面白いディベートを成立させるための最も重要な条件は論題の選択である。最高水準のディベーターといえども、天動説の正しさを論証する段になっては勝ち目はあるまい。そのためディベートの際には、肯定側と否定側の均衡のとれた論題を選ぶことが最大の眼目になる。論題の例をいくつか紹介したい。
公共の場における喫煙の是非といった問題は、いいディベートの論題になる。だが喫煙は健康に悪いかどうかといった問題はディベートの論題にはならない。喫煙の危険性を示すさまざまな証拠があるからだ。
原発は安全かどうかといった問題は、ディベートも論題に向かない。ひとつにはほとんどの原発は事故に備えて過疎地に建設されているためであるし、もうひとつには国内でも外国でもいくつかの原発事故が実際に起きているからだ。しかし、原発建設の是非という問題はいいディベートの論題になる。原発が莫大な電力を生み出すことは自明だ。原発事故の不安とともに豊かな生活を送るというのも、ひとつの選択ではある。
ディベートを行う場合通常、肯定側になるか否定側になるかは開始までわからない。だから、自分の意見とは関わりなく肯定否定両側の準備が必要になる。これはディベート思考の最大の長所といえるだろう。ディベートによって多面的思考が可能になるからだ。だがこの長所こそが、ディベート思考の最も危険な落とし穴にもなり得る。肯定側と否定側の準備を周到に進めていく過程で、必ずしも肯定側と否定側の均衡がとれているわけではないという単純な事実を、ともすれば忘れがちになる。
最初に言及したように、天動説の当否といった問題はそもそもディベートの対象にならない。ディベートとは黒を白と言いくるめる詭弁術ではない。一般的に自然科学においてはディベートの余地がない問題が多い。喫煙の危険性、放射能の危険性といったものは自然科学の問題である。もちろん人文科学にも、ディベートの余地のない問題は存在する。 1995年、創刊されるやいなや廃刊になった雑誌があった。ナチスの収容所におけるガス室の存在を否定する記事を掲載したからだ。ディベートの余地のない嘘を掲載した責任を取ってその雑誌は廃刊になった。御承知のように、ドイツでナチスの犯罪を否定するのは非合法だ。日本においても、日本軍国主義の犯罪を否定するような言説は国内外から激しい指弾を浴びる。
日本軍国主義の正当化をもくろむ歴史改竄主義者は、第二次世界大戦で日本はアジア諸国の解放を目指してきたと主張してきた。だが、そのような議論の対象にさえならないような嘘を信じるような者はほとんどいない。そのため最近は戦術を変えて、「植民地時代に日本はいいこと『も』した」と言うようになっている。ベストセラーになった「教科書が教えない歴史」は日本人のなした美談や快挙の集大成でその多くは事実だ。その著者らがディベート教育の必要性を主張しているのは、ディベートを通して日本軍国主義の功罪が相半ばするかのような錯覚を植付けることを目論んでいるからだ。たしかに日本軍が建設した橋や建物はたくさんある。しかし、日本の国家権力ぐるみでなした巨悪を相殺するには到底及ばない。だから、日本軍国主義の功罪が相半ばするものであるなどということはできない。
ディベートの際に一時的に自分の意見を離れるのはディベーターが傍観者にとどまることを意味するわけではない。自分の意見を客観的に検証するために一時的に離れるのだ。いったん間違いに気づいたら、すみやかに捨て去るべきであろう。だが自国中心的な歴史観に固執する者たちが、歴史の傍観者をつくりだすためにディベート思考を悪用している。ディベートの真の目的は、自国中心的な考えを擁護することでもなく傍観者をつくることでもない。自分の意見を客観的に検証し真理を明らかにすることにある。(97年1月)
危険なディベート