言葉と文化の間には深い関連性がある。日本と比較してアメリカの文化と言語は非常に対決的だ。ディべートはおもにアメリカで発達した言葉の技術だ。そのため私は、ディベートとは言葉のボクシングのようなものだと考えていた。だがある日、アメリカ人の知り合いがこう語った。「良く訓練されたディベーター同士の間でノックアウトはほとんどない。その意味でディベートは、言葉のボクシングというよりも言葉のレスリングに近い」たしかに、良く訓練されたディベーターが安易な論理的間違いを犯すことはほとんどない。しかし、われわれの日常生活においては時として奇妙な論理を耳にする。

 一例を挙げれば、タバコは健康に悪くないと主張する喫煙者がいる。九十歳まで生きるヘビースモーカーがいるというのがその根拠だ。おそらくそういった人々は可能性という発想を理解できないのであろう。タバコがサリンと同じように危険だと言うような者はいない。だが大多数の人々は喫煙の危険性を知っている。なぜならば、喫煙はさまざまな病気にかかる可能性を増幅するからだ。喫煙者すべてがタバコの引き起こす病気にかかるわけではないというだけの理由でタバコは健康に悪くないと主張するのはばかげている。

 もうひとつの例を挙げよう。戦争中ある国の政府は、「兵士の死亡率は大気が汚染された大都市よりも低い」と語った。それは事実だ。だが大都市の死亡率には、新生児や病人そして高齢者の死亡が含まれていた。これは、戦場は大気が汚染された大都市より安全であるかのように思わせる卑劣な広告である。

 こういった例は初歩的なごまかしであって、もしこんなことをディベートで言えば、たちどころにノックアウトされるのがおちであろう。しかしもっと手のこんだ論理的ごまかしはたくさんある。いいディベーターはその場でごまかしを指摘することができる。だから、いいディベーターになるためにはうそをつく方法を学ばなければならない。毒を制する最上の方法は毒を知ることである。もちろんこれはディベートに限った話ではない。

 東京サリン事件の後でオウム真理教の技術者は、外部からサリン攻撃を受けていたからサリンを研究したと記者会見で話した。本当に外部からサリン攻撃を受けていたのであれば、サリン研究も正当化されたであろう。サリンを知ることなしにサリンから身を守ることはできない。しかし外部からのサリン攻撃を裏付ける証拠もなければ理由もなかった。であるがゆえに、オウム真理教のスポークスマンは嘘八百を並べたてなければならなかったのである。スポークスマンの嘘をつく技術自体は悪くない。ESSでディベートを学んだといわれている。だがやっていることは、仲間のオウム真理教の技術者がサリンをつくる技術を悪用したのと同様、嘘をつく技術を悪用しているだけの話だ。ディベートが詭弁術であると誤解している人々がいるのは非常に残念な事態である。そしてもっと嘆かわしいのは、おめでたいジャーナリストを含む少なからぬ人々がオウム真理教のスポークスマンは大した論客だと語っていることだ。おそらく彼らは、うそつきtと論客の区別もつかないのであろう。本来ディベートとは、嘘をつく技術を必然的に内包する言葉の技術である。ただ、嘘をつく方法を学ぶ目的は真偽を判別しうそから身を守ることにある。けっして嘘をつく技術を悪用してはならない。

 日々われわれはおびただしい量の情報に囲まれて生活している。真偽を判別するひとつの有力な手立ては、論理的整合性を欠く者によってもたらされた情報を信用しないということだ。一例を挙げれば、従軍慰安婦はいなかったと主張する者はしばしば、証言は嘘だと主張する。同時に、そのような不名誉な歴史を学校で教えるべきではないと主張する。もっとも信用のおけない情報は、こういった状況判断と価値判断の区別ができない者がもたらす情報である。ディベートを学ぶことによって、論理的思考を通してごまかしを見破ることができる。

 もちろん、論理的な考えがすべて正しいわけではない。ロシアの小話によれば、マルクスは動物実験を怠った点において科学者ではないということだ。アインシュタインの相対性理論も、日食の観測によってその正しさが証明されている。しかしながら、論理的整合性を欠く正しい考えと言ったものは存在しない。(95年5月)

うそつきと論客