赤い記憶 CHAPTER 1
『お前、な、まえ、なんてんだ……?』
心臓に、刻み付けられた、声。
血の記憶。
血まみれの視界に、血よりも鮮やかに映った髪。
そいつを見た瞬間、はじめて、世界がはっきりと見えた。
音が、はっきりと聞こえた。
光の矢が、音の洪水が、肌に触れる風や温度が、漂う匂いが、いきなり自分に叩き付けられる。
突然で、何が何だか分からなかった。
産まれてからずっと、何処かで渇望していた瞬間。
だが生涯、自分にそれが起こるとは全く思っていなかった。
だから。
自分の中の異変に気付いても、意識に上らせるのが「遅過ぎた」。
『…………!』
驚愕し、咎める様な叫び。
一見、大学を出たばかりと間違う様な、何処かあどけなさが残る、だが、恐らく30を少し越えた位の風貌、
驚くほどの赤い髪。厚い唇。
13才の自分よりも、二回りは大きい、がっしりとした身体。
「あいつ」が、最初に喋った言葉は忘れてしまった。
その声を聞いた瞬間、自分の中の異変に驚き、麻痺してしまい、忘れてしまったのだ。
悔やんでも、悔やみきれない。
自分の記憶をたどれば。
40ぐらいの年格好の女の胸を、何度か刺した後、奴の叫び声を聞いたのだった。
その日は、もう捕まってもいいかと思い、計画も警戒も全く頭に入れず、行きずりの人間をどんどん刺していった。
いつもなら、刺すのは1日に1人までと決めていたが、その日は、何故だか気持ちが「逸って」いた。
予感があったのだろうか。
1人では収まらず、逸る気持ちで、血でぬめる手と、ナイフをジャージの裏で拭い、すぐに次を探した。
最初に刺した相手はまだ生きていて、いつもなら息絶えるまできっちりと何度も刺していたが、
その時はじっとしていられなくて、そのまま放っておいた。
2人目を見付けて何箇所か刺し、場所を変えてまた次を刺していくと、どんどん心臓が早鐘を打ち出す。
どくんどくんという、耳にまで聞こえる音を持て余しながら、5人目を刺していると、
「奴」の叫び声が、突然降ってきたのだ。
その時。
生涯、延々と、休むことなく壊れた様に思い出しては、俺を狂気に墜とすだろう、その時の記憶。
その時の、愚か過ぎる自分の行為。
俺は、最初は機械的に「6人目」として、途中から、無性に腹が立ち、どうしようもない欲望と興奮を感じて、
最後には、憎しみと執着心で「あいつ」を刺しに行ったのだ。
今でも、思い出しては、絶望と嘔吐と共に、己の臓物を引きずり出したくなる。
あの時俺は何故。
刺された女を見て、驚愕して、何かを怒鳴る「そいつ」。
俺の姿を見て、その綺麗な瞳が一杯に見開かれた。
そいつの仕草の一つ一つを、スローモーションの様に何もかも覚えている。
あれほど叫んでいたのに、俺の姿を見て、暫く憑かれた様に動かなかった。
揺れる髪、潤んだ、呆然とした瞳。我に返り、寂しそうな飢えた様な、何故か少し、辛そうな表情をし、小さく唾を飲み込む。
その喉の動き。
そいつは俺にかまわず女の元に駆け寄り、しきりに声を掛けながら、手首をとって脈を測る仕草をしたり、
女の血だらけの胸に、顔を横むきに当てたり、セカンドバッグからペンライトを取り出してまぶたを覗き込んだりしはじめた。
だがやがて、暗い表情でペンライトを消して、おもむろに立ち上がる。
俺は下ろしていた手を再び持ち上げ、切っ先をそいつに向けた。
奴の瞳が鋭くなり、ナイフと俺から目を逸らさず、後ろに下がると、正面から構えてきた。
「ガキが。……死んじまったよ、この人」
するりと頭に飛び込んで来る様な、怒りを抑えた落ち付いた声。恐れやうろたえた様子が微塵も感じられない。
