零れた水


 目を覚ます。
 薄暗い照明が、殺風景な部屋を照らし出している。
 板張りで、ろくな調度もない部屋。
 『暮らす』のではなく、『飼われる』ための部屋。
 ぼんやりとしていた思考が、ゆっくりと戻ってくる。
 断片的に浮かんでくる『記憶』に、苦笑する。
 今の自分には、それはもう、大した意味のないものなのに。
 遠い昔の光景も、生きる全てだった薔薇園も、人ではなくなってから過ごした時間も――全部、同じ鮮やかさで頭の中に浮かんでは消えて行く。
 目を閉じると、覚えるはずのない『懐かしさ』に、涙が出た。
《来い。樋口》
 唐突に、頭の中に声が響く。
 今の自分の『所有者』であり、絶対的な『主』の声。
 呼ばれた『名前』に、また、苦笑する。
 それは、もういなくなってしまったものが持っていた『名前』に過ぎないのに。
 けれど、『主』がそう呼ぶのなら、それは自分に付けられた『記号』なのだ。
 胸が、苦しい。
 『主』がその名を呼ぶたびに、胸の奥が泣きたいくらい痛む。
 ひとつ、深いため息をついて、『彼』は、のろのろと立ち上がった。


 あの時、自分はどうかしていた。
 くだらないトラブルで、仕事が進んでいなかった。
 魔界からちょっかいを出してきた馬鹿がいて、最悪なくらいイラついていた。
 そのせいでいつになく、酒の量を過ごしていた。
 思い返せば、理由はいくらでもあった。
 しかし、それでも、あんな事をしてしまう程の理由にはならなかった。
「‥‥‥‥‥‥」
 目を閉じれば、浮かぶのはあの日の事だ。
 部屋に戻り、ベッドの傍らには樋口がいた。
 壱哉に全てを奪われ、人ですらなくなって、死ぬ事も出来ずにただ、生きている『従魔』。
 いつも俯いたまま、茶色い耳と尻尾を丸めて身を縮めていた。
 無理に顔を上げさせても、悲しそうな、辛そうな顔をしてすぐ目を伏せてしまう。
 手に入れてからずっと、同じ様子なのに、あの日は酷く気に障った。
 今の扱いが不満なら言えばいい。
 全てを奪った壱哉を恨んで、憎めばいい。
 そんな衝動のまま、壱哉は樋口に手を伸ばした。
 ほんの僅かに残るエナジーを無理矢理奪い取り、闇の力を注ぎ込んだ。
 苦痛に悲鳴を上げながらも、恨む言葉は勿論、許しを乞う事すらしない様子に苛立ちが更に募った。
 だから―――――――――『消した』。
 その意志を奪い、心を消し去った。
 ほんの一瞬で、それは終わった。
 後に残ったのは、ただの抜け殻。
 魂も、心もない、ただ生きているだけの骸。
 呼べば、答えは返って来た。
 何かを命じれば、おとなしく従った。
 しかし、そのガラス玉のような瞳に何かの色が浮かぶ事はなかった。
 表情すらも抜け落ちた。
 ただぼんやりと虚ろな表情で、壱哉の命令を待つようになった。
「本当の、従魔らしくなったじゃないか」
 樋口の心を消した翌日、訪ねて来たネピリムが笑った。
 壱哉のした事を知って、様子を見に来たのだろう。
 そんなネピリムに怒りは覚えたが、元はと言えば、自分のした事なのだ。
「戻す方法はないのか?」
 ろくな答えは返って来ないだろうと思いつつ、壱哉は訊かずにはいられなかった。
 するとネピリムは、案の定、馬鹿にしたように笑った。
「戻す?せっかく、ちゃんとした従魔になったのに、何を戻したいんだ?」
「うるさい!心を消す前に戻せないかと訊いてるんだ!!」
 思わず激した壱哉に、ネピリムは益々、楽しげな表情になった。
「あぁ、そう言うこと。‥‥残念だけど、無理だね」
 口元に笑みを浮かべながら、ネピリムは肩を竦めた。
「身体だったら、不可能ではないさ。でも、心となると話は別だ。‥‥例えば、一度消してしまった字の跡を上からなぞったって、それは元の字とは違うものだろう?それと同じことさ」
「‥‥‥‥‥」
「でも、考えようによっては、悪くないんじゃないか?自分の好きなように作り直せるんだからな」
 懐くようにでも、逆らうようにでも、どうとでもなるだろう。
 そう言って笑うネピリムに、本気で殺意が湧く。
 そんな壱哉の気持ちを感じ取ったのか、ネピリムは背中の羽を広げた。
「まぁ、せいぜいその『人形』と楽しむがいいさ。どう壊れても作り直せるんだからな」
 楽しげな高笑いを残して、ネピリムは消えた。
 やり場のない怒りを感じながらも、壱哉は、握りしめた拳を下ろすしかなかった。
 壱哉は、傍らに蹲る樋口を見下ろす。
 この胸の内には、樋口の魂がある。
