君がそこに そしてどこかに それより君が いつかたしかにいたってことを 僕は知っている (巻頭の詩より引用) 「私のはじめての本」 「この本は、こういう本を作りたくて、自分でスケッチブックで本のように作っていろいろ見せているうちに、出させてもらったものです。いろいろな部分の予兆がみえます。」 (「つれづれノート」158ページより) ずっと探していた本でした。もう18年も前の本ですからあきらめていたのですが、もしやと思い河出書房新社のホームページをのぞいたら在庫がありました。 この本のあとに出版された「無辺世界」の袴に「精神界の吟遊詩人」というキャッチフレーズのようなものがあります。夏生さん自身も河出書房新社から出版された4冊の本は、「私のごく内面の世界をあらわしていて、私の人生の中でも、特別な空間を形作っています。」(つれづれノート」160ページ)と書いています。また、158ページには、この作品について「ちょっと精神的お話世界」とご自身が紹介をしています。 20歳代の夏生さんの精神的世界ですが、「いろいろな部分の予兆がみえます。」と書かれているようにこの間の夏生さんを知るうえでも欠かせない本ではないかと思います。 精神的な世界をあらわしているということでは理解するのに難しいものがあると思います。鈴や鐘の音、光等々、象徴的なものもあります。一方では恋愛観や宗教観もあらわれています。 読むとすんなりと読み終わってしまうのですが、独特な世界に引き込まれてしまいます。 夏生さんの詩といえば、恋愛の詩がほとんどなのですが、その恋愛の中に人生一般に通じるものもあります。夏生さんの生き方というのか、そういうものも見えるのですが、この黄昏国は、この恋愛から離れても純粋に夏生さんの人生観が見えるのかもしれません。 何度か読み返すうちに夏生さんの精神世界に近づけるのか。。。。?他の詩集なども含めて読み返していきたいと思います。 2003年8月 夕螺 |
P.9 よほどの細い道でもなければ |
二人並んで歩く時、肩が触れ合いそうになるような細い道でないと手はつなげないそんな二人。これといって交わし会うような言葉もなく、鳥の声に助けられて探し会う言葉。なんか初々しい恋を感じますね。同じような詩に、共通の友達の話題が終わったら交わす言葉がなくなったというような詩がありました。夏生さんはこんなはじめて会うようなおデートが苦手だったようです。 |
P、11 paradise health |
天国(楽園)の健康? よくわからない詩ですが、ポケットの中の白い紙を探すとか、その紙に書かれたメッセージという言葉は、後の書かれた「夕方らせん」の一節を思い起こします。ポケットの中のちぎられた紙切れ、それにはメモや物語の切れ端だった、それは「何か、力を持っているだろうか。」と。「メッセージを彼は持っている」という詩の一節にこんな力を感じさせるものを連想します。 |
P、14 あのとき君が僕に・・・・ |
あのときは絶対に与えたはずの心。あのときはたしかに受け取った心。でも今では・・・・ そんな優柔不断さ。優柔不断は夏生さんの詩に多いです。 |
P、17 春の小川で |
「糸をえり分ける作業」心の中のからんでしまった糸をほどいて素直な気持ちで。「流星の人」に出てくる糸使いを思い出します。「種をちょうどのところに並べる作業のあなた」いろいろな物事を論理的に片づけていくような心を感じます。そんな素直な二人の恋は言葉もなく。。。。 |
P、23 僕は鈴をならす |
夏生さんの僕たちへの言葉だと思います。かすかに鳴るささやかな鈴の音。夏生さんの心の中はそんなささやかな音色のようだけどわかろうとする人には聞こえてしまう。淋しく悲しい鈴の音。。。。 |
P、32 小ちゃいころから・・・・ |
夏生さんの育った環境に興味があります。 |
P、39 11時のかね |
「11時のかねはあの音」よくわかりませんが、この鐘の音は人々に大きな感動を呼び起こしたり、歓喜させるような音ではなく、心を落ち着かせるような、のほほんとさせるようなそんな音ですね。「流星の人」のような心に湧き起こるある雰囲気を感じます。 |
P、43 神様のお家 |
夏生さんの作品に出てくる神様は、荘厳さや近寄りがたいものを感じさせるような神ではなく、人間と同じような、時にはかわいらしい神様です。現実の世界をみれば、全知全能の神が優れた人間や社会を作ったとはいいがたい。そんな不器用な、間の抜けた、いたずら好きな神様が作ったから。。。。。そんな感じがします。 |
P、51 スクール |