「こんなひでぇことしやがって。……最近の通り魔殺人は、みんなてめーの仕業か?」
「……だったらどーした」
「女、子供までザクザク殺すなんざ、最低だな」
言いながら、そいつは、アスファルトを踏みにじる様にして、少しずつ左に移動しはじめる。
街灯の光の円から、そいつの姿が外れ出した。
「お前みてーなイカレたヤツとは関わりたくもないし、殺されてやるつもりもない。……オレ様に見られて残念だったな」
そいつの顔に付いた女の血が、妙に目に飛び込んで来る。
「……別に。お前、今から殺すし」
ピク、と一瞬、俺の声にそいつは動きを止め、フッと口を歪めた。
「…ばぁーか。お前みてーなガキに、この天才様が殺られるワケないっつってんの」
「……どあほー」
奴の表情に魅入られながら、血まみれのナイフを握り直す。
「いい大人がふざけた頭しやがって」
マヒした頭は、その男を刺すことしか考えられなかった。
「その頭から、刺してやる」
「ほほぅ。てめーの背丈で届くのか?」
「……うるせー」
言いながら、身体全体でバネを使い、奴の額目掛けてナイフを繰り出す。
ナイフは額のある場所まで届いたが、手を打ち込んだ時には、もうそこに額はなかった。
奴は直前に頭を横にずらし、ナイフを繰り出してきた腕を逆に掴もうとした。
こっちの方がスピードが速かったので、手を掴まれることはなかったが、明かに今までとは勝手が違う。
その手応えに、夢中になりはじめてしまった。
「……ち」
今まで刺す相手を選んだりはしなかったので、男の大人を刺したことも何度かある。今までどんな相手でも、相手の動きは遅く見えた。
今も、反射速度に不安は全くないが、こいつは違うと、その時感じた。
「…おもしれぇ」
それを聞いて、奴の眉がひそめられる。
「このヒトデナシ。人殺しをおもしろがるんじゃねー」
「……………」
「殺された人の家族が、どんなに哀しんでるか、分かってんのか」
時折蹴りを入れるが、上手くかわされてしまう。大きな体格のくせに、そうは思えない動きだ。
「親父さんや、お袋さん、泣かすんじゃねぇ」
溜息。
「……よく喋りやがる」
「あ?」
「てめーが人殺しみてーな顔して」
「……んだと」
眉間に皺をよせるそいつの髪に、魅入られる。
「その頭、血で染めてんじゃねーの」
思わず、立て続けに煽っていた。
「アんだと、コラぁ!言っていいことと悪いことがある!」
案の定、そいつは顔を一瞬引きつらせ、真っ青になり、次に真っ赤になって怒って突っかかってきた。
「ふざけてんじゃねー!!」
一目で分かる、青年期を過ぎてなお、裏表のない、いかにも真っ直ぐな気性。素直で単純そうな性格。
そんなヤツは山ほどいるし、意識すらしなかったが、この男に対してだけ、今まで感じたことのない、ゾクゾクとした嗜虐心を煽られる。
「…………っ」
奴は、俺の繰り出すナイフを更に除け、左頬に一発パンチを入れてきた。
口の左内側の皮膚が歯に擦れて切れ、血の味がし出す。頭を振って、ふらついた視界を戻しながら舌で口の中を撫でると、
肉の切れ目が分かった。
「おお、吹っ飛ばされなかったのはエレーぞ」
「……にゃろう」
「そのナイフ、奪ってやる」
俺を見つめる瞳。
瞬きも忘れ、そいつの姿を目でたどっていく。
鼻梁、前髪やもみ上げの生え際、精悍で、太い眉の動き、ふっくらとした耳たぶ、顎から赤いセーターのとっくりに見え隠れする喉仏、
厚く、半開きの唇。
顔を形作るパーツが、暗い街灯と月明かりの見えにくい中、やけに目に跳びこんで来て、吸い寄せられる。
喉が、乾いてくる。
思わず、コクリと唾を飲み込んだ。
手の平で触りたい衝動に駆られ、何とか奴に近こうとする。