 そして、目の前には樋口の肉体がある。
 どちらも、『主』である壱哉のもののはずだった。
 それなのに、樋口の存在が、酷く遠い。
 いや、本当に失ってしまったのか。
 ほんの一時の、感情のために。
「樋口‥‥‥」
 呼ぶと、樋口は顔を上げた。
 何の感情も浮かばない、造り物のような瞳で見上げてくる。
 そっと髪を梳いてやっても、反応はない。
 前は、黙って目を閉じて、壱哉の手に委ねて来たのに。
 悲しげな色を残しながらも、どこかうっとりと、壱哉の手を感じていた様子が目に浮かんだ。
 それから、どれだけの時間が経ったろう。
 一度は、従順で、壱哉に素直に従う人格を造ってみた。
 しかし、何をしても迷いもなく従う姿に、やはり苛立ちを覚えた。
 逆に、壱哉を憎むように、嫌うようにも造ってみた。
 それは当然の姿であるはずなのに、きつい言葉を向けられるたび、酷く胸が痛くなって、逆に壊してしまいそうな程苛んでしまった。
 だから壱哉は、樋口の心を可能な限り戻す事にした。
 自分が消し去った痕跡を、ひとつひとつ丹念に戻して行く。
 手を加えるたびに、樋口は変わった。
 ある時は陽気に、ある時は子どものように、そしてある時は酷く塞ぎ込む。
 何度も繰り返すうち、樋口の様子は、以前に近くなって行った。
 しかし、どれだけ手を加えても、何かが違う。
 認めたくはないが、ネピリムの言葉は真実だった。
 一度失われてしまったものは、戻らないのだ―――永遠に。
 ふと、気配に目を開くと、部屋の入り口に『従魔』が立っていた。
「ここに来い。‥‥『樋口』」
 呼ぶと、そっと目を伏せた『樋口』は、ゆっくりと近付いてくると、足元に蹲る。
 どうやら『樋口』には、壱哉によって自分の心が一度消された事、その後、何度も壱哉がその意識と心に手を加えた事が判っているようだった。
 そのせいかどうか、『樋口』は、強いなければ壱哉の名を呼ぶ事はなくなった。
 言葉を飲み込むようにする時、僅かに辛そうな表情を浮かべるのだ。
 そんな、余計な『記憶』など消してしまいたいと思ったが、また手を加えると、本来残っているはずの記憶まで消してしまいそうで、手が出せなかった。
 茶色い頭に手を乗せ、そっと髪を梳くと、『樋口』は、目を閉じ、どこか切なげな表情になる。
 その表情は、やはり以前とは違って見えた。
 いや―――そうではない。
 これは、樋口だ。
 この、犬の耳や尻尾と同じように、壱哉が手を加え、変えてしまっただけで、これは確かに樋口なのだ。
 赤い首輪に繋いだ短い鎖を引っ張り上げ、強引に唇を合わせる。
「んっ‥‥ふ‥‥‥」
 舌を絡ませ、弄ぶと、鼻に掛かった甘い吐息が洩れる。
 弱々しくなっているエナジーを補うように闇の力を注ぎ込むと、胸の内にある魂が僅かに震えた。
 これは、樋口だ。
 学生時代に言葉を交わし、そしてあの街で、壱哉が全てを奪った―――樋口なのだ。
 どんなに変わってしまったとしても、それは全て、壱哉がした事だ。
 だから、この樋口を否定する資格など、壱哉にはない。
 苦い思いが、胸の中に広がる。
「樋口‥‥‥」
 呼ぶたびに、樋口の瞳に辛そうな色が浮かぶ。
「俺を呼べ」
 そう命じると、その表情に苦しげなものが混じる。
「くろさき‥‥‥」
 無理に絞り出すようなその言葉を聞くと、胸が苦しくなった。
 これは、報いか。
 一度壊れてしまったものは、どんな力を使おうとも、決して元には戻らないのか。
 悲しげに揺れる瞳を覗き込む。
「お前は、俺のものだ」
 樋口の表情が翳る。
「‥‥‥うん‥‥‥」
 答えを求められていると察してか、樋口は俯いて、消え入りそうな声で言った。
 その頑なにも見える態度に、一瞬、怒りが湧く。
 また、消してしまおうか。
 何も覚えていない『樋口』をまた造り直してしまおうか。
 湧き上がった衝動を、辛うじて押さえ付ける。
 そんな事をしても、同じ事の繰り返しだ。
 結局‥‥何も、戻りはしない。
「樋口。お前は、俺のものだ」
 茶色い瞳を覗き込み、言い聞かせるようにもう一度言う。
 以前も、それは悲しげな色をしていたけれど、今は、辛そうな、今にも泣き出しそうにも見える色を湛えていた。
 揺れる瞳を見詰めながら、唇を合わせる。
 僅かに震える身体を抱き締める。
 確かに腕の中にあるはずなのに、その存在が、酷く遠いものに感じる。
 それがとても苦しくて、壱哉は、きつく、きつく腕の中の身体を抱き締めた。