昼下がりの静まりかえった体育館。考えるともなく頭の中に浮かんでくる感情。そんな中に笑い声とドタドタとした階段に響く足音。聞こえてはいるがそれはただの音。自分には無関係のようにボールは静かに運ばれていく。こんな現実と離れたところにある自分の感情。あるいは自分が好きな人もそのかけ離れた現実の中。「哀しみの憂うつ」 |
P、64 「天使は、首からぶらさげた」 |
夏生さんの恋愛観には、表面的な恋愛関係よりも、何か心が通じ合うような恋愛があるように思います。そして夏生さん自身、自分の進む方向を大切にする人です。天使は心のおもむく方向に進みなさいと励ます。。。。そんな証明印のような印鑑を首からぶら下げてあらわれる。 |
P、71 竹林の神さま |
45ページに「おだんご」と書かれたイラストがありますが、「おだんご」って何だろ?おだんごという言葉だけが緑色の字になっています。「かがやくばかりのおだんごよごれ」なんかほんのりと笑ってしまいました。「おだんご」という言葉にほんのりとした響きを感じます。竹林の神さまはこんなほんのりとした神さま。。。。 |
P、84 「神さまの真顔」 |
このお話も神さまのお話。神自身がこの世に人間を作ってしまったことを「悲しい過去」と。。。。。人間は物欲に走る。「子馬がほしい」「チョコレートの小山がほしい」。。。。。でも小さな子供二人は、「ぼくたちふたりをください」と。人間の中にも物よりも自分自身を愛おしく思う者がいる?神はこんな人間をみると真顔になり過去の哀しみを忘れる? |
P、86 「ふくろはりアメンボウ」 |
げんごろうは物を入れる紙の袋をアルバイトで作っている。それをみたアメンボウも袋を作ってみようと。でも、アメンボウの袋は物が入らない空気の袋。。。。。そこに宝物をたくさん入れようと思った。物ではない宝って?すばらしい感動など豊かな心ですよね。 |
P、92 月のすむ川 |
清らかな川にすむ3人の月の光。ひとりの男に三つのくもった玉を渡す。玉は光り輝き、よい音色を響かす。(鈴や鐘の音が作品の前のほうに出てきますが、この音というのはくもった玉を光らせるときに生まれる音なのかもしれません)月の光達はひれ伏して、男は神となる。「このように人々は、ある意味でみな神であり」そう、澄みきった心は神である。そしてこの澄みきった心は「生活と平行して」住む世界のあちらこちらのくもった玉を光らせることができる。「生活と平行して」というのがこの物語のすごいところだと思いました。 |
P、114黄昏国のおつかい |
黄昏の国、扉はたそがれの時にだけ開く。「夕方らせん」につながりますね。黄昏国、郷愁と憂愁がらせん状に絡まる国。。。。。 |
P、122ページから最後まで |
「だれでもいちどはしぬんだよ」「ワッペンをあげるから」「また会おうね」すごいワッペンのイラストです(笑)でもこのワッペン、「あたろうの哀しみ」という物語の最後に出てきて、哀しみのあたろうがワッペンをはずすと書いてありますが、ワッペンって、心の張りというのか、勇気づけられる物というのか、とっても大切な物。「無辺世界」では夏生さんが登場してワッペンをあげるというような物語があったと思うのですが、僕たちにとっては夏生さんの作品がワッペンなのですね!! |
2008年11月8日 2回目の感想
「私のはじめての本」
「この本は、こういう本を作りたくて、自分でスケッチブックで本のように作っていろいろ見せているうちに、出させてもらったものです。いろいろな部分の予兆がみえます。」
(「つれづれノート」158ページより)
銀色夏生さん25歳。
この作品は、多くのイラストを挿み、詩をはじめ短い物語が書かれています。銀色夏生さんは多くの作品にイラストを挿入していますし、そのイラストの世界も読者にとっては興味深いものとなっていますし、翌年発売になる「これもすべて同じ一日」では、写真を挿入した詩やエッセイの本が発行されます。このイラストや写真を入れた詩の世界は銀色夏生さんの独特な世界で、特に「写真詩集」というものは銀色夏生さんの作品としては切っても切れないような世界となります。文中のイラストは後の日記エッセイ「つれづれノート」シリーズの作品に欠かせないものですし、写真は一時勉強されていたようでやはり独特な動きのある世界をつくっています。
短い物語は、やはり翌年発行される「サリサリ君」という絵本の世界ともつながりますし、「イサクのジョーク」という小説ともつながっていくと思います。特に「四コママンガ」や子豚シリーズに近いものがあるかもしれません。後に当時中学生だった丘紫真離さんの「黄色い卵は誰のもの」という本の帯に推薦文を書いていますが、どこかあどけなさのあるような絵本のような物語は「黄昏国」の特徴で銀色夏生さんの世界です。
このような意味において「いろいろな部分の予兆」がこの作品に出ているということでしょうか?