小刻みにナイフを動かし、あらゆる角度で突き出しては、手元に引き寄せる。
そいつは、そのどの動きにも無駄なく反応し、最小限の動作ですばやくかわしていく。
合間にフェイクを何度か入れてやると、3回の内、1回は引っかかるのが素直で面白い。
ナイフがコートの袖に一度掠り、次のフェイクでそいつの頬に掠った。
暫くすると、頬の傷跡から血がぷつぷつと浮き出してきた。
それを見て、軽い酩酊感に襲われる。
「……キレーな血だな」
思わずつぶやくと、奴は、複雑そうな顔をした。
「……けっ。このヘンタイが」
研ぎ澄まされた時間。
怯えない、闘争心をちらつかせた相手に向かって行くのは、妙に心地よい。
殺されて行く相手なのに、何故こいつは、こんなに生き生きとしているんだろう。
いつかは殺さなければならないのが、惜しい気がする。
「その血、もっと、流してやる」
ずっと、この時間が続けばいいと思った。
突然、音楽が聞こえ出した。
奴の意識がジーンズの尻のポケットにいっているのが分かる。
数十年前から、見た目が変わり映えしないと言われているケータイだ。
とりあえず、地球上なら大抵何処でも繋がり、切れるという心配はない。
省エネ設計なので、充電の必要もない。
監視はきつくなっている。緊急の場合、すぐ警察や消防が出動出来る様、相手の状況を声や画面から
機械が読み取り、瞬時で分析して事件や事故災害、容態が認められれば、要請がなくても出動してくる。
画面非表示にしていない限り、じきにここで今何が起こっているか、警察、及び相手に知れるだろう。
場所は既に、探知されている。
「おお、ちょっと待て……って言っても、待たねーよな?」
「……たりめーだ」
そうだよなぁ、と言いつつ、笑いながら、奴の左手がジーンズの後ろへと回る。
この男が選ぶらしい、力強く軽快な音楽が、早く取れとばかりに、腰の辺りから流れ続ける。
腹が立った。
「……遊んでんじゃねー」
気を逸らされたことに無性に腹が立ち、ケータイを取らせまいとして突っ込んで行く。
「うわ、ちょ、ちょっと待てって!」
「……うるせー」
取るな。そんなもん。
警察がやってこようが、そんなものはどうでもいいが、ただ腹立たしかった。
「……その口、削いでやる」
再び殴られた。
「……あ、晴子サン?オレ、花道」
甘い声。
その一言で、頭に血が上る。
猛然とかかっていった、俺のナイフを除けながら、奴は話し始める。
「ゴメン、ちょっと遅くなる。……いや、ちょっとヤボ用で。あ、メシ食べマス!でも、待ってなくていいデスから…」
嬉しそうに話を続ける。
奴は、俺のことを、何も言わない。
ケータイも画面非表示にしているらしく、耳に当てたまま、俺の姿や、周囲を全く写そうとしない。
「先に休んでて下サイ。……晴子サン、最近疲れてるみてーだし」
「……帰れると思ってンのか」
「あぁ?帰るに決まってんだろ!……あ、いや、ゴメン、こっちの話。え?……あー、ちょっと知り合いと会っちまって…はあ」
「……どあほう」
「ンだと!?……い、いや違いますって、ケンカなんかシテませんから」
べらべら喋りやがって。
こめかみがピリピリする。額の中が、押さえ付けられた様に、無性に痛くなる。
名前を知った。同時に、女がいることを知った。
「……言えよ、そいつに。今、殺されかかってるって」
「……はあ、はあ」
『花道』は、横目で俺を見ながら、尚も話し続ける。
殺してやる。
頭痛が酷くなり、どうしようもない、憎しみが湧き上がった。
生まれて初めての、強い負の感情。
憎悪。
「……帰さねー」
花道が、真っ直ぐに俺の目を見た。
NEXT
2002.04.25 UP/2002.04.26,27 加筆改訂