神戸の児童殺傷事件に関して、ひとつ忘れてはならないことがある。犠牲者のひとりは知的障害児で、殺人容疑者は中学校の問題生徒だった。学校の問題生徒が社会的弱者を殺したのかもしれない。この殺傷事件には複雑な背景があるとはいえ、今日の学校の問題をぬきには語れない。殺人容疑者は脅迫状の中で、義務教育に対するすさまじい怨念を吐露している。それほど学校がいやだったのであれば、学校にいかないという選択はできなかったのだろうか?不登校は今日、それほど珍しいものではなくなりつつある。
 実を言えば私も登校拒否だった。正確に言えば大学拒否だ。1982年に東北大工学部に入学したものの科学技術と自分との相性の悪さに気づいてからは徐々に大学に出なくなり、86年に中退した。ただ大学で学ぶ代わりに得たものは大きい。好きなように本を読み好きなように物事を考える四年間の自由時間は私を大きく成長させた。
 自分の経験からだけではなく、知的能力を発達させるためには自由時間と読書が不可欠だ。だが不幸にして日本の子供たち、ことに中高生が十分な自由時間を見つけるのは難しい。単に受験戦争が悪いわけではなく、日本の教育の根底に横たわる押しつけ教育が教育のあり方を著しくゆがめている。
 不必要な押しつけがなければ、教育の問題は大幅に改善されるであろう。予備校の状況を考えてほしい。受験の重圧は中学や高校よりもはるかに大きいにもかかわらず問題が少ないのは、予備校生は自分の意思に反した科目を学ぶ必要がないからだ。自動車学校も好例である。授業が面白いとはお世辞にも言えないにもかかわらず特に問題が起きないのは、生活に必要な技能を学ぶ学校だからだ。
 中高生は、必要性の乏しい学科を好むと好まずにかかわらずたくさん学ばされる。複雑な英文法、高等数学、歴史の瑣末事といったものが必修化されているのがいまの学校だ。たしかに、読み書きパソコンに類する生活に不可欠な知識や技術を必修科目として教えるのは理にかなっている。しかし、生徒の意思に反して外国語や高等数学を教える意義はほとんどない。その点に関して現在の中高校教育は、予備校や自動車学校のレベルにも達していないと言って過言ではない。必要性もない科目を学ぶことを強制され順位付けされれば、学校に反発しない方が不思議だ。暴力的な方法に比べれば登校拒否は、はるかのまともで建設的な方法である。
 学校はそれなりのものであってもすべてではないし、学校を出てからも学ぶ機会はいくらでもある。高度に知的な科目を生徒の意思に反して教えることは、学校の自己満足以外の何物でもない。生徒が意に反して大量の科目を学ぶ必要がなくなれば、本当に勉強したいものを見出せる機会は増えるだろう。
 多くの問題があるにもかかわらずいやいやながら学校に行く生徒は少なくない。私は心から同情する。なぜもっと気軽に登校拒否をしてみないのだろうか?過激な提案と思われるかもしれない。しかし登校拒否は、自由時間を確保し本当に勉強したいものを見出す有効な方法のひとつだ。自分を見失った状態で大学に進学してから中退するよりも、中高校の段階で方向転換を果たす方がましであることは言うまでもない。(97年6月)

 教員よ知性的であれ!

 進学塾の職員と興味深い話をしたことがある。進歩的な教育方法を採用している反面、こと価値観の問題となると頑迷なほどの学歴社会の擁護者であった。たしかに、受験指導を生業にしている進学塾が学歴社会を悪く言うわけはない。だが私は、遅かれ早かれ学歴社会はなくなると思っている。
 まず第一に、社会が実力主義に移行している。もはや学歴だけで人の尊敬を集められるような時代ではない。具体例を挙げれば、早稲田大学を出た首相であるというだけの理由で首相を尊敬するような者はいないのは、首相であるというだけの理由で首相を尊敬するような人間はいないのと同じことだ。問題になるのは、どんな首相であるか、そしてどんな学問をしているかであって、肩書きではない。
 第二に、社会が知識指向から知性指向へと移行しつつある。学歴は知識の基準にはなりうるが知性の基準にはなり得ない。
 それにもかかわらず学歴社会が一朝一夕でなくならない最大の理由は、学歴社会からうまみを得ている声なき少数派がいるからだ。それは受験産業だけではなく、学歴以外に誇るべきものを持たない教育官僚であって、いまだに学歴社会と年功序列制に固執している。一例を挙げれば、名古屋市内の中学校校長の九割強は愛知教育大学の出身者だ。愛知県はその管理教育で悪名高い。日本全国でほとんどの教頭は40歳以上であり、ほとんどの校長は50歳以上である。仙台市の教育長が例外的に若いのは、東大出のキャリア官僚だからだ。そうでなければどれほど優秀であろうと40歳前後で大都市の教育長にはなれない。学校が知性を涵養する場なのであれば、それにふさわしいやり方を採用すべきであろう。年功序列主義を排して実力主義を採用すべきである。
 今日の状況を変えようとしている教員は多くはない。それどころか、教員が教員であるというだけの理由で尊敬された時代を懐かしむ気配さえある。退職した教員が書いた学校教育に対しての提言を読む機会があった。言わんとしていることは「昔に返れ」ということで、学校における民主主義の行き過ぎを戒めている。たしかに、民主主義を後退させれば学校の秩序をある程度回復できるかもしれない。ただその方法論を見出せない以上、これは現実的な提案ではない。
 学校における問題はしばしば、中途半端な民主主義によって引き起こされている。もはや教員が頭ごなしに押さえつけられるような時代ではなくなっているにもかかわらず、なぜこの授業を取らなければならないのか生徒がたずねても満足な答が返ってこないような事態は少なくない。これでは生徒の不満が高まるであろう。もはや昔には戻れない以上、学校の民主主義を推進する以外の打開策はない。民主主義の下では基本的に万人が対等の立場で向かい合う以上、必然的に実力主義が要求される。実力を示せない限り、教員が教員として処遇されなくなる状況は避けられないであろう。
 「出来るやつはやる、出来ないやつが教える」というバーナード・ショーの言葉がある。もし教員の仕事が単に知識を注入するだけなら、この言葉は正しい。だがこれからの学校教育は、知性指向型の教育でなければならない。人は自分の能力に応じたことしか教えられないのが常である以上、教員は知性的な何かが出来る人物でなければならない。しかし現実はそれにはほど遠いものがある。愛知県を典型とする重箱の隅を突くような管理教育が横行している理由のひとつは、知的能力に不安を抱える教員が多いからだ。「教員よ、知性的であれ!」と言うゆえんである。(98年12月)
登校拒否のすすめ