中退者の気持ちを想像したことがおありだろうか。中退者会といったものはないが、同じ経験を持つ者にある種の親近感を抱くのは事実だ。そして中退した大学に無関心ではいられない。私は東北大学を1986年に中退した。東北大学の中退者の中で最も有名な人物、魯迅について話してみたい。
魯迅は1881年に中国に生まれ、1902年に東北大医学部の前身である仙台医専に入学した。いまでも魯迅の下宿は仙台にある。1895年、中国は日清戦争に敗れた。魯迅が日本及び日本人に対して複雑な思いを抱いていたであろう事は、想像に難くない。魯迅が仙台にいた間、日露戦争が勃発した。解剖学の授業のあとで魯迅は衝撃的な映像を幻灯器で見る。ある中国人の男がロシアのスパイとして日本の軍隊に殺される。魯迅が衝撃を受けたのは処刑そのものではなく、それを取り囲む中国人の無関心な態度であった。彼らの肉体は立派だが心は貧しい。そう感じた魯迅は、医者への道をやめて文学によって人々の精神を改革することを決意する。仙台は魯迅が医学から文学へ転向した地だ。仙台で魯迅は、大変よく面倒をみてくれる日本人、藤野先生に出会う。藤野先生は毎週のように魯迅のノートを訂正してくれた。後日魯迅は「藤野先生」と記した随筆の中で感謝の念を記している。
しかし当時の日中関係を忘れるわけにはいかない。人間の間でいかに美しい友情が存在したにせよ、日中政府の間にはひとかけらの友情も存在しえなかった。日本は中国を軍事力で侵略した国だ。太宰治が評価の分かれる小説「惜別」でしたように、魯迅を当時の日中友好のシンボルのようにみなすのはばかげている。太宰の小説「惜別」の中で魯迅は中国人の処刑の映像を見て「友邦日本を裏切り、傍観する中国人に耐えられない」と語る。もし本当に魯迅が当時の日本を友邦とみなすような愚か者であったなら、魯迅の文学は成立しなかったであろう。なぜならば、自ら進んで抑圧者に屈服する人々の心を改革することが魯迅のメインテーマのひとつだからだ。魯迅は日本の拡張政策を憎んでいたに違いない。「血で書かれた歴史を墨で塗り消すことはできない」と魯迅は語っている。日本人の親切をもって、日本の血塗られた侵略を塗り消すことはできない。
1992年に魯迅の像が東北大キャンパスに建てられた。当初私は、中退者の像を建てるとはゆかしい行為だと思っていた。だが最近はうさんくさいものを感じている。恥ずべき歴史を正当化しようと躍起になっている歴史改竄主義者がいるからだ。そういった人々が、血塗られた歴史を塗り消す目的で魯迅の像を建てたのかもしれない。
魯迅の小説を読むと、その情け容赦のないリアリティに圧倒される。医者への道は断ったものの、魯迅は外科医がメスをふるうようにしてペンを走らせた。ロマン・ロランに激賞された代表作「阿Q正伝」において魯迅は、中国人の国民性を批判した。阿Qはみんなにばかにされて、ついにはスパイとして無実の罪で処刑される。仙台で見た処刑の映像を魯迅がこの小説に投影したように思えてならない。別の作品「小さな出来事」において魯迅は、自分自身を峻烈な批判の対象にした。
威厳に満ちた魯迅の写真を目にするとき私は、エイズウィルスをほとんど意図的にまき散らした医者の醜い顔をふと思い浮かべる。あれほどの非人間的行為に及んだ一因は、人間社会への関心を失っていたからなのであろう。社会的、政治的無関心を公言する人々に私は何度も出会ってきた。そういった人々には、「愛の対立概念は憎しみではなく無関心である」というバーナード・ショーの言葉を紹介したい。仙台に住んだ最も偉大な人物のひとりである魯迅は、人間、そして政治について無関心な態度を取ることはついになかった。(96年4月)
忘れ得ぬ中退者