「樋口‥‥‥」
 呼ばれると、胸が酷く苦しくなる。
 壱哉は、自覚しているのだろうか。
 その名を呼ぶ時、壱哉の瞳には、苦しげな後悔の色が浮かんでいるのを。
 苦しめたくて、自分はここにいるのではない。
 けれど、おそらくは自分が存在している限り、壱哉はどうにもならない後悔を抱き続けるのだろう。
―――くろ‥さき‥‥‥。
 心の中で小さく呟く。
 その名前を口にする事は許されない気がした。
 その言葉は、今は消えてしまった『樋口』のものなのだから。
 初めて目を覚ました時、自分が何であるのか、知っていた。
 『樋口崇文』と言う人格、心は一度消えてしまって、自分は、それを真似て造られた存在であるのだと。
 そのせいだろう、頭の中に残っている『記憶』は、あまり多くなかったし、断片的だ。
 『従魔』になってからの記憶さえ、部分的に欠けている。
 だから、真似ようにも、本物の『樋口』がどんな風だったのかを知らなかった。
 自分は、消えてしまった『樋口』の代わりにはなれない。
 いや、自分の存在さえ、明日目を覚ました時にあるのかどうか判らない。
 壱哉が気紛れで、或いは本当の『樋口』を求めて、自分を消して、別の存在にしてしまうかも知れないのだから。
 でも。
 己の存在を消されるかも知れないと思っても、何故か、壱哉を憎む事は出来なかった。
 もしもそれで、壱哉が悔やむ事がなくなったなら、それでいいとさえ思える。
 壱哉が、大切だった。
 それは所詮、『従魔』として造られた心の動きなのかも知れないけれど。
 でも、絶対的な『主』のためではなく、『黒崎壱哉』のために、何を犠牲にしても役に立ちたいと思う。
 注ぎ込まれる『闇』はとても優しくて、甘くて、とても‥‥‥胸が痛くなる。
 肉体的にではなく、そう、強いて言うならば、今の自分にはあるはずのない『心』が。
 もし、叶うのならば。
 今度目覚めた時に、自分は消えてしまえばいい。
 そして代わりに、壱哉が望んでいる、本当の『樋口』が戻っていればいい。
 毎日、そう思いながら眠りに就く。
 朝、目を覚まし、昨日と変わりない自分である事に安堵と失望のため息をつくのだ。
 呼ばれ、向けられる壱哉の瞳は、自分の中に、本当の『樋口』を探しているようだった。
「俺を呼べ」
 そう命じられれば、呼ばない訳には行かない。
「くろさき‥‥‥」
 その言葉を口にするのは、酷く抵抗があった。
 罪悪感めいた居心地の悪さ。
 本当は、自分は、そんな風に親しげに呼んではいけないのだと思う。
 『本物ではない』自分は。
「お前は、俺のものだ」
 その言葉が向けられているのは、自分にではない。
 そう、自分に言い聞かせていないと、勘違いをしてしまいそうだった。
 壱哉が、自分に言葉を向けてくれているのだと。
 壱哉に呼ばれるたび、どこかに逃げ出してしまいたいような衝動に駆られる。
 無論、『従魔』である身には不可能な事だけれど。
 本物の『樋口』を見ている壱哉の視線が苦しくて、壱哉の求めているものではない自分が辛くて。
 壱哉の前に出ると余計、罪悪感めいた自己嫌悪が募る。
 壱哉を、苦しめる事しか出来ない自分の存在など、消えてしまえばいいと思う。
「樋口。お前は、俺のものだ」
 きつく抱き締めてくる腕が、嬉しくも辛い。
 応える言葉を持たない自分。
 何も出来ず、自ら消える事さえ出来ない自分。
 甘い口付けに蕩けそうになる意識の片隅では、泣きたいくらいの悲しさが渦を巻く。
「お前は‥‥‥俺の、大切な『従魔』だ」
 その言葉は、どこか、自分自身に言い聞かせているようだと思う。
 それでも、真っ直ぐに向けられている視線と言葉に、身が震えた。
 違うのだ。
 そう思いながらも、胸の奥が痛くて、熱い。
「‥‥‥うん‥‥‥」
 ほんの、少しだけ。
 今だけ、勝手に思い込んでもいいだろうか。
 『樋口』として、壱哉の側にいるのだと。
 壱哉が、自分を見てくれているのだと。
―――くろさき‥‥‥。
 胸の内で小さく呟いて、壱哉の背中に、少しだけ手を伸ばす。
 ただ、ほんの少し触れるだけ。
 抱き締めるなんて、許されない。
 けれど、応えるように、壱哉の腕が力を増す。
 そのぬくもりが切なくて――嬉しくて。
 涙が、一粒、流れた。

END

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今日のことわざ…『覆水盆に返らず』。
ある意味、究極のバッドEDです。そうまでしてバッドが見たいか、自分。‥‥‥見たいんですね、やっぱ。ぼんやりとPC版のバッドEDを思い出していて、それに比べたらやっぱヌルいよなぁなんぞと思い。こうなりました。
壱哉様は(特にPS2版は)こう言うヒステリー気質ではないとは思うのですが。絶対者であるが故に、なんでも出来てしまうのだろうなぁと。とりあえず、樋口いぢめは書いてて結構楽しかったです(←いぢめっこ)。