小学校の音楽の授業で、ピアノが弦楽器に分類されているのを知ってひどく驚いたことがあった。たしかにピアノの構造を考えてみれば、弦楽器に分類されてもおかしくはない。しかし私には、おおかたの人々はピアノを打楽器のように扱っているように思えた。よい例が、スタニスラフ・ブーニンである。ブーニンが初来日した1986年、私はその演奏をテレビで見た。ブーニンはドラマーのように動き、時折力まかせにピアノをたたいているようでさえあった。私の好みとはほど遠かった。
ピアノは時としてタッチの芸術と呼ばれる。だが私は、ピアニストがタッチによって音色を変えられるのかどうか、疑問に感じていた。というのは、ピアノ線に直接触れることが出来ないからだ。そのため、クラシック音楽を聴くようになってもピアノ音楽にさしたる関心はなかった。
仙台にクラシック専門のレコード店がある。86年頃私はそこにしょっちゅう出入りしていた。ある蒸し暑い土曜の午後、その店で素晴らしいピアノ音楽を聴いた。柔らかな音色ながらきっちりした芯がある。ほかのピアノ音楽とは根本的に違っていた。ほとんど叫ぶようにして私が「これは誰ですか」とたずねると店の主人は微笑して、「いいでしょう。ディヌ・リパッティです」と答えた。早速そのCDを買って聞いてみると、いささかの誇張もない自然な演奏に心を奪われた。特にバッハの宗教曲を聴くと、人間的な暖かさと宗教的な深さが共存しているようにも思えた。
ディヌ・リパッティは1917年にルーマニアに生まれ、1950年に三十三歳で白血病のため世を去った。しかし今でも多くの人々が彼の音楽を愛し、崇拝している人々もいる。実をいうと私もそのひとりだ。しかし、リパッティの音楽の技術的な魅力を自分の言葉で語れるとは思っていなかった。そのため、音楽評論家の吉田秀和氏の文章を読んだ際には目から鱗が落ちる思いがした。「ピアノを打楽器的に扱う側面には、リパッティは馴染みがたいものを感じていたのではあるまいか」と吉田氏は語っている。まさしくその通りで、一例を挙げればリパッティはショパンの舟歌の冒頭でもピアノをたたいてはいない。小学校以来の疑問がついに氷解した。ピアノはたしかに弦楽器なのだ。ただ、ピアノを弦楽器として扱えるのは才能のあるピアニストに限られる。リパッティについて話すとき私はいつも、「リパッティは真の意味での弦楽奏者なのだ」と語っていたものだ。
日本の弦楽器である津軽三味線の奏者、高橋竹山が「はだぐでねえ。奏でるんだ」と語っていると聞いたのは1993年のことだった。リパッティと共通するものがあると思って興味を持った私は、翌年の冬の演奏会に出かけた。クラシックコンサートとはかなり違った雰囲気だった。竹山の語りは面白く、胸に沁みるものでもあった。84歳の竹山は子供の頃から目が見えない。大変な苦労をし、いじめられてもきた。ことに戦争中はそうだった。障害者は戦争の役に立たないからだ。私の隣の中年の女性はハンカチを使っていた。ただ何よりも私が驚いたのは、竹山の語りには日本の演歌歌手のような自己憐憫がみじんもなかったことだ。そして竹山の演奏はその人柄をよく反映していた。暖かで親しみやすいものではあったが、凛としたものがあった。竹山が欧米でも評価されるゆえんなのであろう。竹山は日本の民族楽器の奏者でありながら、日本語を全く知らない人々を感動させることができる。老音楽家は深々と頭を下げて演奏会を終えた。外に出ると小雨が降っていて、冷たい雨粒がほてった頬に心地よかった。もう一度聴きたいと思う素晴らしいコンサートを私はいくつか経験しているが、もう一度会いたいという思いにさせられた演奏家は竹山のみだ。
ディヌ・リパッティと高橋竹山は、異なる国に生まれ異なる音楽を学んだ。しかしいくちかの共通点がある。たたくのではなく奏でるタイプの弦楽奏者であること、そして困難に屈しなかったこと。リパッティは死のわずか二ヶ月前に素晴らしいコンサートを開いている。
忙しい派手な暮らしを現代人は騒々しい音楽と共におくる。現代は、打楽器の時代と呼こともできるであろう。だが私は弦楽器が好きだ。忙しい日々にこそ弦楽器を聴いてみてはいかがだろうか。きっと少しは平穏な気持ちにしてくれるであろうと思う。(94年7月)
弦楽器