仙台トーストマスターズクラブがどのようにして始まったか、お話ししたい。1993年、仙台市役所に国際交流員として勤務するRというアメリカ人がいた。市職員の意思伝達能力、とりわけ論理的意思伝達能力の低さに驚いたRは、日本語による意思伝達能力向上をめざす口座の開設を上司に進言した。だが上司はこの提案を拒絶した。そこでRは市民を集めて、英語による意思伝達能力向上をめざす仙台トーストマスターズクラブを始めた。Rの元上司以外にも、そして仙台市だけではなく全国に、頑迷な公務員は沢山いる。その中でも最低の例をご紹介しよう。それは、いまだにちっぽけな印鑑で身元確認ができると考えている人達だ。
数ヶ月前、私は九年ぶりに交通違反で切符を切られた。朝の渋滞の中、バスレーンを百メートルばかり走った。交通違反の罰金を払うくらいばかばかしいものはない。頭の中で、もう少し注意深くしていれば買えたはずの品物が点滅した。でも警察に泣きを入れても始まらない。短い説明のあとで警官は、「印鑑を持ってますか」とたずねた。私が「いいえ」と答えると、「では代わりに拇印を押してもらえますか」と言う。周囲には何のためらいもなく拇印を押す人達がいた。だが、私は警官に問い返した。「私は免許証を見せています。署名もしました。もちろん罰金は払います。だから拇印を押す必要はないでしょう」すると若い警官はひどくとまどった様子で、宇宙人を見るような顔で私を見た。語気を強めて「拇印は任意でしょう」と言うと、「そうです」と弱々しい声が返ってきた。
このエピソードについてどう思われるだろうか。日本の警察はふたつばかげたことをしている。
まずひとつには、印鑑によって身元確認ができると考えていることだ。印鑑は日本特有のものであると考えている人々は多い。だがヨーロッパにおいても印鑑は使われていた。有名な映画、「誰がために鐘は鳴る」において、主人公が身元証明のために印鑑を渡す場面がある。だが現在ヨーロッパでは印鑑に代えて署名が使われている。つまりは、ヨーロッパの人々は印鑑を身元証明の道具として使い続けるほど愚かではないということだ。
もうひとつの愚行は、法的根拠もなく拇印を要求することにある。たしかに指紋を採取することはきわめて有効な犯罪捜査の手法になる。しかるべき理由があるのなら指紋を押そう。しかし軽微な交通違反で指紋を押すほど私はお人好しではない。
警察官以外にも、印鑑の呪術的な力を盲信し、そして安易に指紋を要求する日本の公務員は沢山いる。一例を挙げれば私が仙台市役所の住民登録係にいた1986年、住民票を取りに来た際に印鑑を持参しなかった市民からは拇印を取るように上司は命じた。私はこの命令を拒絶した。印鑑を持っていないというだけの理由でなぜ指紋を要求するのか、上司は説明できなかったからだ。さらに法は、印鑑の持参がない場合には署名をもって足りるとしている。しかし私は職務命令違反で処分され、昇給が三ヶ月延伸された。
日本の公務員は一般的に、なぜかという問いをおそれる。仙台トーストマスターズクラブの創設者であるRが指摘したように、論理的な意思伝達能力を持ち合わせていない公務員が大勢いる。だから論理的な質問に対処できない。なぜかという問いを発しない日本人をおそれはしないが、なぜかをたずねる外国人のことは心底おそれているのだ。日本の指紋押捺制度は、不従順な外国人を抑圧するためにつくられた制度だ。こういった前近代的制度はただちに廃止すべきだ。そして指紋押捺制度を廃止する第一歩は、指紋を安易に押す日本人のあり方を変えていくことだ。指紋押捺制度を廃止し、真の国際化を推進し、日本の公務員をもう少しましなものにしていくために、指紋を押すことなかれ(97年5月)
指紋を押すことなかれ