「ブス」という日本語の語源は、「トリカブト」という薬草から来ている。「トリカブト」から作られた毒が「ブス」と呼ばれた。「ブス」を塗った毒矢で射たれた人は無表情になる。そのため「ブス」は無表情を意味する言葉になった。最近は醜さを意味するようになっている。面白い変化だと思う。というのは、無表情にしていると醜く見えることは少なくないからだ。豊かな顔の表情によって美しくも見えるし、賢そうにも見えるし、思いを伝えることもできる。

 日本には、無表情をを意味する「能面のような無表情」という決まり文句がある。立原正秋の小説「舞の家」を読むまで私はそれを当然のことと受け止めていた。「舞の家」の中にはこんな一節がある。「能面のように無表情な顔、といった言葉は能面を知らない人の言葉で、能面ほど表情に富んだ顔はほかにない。能役者は面の角度によって顔の表情を造る。上を向くのを照りといい、喜びや強い意志、たかぶりを表す。下を向くのを曇りといい、哀しみや恥ずかしさを表す。表情を造るために能役者は、面を顔にあてる角度にも神経を使う」がぜん能に対する興味がわいてきた。特にかがり火の背後で演じられる薪能に興味がわいた。

 薪能を見る機会は思ったより早くやって来た。89年に仙台薪能が始まったのだ。入場料の高さに躊躇したものの結局観ることにしたのは、立原正秋の小説の力だった。その日の主演目は「殺生石」だった。栃木県北部にあって毒ガスを放出する実在の殺生石と、能「殺生石」は関わりがある。昔、邪悪な白い女狐が京都で悪事をはたらいた。しかし、玄翁和尚に追われて石の中に逃げ込む。女狐は殺生石となって悪事を重ねたためとうとう玄翁和尚は槌で石をたたき割る。すると見るからに妖しげな美しい白狐が現れた。私は妖気にあてられて鳥肌が立った。そして能役者の流麗でありながら力感あふれる動きに目を瞠った。ゆっくりした静かな動きでありながら、爆発するような躍動感をはらんでいる。それは一流の指揮者の動きを彷彿とさせた。日本で最も有名なひとりである能役者の舞であった。爾来、能役者の動きは私の美意識の一部になる。そのため派手な動きは好まないし、カラオケのあるバーで呑むのは苦手だ。

 次に私が薪能を観たのは同じ89年の初秋である。素人の能役者が山形県からやって来た。今度は幸運なことに入場無料だった。空には月が輝き、微かに秋風が吹いていた。プロの能に比べれば違いは歴然としていても十分楽しめたのは、実に懸命に演じていたからだ。そしてその夜にはおかしな経験をした。主演目は蜘蛛についても能だった。一番の見せ場で蜘蛛に扮する役者が糸を開くことになっているのだが、不運にもうまく開かなかった。役者は全身で困惑を表現していた。能面が無表情だなんてとんでもない、と私は実感した。

 能それ自体が面白いし、外で何かするのは楽しく、かがり火を焚くのは心が躍る。薪能ではこういった楽しみを同時に味わうことが出来る。炎と重なってゆらぐ能面には幻想的な美しさがある。今年の仙台薪能は、7月16日に博物館の前庭で行われる。天気が良ければ、緑に囲まれた素晴らしい薪能になるであろう。私はすでに入場券を買って、薪能が終えてから立ち寄る静かな酒場も決めてある。(94年7月)

 
薪能への招待