「ではの守」と呼ばれる種類の人々がいる。ふたことめには「アメリカでは」、「フランスでは」、「東京では」という言葉が出てくる手合いで、あまりお近づきになりたくはない。英語を話す際に氏名を逆さにするのも私は好まない。理由もなく外国の猿真似をするほど愚かしいことはないからだ。しかし理にかなった外国人の忠告は感謝をもって受け入れるべきだ。時として外国人の間違いからも学ぶことができる。
アメリカ人が書いた文章の中に面白い間違いを見つけたことがある。「現行法のもとでは日本国籍がないと公務員にはなれない」という指摘がされていた。これはいかにも、アメリカ人の法律思考を通して書いた文章だ。現行法は公務員の国籍については何も言及していない。日本人と比較してアメリカ人ははるかに法的根拠を重視する。この違いは日本の官僚制度を考える上でのよい手がかりになる。日本の官僚は強大な権力を握り、しかも法的根拠もなく権力を濫用することさえある。一例を挙げれば、地方自治体が外国人を公務員に採用することに対して日本政府は一切法的根拠がないまま反対してきた。いかに探したところで合理的な理由を見いだせない政府はついに、「当然の法理である」と言明した。日本の新聞はこの説明を何度も報道したが、あまりにも珍妙な説明であったため日本国内の英字新聞が英語で報道することはなかった。
極端に非合理的な考えを他言語に翻訳するのは難しい。その意味で異文化交流は、自分たちの考えや制度を検証する有効な手段になる。一例を挙げれば、旧自治省という名前があったがために旧自治省を地方自治の推進者であるかのように考えていた単純な日本人は少なくなかった。しかし旧自治省は、外国に対しては正直に内務省と名乗っていたのである。実際のところ旧自治省は、地方自治の推進者ではなく中央政府の代弁者だった。旧自治省は中央政府の意に忠実に、外国人を公務員として採用することに反対してきてもいる。 なぜ中央政府は外国人公務員の採用に反対するのだろうか?日本人のものの考え方を説明するのに「和」という便利な言葉がある。和英辞典によれば「和」はハーモニー(調和)と英訳されている。しかし「和」はハーモニー(調和)というよりもコンフォーミティー(迎合)である。異質なものによって醸し出されるのが調和であるのに対して、迎合はつねに同質化を求める。「和」を信奉する者は、たとえ不正があったとしてもそれを変えようとはしない。「和」を信奉する者の究極的な価値観は、何があっても波風を立てないことだ。日本社会、ことに日本の官僚社会は「和」に基づく迎合精神に溢れている。そして中央政府の役人が迎合精神を大好きなのは、迎合精神によって守られている快適な地位を失いたくないからだ。であるがゆえに、「和」や迎合精神と馴染みの薄い外国人を公務員として採用するのを嫌う。
最近、官僚による不祥事がしばしば報道される。それらは例外的なケースであるという指摘もある。だが官僚が権力を濫用できるのはひとつには迎合主義者に囲まれているからだ。その意味で不祥事に間接的責任のある官僚はたくさんいる。たとえ汚職に手を染めてはいないにせよ、同僚の不正を見過ごしてきた官僚がいるのはまず間違いない。
官僚制度を改革するにあたっては官僚の事なかれ主義の克服が不可欠だ。外国人公務員の採用は、その具体的な方策となりうるであろう。波風が立つかもしれないが、その波風こそを歓迎すべきである。波風なしで澱んだ組織を浄化することはできない。外国人公務員は国の安全保障を脅かしかねないという指摘もある。だが、厚生労働省ならぬ薬害収賄省の役人と外国人公務員と、どちらがより危険だろうか?(97年10月)
外国人公務員の必要性