進学塾の職員と興味深い話をしたことがある。進歩的な教育方法を採用している反面、こと価値観の問題となると頑迷なほどの学歴社会の擁護者であった。たしかに、受験指導を生業にしている進学塾が学歴社会を悪く言うわけはない。だが私は、遅かれ早かれ学歴社会はなくなると思っている。
 まず第一に、社会が実力主義に移行している。もはや学歴だけで人の尊敬を集められるような時代ではない。具体例を挙げれば、早稲田大学を出た首相であるというだけの理由で首相を尊敬するような者はいないのは、首相であるというだけの理由で首相を尊敬するような人間はいないのと同じことだ。問題になるのは、どんな首相であるか、そしてどんな学問をしているかであって、肩書きではない。
 第二に、社会が知識指向から知性指向へと移行しつつある。学歴は知識の基準にはなりうるが知性の基準にはなり得ない。
 それにもかかわらず学歴社会が一朝一夕でなくならない最大の理由は、学歴社会からうまみを得ている声なき少数派がいるからだ。それは受験産業だけではなく、学歴以外に誇るべきものを持たない教育官僚であって、いまだに学歴社会と年功序列制に固執している。一例を挙げれば、名古屋市内の中学校校長の九割強は愛知教育大学の出身者だ。愛知県はその管理教育で悪名高い。日本全国でほとんどの教頭は40歳以上であり、ほとんどの校長は50歳以上である。仙台市の教育長が例外的に若いのは、東大出のキャリア官僚だからだ。そうでなければどれほど優秀であろうと40歳前後で大都市の教育長にはなれない。学校が知性を涵養する場なのであれば、それにふさわしいやり方を採用すべきであろう。年功序列主義を排して実力主義を採用すべきである。
 今日の状況を変えようとしている教員は多くはない。それどころか、教員が教員であるというだけの理由で尊敬された時代を懐かしむ気配さえある。退職した教員が書いた学校教育に対しての提言を読む機会があった。言わんとしていることは「昔に返れ」ということで、学校における民主主義の行き過ぎを戒めている。たしかに、民主主義を後退させれば学校の秩序をある程度回復できるかもしれない。ただその方法論を見出せない以上、これは現実的な提案ではない。
 学校における問題はしばしば、中途半端な民主主義によって引き起こされている。もはや教員が頭ごなしに押さえつけられるような時代ではなくなっているにもかかわらず、なぜこの授業を取らなければならないのか生徒がたずねても満足な答が返ってこないような事態は少なくない。これでは生徒の不満が高まるであろう。もはや昔には戻れない以上、学校の民主主義を推進する以外の打開策はない。民主主義の下では基本的に万人が対等の立場で向かい合う以上、必然的に実力主義が要求される。実力を示せない限り、教員が教員として処遇されなくなる状況は避けられないであろう。
 「出来るやつはやる、出来ないやつが教える」というバーナード・ショーの言葉がある。もし教員の仕事が単に知識を注入するだけなら、この言葉は正しい。だがこれからの学校教育は、知性指向型の教育でなければならない。人は自分の能力に応じたことしか教えられないのが常である以上、教員は知性的な何かが出来る人物でなければならない。しかし現実はそれにはほど遠いものがある。愛知県を典型とする重箱の隅を突くような管理教育が横行している理由のひとつは、知的能力に不安を抱える教員が多いからだ。「教員よ、知性的であれ!」と言うゆえんである。(98年12月)
教員よ知性的であれ!