。これを契機にガイダンスに関する翻訳的・
啓蒙的著作が数多く出版された。
1951年(昭26)日米講和条約を契機に、ガイダンス的生徒指導の
形式主義化やテスト技術主義への不満もあって、日本的な生活指導への関
心も高まっていった。
1951年の無着成恭「山びこ学級」の刊行が導火線となり、生活綴り 方教育法が注目された。一方個性理解に基づくガイダンスやその発展としてのカウンセリング、集団指導を含めた生徒指導的生活指導の研究もなされた。
1964年(昭39)文部省は生徒指導を担当する教師100名を全国
に配置し、他方生徒指導推進校を全国に設け生徒指導の普及に努め、文部
省主催の生徒指導主事講座や都道府県と共催の中学校・高等学校生徒指導
講座も開かれた。
1965年(昭40)3月文部省は「生徒指導資料」として「生徒指導
の手びき」を公刊した。
この「生徒指導の手びき」の中に初めて生徒指導の目的が書かれている。
「生徒指導は人間の尊厳という考え方に基づき、一人一人の生徒を常に目的自身として扱う。それは、それぞれの内在的価値をもった個人の自己実現を助ける過程であり、人間性の最上の発達を目的とするものである。」
さらに生徒指導の意義として次の5つのことが書かれている。
@生徒指導は、個別的かつ発達的な教育を基礎とするものである。A生徒指導は、一人一人の生徒の人格の価値を尊重し、個性の伸長を図りながら、同時に社会的な資質や行動を高めようとするものである。B生徒指導は、生徒の現在の生活に即しながら、具体的、実践的な活動として進められるべきである。C生徒指導は、すべての生徒を対象とするものである。D生徒指導は、統合的な活動である。
しかしこれはあくまでも意義であり、生徒指導とはなんぞや?という定義となると、 1988年(昭63)3月「生活体験や人間関係を豊かなものとする生徒指導」を待たなければならない。そこには生徒指導の定義として次のように書かれている。
「生徒指導とは、本来、一人一人の生徒の個性の伸長を図りながら、同時に社会的な資質や能力・態度を育成し、さらに将来において社会的に自己実現ができるような資質・態度を形成していくための指導・援助であり、個々の生徒の自己指導能力の育成を目指すものである。そして、それは学校がその教育目標を達成するためには欠くことのできない重要な機能の一つなのである。」
要約すると、一人一人の生徒の個性の伸長を図りながら、社会的な資質や能力を高めようということである。
2 今日の児童指導の考え方
児童指導というと過去の経験上私には、子どもが望ましくない行動をとったときに教師が叱るというイメージがある。これはあくまでも私のイメージであるが、しかし多くの先生方は「児童指導といわれてどんなイメージがありますか?」と聞かれたときに、前節に記してある定義をすぐにイメージできるであろうか。なかなか難しいと思う。児童指導の一般的なイメージが「一人一人の生徒の個性の伸長を図りながら、社会的な資 質や能力を高めるということである。」という考えからかけ離れていってしまったような気がする。その原因として、一体どのようなことが考えられるだろうか。
中学生を中心とした暴力化現象、近年のいじめ、自殺、非行の低年齢化、不登校、無気力傾向の児童等、様々な問題が学校現場で起こるようになってきた。このような大きな問題以外にも、日常茶飯時的に些細な問題は数多く起こっている。教師は多様な問題行動の対策に日々追われることが多くなり、児童指導に対する受け止め方が変わってきてしまったのではないかと思われる。
元々児童指導には積極的側面と消極的側面とがあり、非行等問題行動の解決にあたるのが消極的側面である。積極的側面とは児童指導の定義に即したものである。今日の児童指導の考え方は消極的側面のみがマスコミの報道などによってクローズアップされているような気がする。
しかし、内山(1990)によると「生徒指導には、消極的、積極的の両側面が考えられるが、積極面を推進することは、消極面である非行、不安などの諸問題の解決にも寄与するし、逆に正しい指導、治療、解決は生徒指導の積極的諸側面の発達、成長を促進するという意味でこれらの二つの側面は表裏一体となっている。」というのである。
私たちは、児童指導の両側面について、それほど強く意識する必要はないと思う。
現在は「一人ひとりの個性を生かしながら」とか「子どもに生きる力をつけさせるために」などと、言葉ではよく言われ続けているが、それをどのように現実的・具体的に実現させていくのかということが議論されていない。理念と現実のギャップを埋める努力がなされていないような気がする。
今後我々教師は、現場での子どもの実態をつかむために、子どもの言葉に耳を傾けたり、今までの自分の指導法を振り返ったりすることが大切だと思う。教師同士で悩みをぶつけ合い、うまくいかなかったのはどこに原因があったからなのか、どのようにしていけばうまくいくのかということを真剣に話し合い、理念を実行させるための具体的な方法を探っていく必要があると思う。