遠い、未来。


 サイドテーブルのスタンドだけが淡く光を投げている室内は、薄暗かった。
 本来、闇に生きる悪魔となった身は、本当は暗闇でも何の障害もなくものを見る事が出来る。
 しかし、未だに灯りの全くない部屋は苦手だし、和式の布団では眠れない。
 首に触れられるのが嫌なのも変わらない。
 悪魔となっても、心の奥底に刻まれた傷まで全て消える訳ではないのだと苦く思う。
 視線を傍らに向けると、広いベッドの上、壱哉に寄り添うように、『従魔』が眠っていた。
 こちらを向いた顔には、僅かに苦しげな色が混じっていた。
 以前、魂を奪って『従魔』の身体に造り替えた時。
 目に見える、獣の耳と尻尾だけでなく、その身体の構造自体を造り替えられる苦痛に、何日も悶え苦しんでいた。
 与えられるはずのない救いを求めるように、壱哉に縋って泣き、悲鳴を上げていた様をふと、思い出し。
 今は完全な『従魔』になっているけれど、あの時の縋る表情をもう一度、見たくなった。
 だから、『闇』の力を注ぎ込み、身体を内側から苛んだ。
 人間ではないその身体は、どんな目に遭っても、壱哉の力で簡単に戻す事が出来る。
 壱哉の気が済むまで終わる事のない苦痛に、声が枯れる程悲鳴を上げ、許しを乞うように縋ってくる様子に、何とも言えない満足を覚えた。
 やっと解放してやると、疲れ切ってしまったのか、意識を失うように眠ってしまった。
 強いて目覚めさせる事も出来たが、何となくそんな気にはなれず、壱哉はぼんやりと寝顔を眺める。
 僅かに苦しげな、そして寂しげにも見える表情に、何故か判らないけれど胸の奥が痛んだ。
 手を伸ばし、柔らかな髪をそっと梳く。
 いつもならすぐに目覚めるのに、動く様子はなかった。
 僅かに眉を寄せ、閉じられた目蓋を見詰める。
 真っ直ぐ正面を見詰める視線が眩しかった。
 純粋な瞳と、眩しい程の魂の輝きに憧れと嫉妬を覚えた。
 だから―――奪った。
 死にたくない、それも勿論大きかったけれど、お人好しで、人を信頼しきっているその純粋な輝きを手に入れて、壊してしまいたかった。
 けれど。
 裏切られ、全てを奪われて尚、その輝きが翳る事はなかった。
 苦しげに、悲しげに色を変えながらも、この胸の内に捕らえた魂と同じように、その瞳は真っ直ぐで純粋な輝きを変えなかった。
 その輝きも、純粋さも、壱哉にはないもの。
 だからこそ壊してしまいたかった。
 だからこそ―――欲しかった。
 何となくサイドテーブルの上にある時計に視線を向けると、その針は、一時を回った所だった。
 深夜のせいか、薄暗い部屋の中は、とても静かだった。
 耳を澄ますと、『従魔』の寝息だけが小さく聞こえた。
「‥‥‥‥‥‥」
 ふと、思う。
 遠い、未来。
 いつか自分が、この『悪魔』としての生に飽きた時。
 この胸の内に捕らえた魂を、戻してやったとしたら‥‥‥彼は『人間』に戻れるのだろうか。
 『従魔』にする時、肉体を変えてしまったけれど、また戻す事も不可能ではないのではないか。
 そのついでに、壱哉の記憶を消してしまうのもいいだろう。
 壱哉の存在を忘れてしまえば、普通の人間として生きられるのではないか。
「‥‥その程度の『褒美』は、くれてやってもいいかもな‥‥‥」
 小さく呟いたつもりが、思いの外大きく聞こえ、壱哉は慌てて『従魔』に視線を送る。
 深く眠り込んでいるのか、幸い、目を覚ます気配はなかった。
 自分の気持ちが、とても穏やかになっているのを自覚して、口元に苦笑が浮かぶ。
 この、静かな時間が、そうさせているのだろうか。
 柄にもない――しかし、こんな感情も、たまには悪くない。
 優しい気分に促されるまま、壱哉は『従魔』の手に自分の手を重ねた。
 ほんのりしたぬくもりを感じると、とても良く眠れそうな気がした。
 まだ口元に笑みを刻みながら、壱哉はゆっくりと目を閉じた。


