公立学校における問題を論じるにあたって、忘れてはならないことがひとつある。すべての公立学校教員は公務員であり、その権力は法律で制限されているということだ。公立学校教育に関する法律を読んだ際、興味深い問題に気付いた。
 教育基本法によれば、教育の目的は人格を完成させることにある、とされている。人格を完成させるにあたって哲学の教育は不可欠だ。哲学と宗教、哲学と政治は深い関わりがある。人格完成に際して、宗教と政治思想を避けて通ることはできない。だが学校教育法は宗教教育を禁じ、政治教育を制限している。そのため公立学校における人格教育はきわめて中途半端なものになっている。大方の教員は、政治や宗教がらみの話題を回避しがちだ。自衛隊は合憲か違憲かといった単純な質問を生徒がぶつけても、答が返ってくる保証はない。心を開けない教員を生徒が尊敬できないのも無理はない。
 教員にもっと自由を与えようという意見はある。だがすべての公立学校教員は保守的な教育委員会が採用した公務員である以上、裁量の余地を拡大するのはかなり危険な話だ。真の教育者は自らの哲学に基づいて生徒を薫陶する。しかし、公立学校教員が自らの哲学に基づいて生徒を教育することは許されるべきではない。なぜならば、現代は生徒と教員が価値観を共有できるようなのどかな時代ではないからだ。さらに、現行の学校制度のもとでは生徒が教員を選ぶ機会も十分ない。公立学校教育の本質的限界を認識しなければならない。
 公立学校教員は、教育者というよりも教育公務員として処遇されるべきだ。「教員は生徒の心の彫刻家であれ」というスローガンを耳にしたことがある。公立学校でこのスローガンは「 教員は生徒の心の理髪師であれ」と書き換えられるべきであろう。心を彫刻できるのは、自力で生徒を集められる教育者に限定すべきだ。公立学校はもっと生徒の意向を尊重すべきだ。住民が学校に過大な期待を寄せるのはやめるべきだし、教育公務員の権力濫用を許してはならない。
 だが権力を濫用する公立学校教員は少なくない。その典型例が体罰だ。体罰は学校教育法で禁止されているのも関わらず、ニュース報道を目にすることは少なくない。行政機関たる公立学校は法の支配に服すべきであって、学校の治外法権を認めるようなことがあってはならない。校内暴力を追放する第一歩は、教員の暴力を追放することだ。暴力的な生徒が教員の手に余る場合には、学校は指導力の限界を認めて警察の介入を求めるべきであろう。公立学校教員には公務員としての分際をわきまえさせ、生徒と教員の間には適切な距離を保つ必要がある。
 体罰以外にも公立学校には多くの問題がある。「ものみの塔」の高校生が信仰に基づいて武道の授業を拒否したところ、武道を学ぶ法的根拠はないにもかかわらず退学処分になった。いかなる理由があっても学校に楯突くことを容認できない体質が現在の学校にはある。
 もっぱら学校による学校のための教育を実践している学校が少なくないと考えざるを得ない。学校そのものが生徒のストレス源になって荒れる学校をつくっている側面は、誰も否定できないであろう。現在の学校教育が本当に生徒にとって必要なものかどうか再検討する必要がある。人生において必要なものはそれほど多くはないし、学校が生徒にしてやれることもそれほど多くはない。生徒と教員双方のために、教育を軽減する必要がある。(96年11月)
学校教育軽減のすすめ