「無辺世界」のおはなしは、今、見ても、ふるえるほど感心します。(河出書房新社発行の「黄昏国」「無辺世界」「サリサリ君」「月夜にひろった月」−夕螺注)以上の4冊は、私のごく内面の世界をあらわしていて、私の人生の中でも、特別な空間を形づくっています。とても、ありがたい宝です。」
(「つれづれノート」160ページ)
銀色夏生さんの詩は恋の詩というイメージが強いですし実際恋の詩が多くあります。しかしこの恋の詩の中には恋にあこがれるというような単なる恋の甘さがただようような詩ではなく、日常のさまざまな雑多の中に生きる一人の女性が見えます。その心の世界です。「黄昏国」も恋の詩がありますがひとつの精神世界があり「ごく内面の世界」「特別な空間」がより色濃く出ています。この意味において銀色夏生の世界を知る貴重な作品ではないかと思います。
「黄昏国」は、
「君がそこに そしてどこかで
それより君が
いつかたしかにいたってことを
僕は知っている」
というプロローグの詩からはじまります。
ながいながい時間の流れの中で一瞬の時間を受け取って僕は生きている。片隅で。。。。
でも生きていることはたしかで生きていたこともたしか。。。。
こんな僕がここにいる、どこかにいたんだよねと見つめてくれて励ましてくれるような詩です。
人は孤独に生きている。そんな孤独を見つめてくれる夏生さんの詩です。
そしてエピローグともいえる言葉が
「だれでもいちどは
しぬんだよ」
「ワッペンをあげるから」
「また会おうね」
というものだと思います。
「ワッペンをあげるから」という言葉のページには「SILVER
SUMER
BORN」(銀色夏生)と書かれた夏生さんのお顔?のワッペンのイラストがあります。その顔は、驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と。この複雑な顔のワッペンのイラストに「黄昏国」という作品から受け取るものがあるのではないかと思います。夏生さんは「銀色夏生の視点」で、ご自身の気持ちの中にあるものは「悲しみ」であると語っていましたが、それは孤独というものの中にあるのではないでしょうか?
「無辺世界」の中には、「私が神様です」と、なんだか情けないような貧乏神のような神様のイラストがあります。「黄昏国」にもなんとなくちんまりとした神様が描かれていますが。これもまた夏生さんの人生観を表しているのかと思います。
神は人に完全なものを与えなかった。人が互いに容姿を見ることができるような互いに互いの心を見る能力は与えなかった。ここに人の心は孤独と悲しみの中に置かれる。心が互いにすれ違いながら孤独に生きている中に社会は目に見えるものとして存在する。だからこの社会に生きている人はワッペンの顔にある驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と笑ってしまうような中に生きていく。「黄昏国」は、夏生さんらしい透明な孤独と悲しみとして描かれる。
「黄昏国」にも多くの恋の詩があります。
「あの時 君がボクにあたえたと思ってるものを
あの時 実はボクは 受けとらなかったんだ」
ここに男女間の心のすれ違いがあります。
互いに心を確かめられない悲しみ。。。。。
しかしこれは恋ばかりではなく、日々生活をしている中での人と人との中に常にあるすれ違いでもあります。時には広い宇宙空間に一人漂うような孤独と悲しみにとらわれる。
しかし情けないような神がこんな人を創ったことに孤独や悲しみがあると同時に、その孤独と悲しみの中にいるからこそ喜びもあります。
「鳥の声 聞けば 驚いたようにさがしあい
花の色 みれば ああ それとばかり教えあう」
「えり分けなれた私の手が 水面を指さし
ならべ上手なあなたが視線を添える」
孤独の中にある互いの心がふと重なり合う瞬間の喜び。
恋ばかりではなく、人の持つ喜怒哀楽は心という孤独の中に沸き立ちまっす。
「11時のかねが鳴る
青くるしい丘の上から
世界中へ それは伝わり
サイロの少年は 働く手を休める」
一つのものに触れたとき、人は互いに結び付けられ平安な心を持つ。それは孤独と悲しみを一時的であっても癒してくれる。
人は孤独と悲しみの中にいるから人の心を求め合う。すれ違った心のワッペンのような顔をしながらそれを繰り返しているのでしょう。
それを夏生さんは読者に問いかけるのかもしれません。
「僕は 鈴を鳴らす ならす
僕は 鈴を鳴らす ならす
その音は それを それとわかる人に
どうしても聞こえてしまう」
驚き・戸惑い・怒り・悲しみが入り混じり、そしてアハハハ・・・と、常に鈴を鳴らし続ける。そしてその鈴の音が聞こえたら夏生さんからワッペンをもらえるのでしょう。すべての人が心のつながりができるとするのは空想かもしれませんが、いつかこの鈴の音を聞いてくださいと鳴らすことができるのは現実です。
夏生さんの世界は、恋の甘ったるい世界でも、人を美しいものと描くような世界ではありません。人のもつさまざまな心の奥底にあるものを見つめます。その中に「生きるって?」を鈴の音のように鳴らし続けます。