無関心をいましめた人々は数多くいる。一例を挙げればヘレン・ケラーは、「科学は大抵の害悪に対する解決策を見出したかもしれないが、その何にもまして最悪のものに対する救済策は見出していない。すなわち人間の無関心さに対する策を」と語っている。だがわれわれの実生活においては無関心、とりわけ政治的無関心が就職や昇進のパスポートになっていることは少なくない。

 1986年以来私が勤務している仙台市役所に採用された際の面接における最後の質問は、今でも鮮明に憶えている。ひとりの試験官が、誘惑に打ち勝てないようにして「あなたは日本の政治についてどう思いますか?」とたずねてきた。私は苦笑を噛み殺しながら、「基本的にはよく治っていると思います」と答えた。反射的にノンポリを装った私の嘘に、おめでたい試験官は満足した様子だった。

 勤務に先立って行われた二週間の研修で、奇妙な印象を受けた。当局はあたかも、地方自治体が政治的な仕事をしていないかのような言い方で地方公務員の中立を強調する。しかしその一方で、研修生に仙台市と周辺市町との合併問題を宣伝させてる。もちろん合併は政治的問題だ。徐々に私は、公務員の仕事の政治性を理解していった。使いやすい道具として働くことを職員に期待する市の執行部が、ノンポリを採用したがるのも無理はない。たしかに、ノンポリを公務員に採用すれば、自らの政治目的を達成するために権力を濫用する可能性はない。しかしこの発想には危険な落とし穴がある。
 地方自治体そのものが政治権力を濫用した場合に、ノンポリ職員がそれにそれを阻止することを期待するのは難しい。首長が金権政治のために政治権力を濫用した場合においてすら、生来政治音痴であるノンポリ職員は傍観することが多い。もし仮に麻原彰晃が権力を握った場合でも、忠勤を励むノンポリ公務員は少なくあるまい。私が彼らを小役人と呼ぶゆえんである。

 さらに憂慮すべきは公立学校における状況である。政府が推進してきたのは地方自治体よりもはるかに露骨な教員のノンポリ化である。たしかに、教員が政治思想を持たなければ自らの政治目的を達成するために権力を濫用することはないであろう。ただ、政府自身による権力濫用をノンポリ教員は阻止できない。政府が本質的に迎合主義者であるノンポリ教員を歓迎するのは、政府自身による権力濫用をもくろんでいるからだ。

 公務員の権力濫用には二種類ある。反政府的な権力濫用と政府側の権力濫用である。どちらも許してはならない。反政府的な権力濫用の取り締まりは十分なされているため、政治的考えをもった人物を公務員に採用することはそれほど懸念するに及ばない。だが、政府側の権力濫用の取り締まりが十分されているとは到底言えない。さしあたって憂慮すべきは、政府側の権力濫用を可能にする公務員の政治的無関心である。

  司法の場においても、政府の権力濫用に関して常に寛大な判決を下す裁判官は大勢いる。こういった状況を変えるためには、政治問題を自分で考える裁判官を増やしていくことだ。もちろんそれは自分の政治的信念に従って判決をくだすのを容認するものではなく、法の番人たるべき裁判官が政府の番人に堕落しないための方策である。信念を持たない持たない者はしばしば、権力者のいいなりになる。

 仙台地裁の判事が政治集会で自分の意見を発表したというだけの理由で処分された事件は深く憂慮すべきである。この処分の意味するところは、裁判所は判事に対して政治に関心を持たないことを望んでいるということだ。
 裁判官から地方自治体の職員まで、公務員は多かれ少なかれ政治的な仕事をしている。そして政治とは一言で言うなら政治権力をいかに行使するかに尽きる。政治権力の濫用を防ぐためには政治考えを持つ公務員を増やしていく必要こそあれ、敬遠する必要はどこにもない。少なくとも、中立の名の下にノンポリを確認して採用するような陋劣な人事政策を容認すべきではない。(98年7月)
公務員の中立とは何か