 なんとなく、目が覚めた。
 精緻なレースのカーテンの向こう側は、少しずつ明るくなってきていた。
 顔を上げると、思いの外近くに壱哉の顔があって、反射的に頬が赤くなるのを感じる。
 眠っている壱哉の顔は、いつもからは想像出来ないくらい、子どもっぽく見えた。
 もしかすると、この顔の方が、壱哉の本質に近いのではないか。
 そんな事を思う。
 世の中を色々知っているようで、日常的な事は驚くほど知らなくて。
 巨大な企業グループを、世界を相手に立派に維持しているかと思えば、自分の感情や、心には呆れるくらい疎くて。
 子どもみたいだ、などと言ったら、きっと凄く怒るのだろうけれど。
 ふと気付けば、壱哉の手が、自分の手の上に覆い被さっていた。
 気恥ずかしく思う傍ら、握り締めていないあたりが壱哉らしいとも思う。
 壱哉の気紛れで、昨夜は酷く苛まれた。
 闇の力を注がれて、本当に全身を引き裂かれるかと思うくらい苦しかった。
 あまりの苦痛に、悲鳴を上げて許しを乞う自分を、薄ら笑いながら眺めていた壱哉の表情に、別な苦しさと辛さを覚えた。
 こんな風に、子どもっぽい顔を見ていると、本当に同一人物なのかとさえ思ってしまう。
 しかし、昨夜の事は紛れもない事実で。
 自分が、魂を奪われ、人ではなくなってしまった事もまた、事実なのだ。
 辛い事も色々あったけれど、それなりに穏やかだった生活すら、全て奪われて――それでも、壱哉を憎む事が出来ない自分に苦笑する。
 冷酷で、残忍な『悪魔』。
 闇の力を振るう姿は、確かに人間ではないと判るけれど。
 それでも壱哉は、以前と、『人間』だった頃と変わっていないと思う。
 傷付きやすくて、でも自分の感情に呆れるくらい疎くて。
 時々、自分を見る壱哉の瞳に、後悔のような色が浮かぶのには気付いていた。
 夜、時折魘される事もあった。
 魘されて目覚めた直後、まだ夢うつつのような時は、まるで縋るように抱き締めてくる事もあった。
 でも、きっと壱哉自身は自分の心の傷に、求めるものに気付いていない。
 だからこそ―――憎めない。
 放ってなんかおけない。
 カーテン越しに薄く光が差し込んで、徐々に明るくなって行く部屋の中は、酷く静かだった。
 しんと澄んだ空気の中に、小さく、壱哉の寝息だけが聞こえている。
 ふと、思う。
 遠い、未来。
 壱哉が、自分を必要としなくなる日は来るのだろうか。
 おそらくは、心の中に深く刻まれている傷が、癒される日は来るのだろうか。
 本当は今のまま、人としていて欲しかったけれど、完全に悪魔になってしまっても構わない。
 壱哉が、過去の嫌な記憶を乗り越える事が出来るなら。
 壱哉が、本当に望んでいるものを手に入れられるなら。
 その時は、自分がいる必要も、なくなるのではないか。
 そんな事を思う。
 自分には何の力もないけれど、もし、叶うのなら。
 壱哉の抱える苦しみ全てを道連れに、消えてしまいたい。
 この身も、壱哉の記憶からも、消えてしまえれば。
 それが叶うなら、『悪魔』に身を売っても構わない。
 そんな考えにまた、苦笑した。
 渡すべき魂も、最早自分は持っていないのだ。
 でも、壱哉の中にある自分の魂と、この身体、全て引き替えにしても、願いが叶うなら惜しくはない。
 それで、壱哉の心が平穏を手に入れられるなら。
 叶う事はない願いだろうけれど、望み続けるくらいは許されるのではないか。
「―――――」
 小さく呼んだ声が思いの外大きく聞こえて、慌てて、壱哉の寝息を確かめる。
 幸い、壱哉の眠りを妨げてしまった様子はなかった。
 ほっとして、小さく息をつく。
 片手に乗せられた壱哉の手を、もう一方の手でそっと包み込む。
 壱哉を起こさない程度に、でもしっかりと握り締める。
 この、傲慢で、とても傷付きやすい『主』が目を覚ますまで、もう少し、穏やかな時間を微睡んでいよう。
 そう心の中で呟いて、もう一度、目を閉じた。

END

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相手の従魔は誰とでも取れるように特定せずに書いたつもりではありますが。山口さんを苛めそうにはないんですよねぇ。実の所。
実はこの話、前回の樋口の話の時にちょっと入れようかと思ったのですが、変に長くなってしまいそうなので分けました。なので、やっぱり読み直してみると樋口に思えます。うーん。
まぁどっちにせよ、お互い思ってるのにすれ違ってるのは本当にツボです。えぇ。ちなみに、背景色はちょっぴり朝日風(笑)。