スピーチという表現方法について私は長い間偏見を抱いてきました。

 NHKの青年の主張に代表されるような審査員うけする優等生型、あるいは有権者うけを狙っただけの政治家のパフォーマンスのような、単なる雄弁術という印象を抱いていたのです。

 この感覚が全くの誤りだとは今も思っていません。例えば、米国の歴代大統領の名演説と言われるものがあります。ルーズベルト大統領は、「恐怖そのもの以外に恐るべきものは何もない」という有名な言葉を残しています。ケネディ大統領は、「国が何をしてくれるのだろうかと問うことはやめていただきたい、自分が国のために何をなすことができるのか問うていただきたい」と語りました。こういった洗練されたレトリックを駆使したスピーチが名演説とされてきたきらいがあります。広告コピーとしての優秀性は私も否定しません。ただその内容たるやきわめて空疎なものです。もしルーズベルト大統領が恐怖を忘れることが出来るほどの愚か者であったならば、アメリカは第二次世界大戦の戦勝国になることは出来なかったでしょう。恐怖を火に例えて恐怖の扱い方を教えた、マイク・タイソンのトレーナー故カス・ダマトのような哲学は、「恐怖そのもの以外に恐るべきものは何もない」というスピーチからはみじんも感じられないのです。スピーチの中で哲学を示し得たのは、キング牧師の名演説のような希有な例としか私には思えませんでした。

 ところが、ふとしたことから英語によるパブリックスピーキングを始めて、面白いことに気付きました。外国語によるパブリックスピーキングは、自分の考えを整理するための素晴らしい砥石になるということです。自分の語彙も、多くは日本人である聴衆の語彙も限られています。発表時間も限られています。しかも発表は一回限りです。平明に書くという文章づくりの基本が、スピーチを重ねるうちにいやでも身に付いてきます。英語によるパブリックスピーキングが自分の日本語にも良い影響を及ぼしていると感じることも多々ありました。

 文章づくりにおけるパブリックスピーキングの効用については、紀元前のギリシア人が熟知していたということで、作者は文章や詩歌をまず発表し、批評を容れて推敲してはじめて写本を作ったという話を耳にしたことがあります。

 古来パブリックスピーキングは、思想を磨くための優れたテストコースでした。ただ大変残念なことに、現在の日本における英語パブリックスピーキング界においては無内容なパフォーマンス中心主義が少なくありません。もはや、英語ができるだけで満足している時代には終止符を打つ必要があります。無内容なスピーチにも習作としての存在価値はあります。しかし、中学生の弁論大会の延長のようなものがいつまでも主流に居座っているようでは、英語パブリックスピーキングの凋落は目に見えています。

 本文中に収めた日本語原稿は、私が1993年から98年にかけて仙台トーストマスターズクラブで発表した英語原稿を和訳したものです。さまざまな批評を取捨選択した後、推敲、修正し、完成原稿としました。拙い発表に耳を傾け批評を寄せてくれた聴衆の皆様に、深く感謝します。
                   
まえがき
2003年6月記 鈴木 康