子猫の涙
部屋に入ると、蹲っていた子猫が顔を上げた。 「黒崎‥‥さん」 嬉しそうな、しかしどこか悲しげにも見える表情。 ずっと泣いていたのか、目元が赤く腫れている。 「随分、我慢させたな」 大股に歩み寄り、華奢な身体を抱き締める。 全く日に当たらない肌は白くなり、黒い革とのコントラストが際立っている。 元々、細い身体だったが、今は力を篭めれば折れてしまいそうな儚げな雰囲気を加えている。 「うん‥‥ずっと、待ってた」 そっと目を伏せ、震える睫毛の下から透明な雫がひとつ零れ落ちる。 「もう、泣くな。今は俺がいるだろう」 泣き腫らした目元に口付けて、そっと闇のエナジーを注ぎ込む。 闇の力で、腫れた目元は次第に元に戻って行く。 『泣くな』と命じる事は簡単だった。 主である壱哉が命じれば、新はどんなに泣きたくても泣く事は出来ない。 『従魔』とは、そう出来ているのだ。 しかし、壱哉はそうはしていない。 だから新は、一人で残されている間、ずっと泣いている。 一人でいる孤独。壱哉への恋しさ。 そして、大切な人達が自分を置いて行ってしまった日の事を思い出し、壱哉もまたいなくなってしまうのではないかと怯えて、泣くのだ。 「少しまとまった休みが取れた。その間は、ずっと一緒にいられる」 「ほんと?!」 嬉しそうに、新は壱哉に頭を擦り付けて来る。 その仕草は、本当に、小さな子猫のようだった。 今の新は、こうして素直に感情を表す。 そして、身も心も、全てを壱哉に依存している。 そんな風にしたのは、壱哉だ。 『契約のキス』で魂を手に入れ、従魔への肉体の変容を促す時。 裏切られた怒りと悔しさ、そして悲しさを滲ませた表情は悪くなかった。 しかし、素直に、壱哉に懐く新はきっと可愛いだろう。 だから壱哉は、ほんの少しだけ、闇のエナジーに方向性を与えた。 新が、一人で生きるために身に着けた、心の鎧。 それを剥ぎ取り、心をさらけ出し、壱哉に依存するように仕向けた。 だから、今の新には、壱哉以外の存在は意味を成さない。 ただひたすら、壱哉を待ち続け、壱哉と共にいる事だけを望んでいる。 そう、これは、壱哉が望んだ姿だった。 大きな、鳶色の瞳に自分以外の姿が映っていない事に、深い満足を覚える。 ただひたすらに、自分を求め、その態度に一喜一憂する姿に愛着を覚える。 だが‥‥しかし。 壱哉しか見ていない、濡れた瞳を眺めながら、ふと、思い出す時がある。 あの町で――他愛ない会話を交わした一ヶ月間。 弁護士になる、と、真っ直ぐ将来を見据えていた強い瞳。 怒ったり、笑ったり、照れたり、くるくると良く感情を表す大きな瞳。 そして何より、強い意志と希望とに満ちた純粋な瞳。 あの力強い光に満ちた瞳を、あの時自分は、素直に、綺麗だと思っていた。 もう――二度と、見られないものだけれど。 肉体ならばともかく、一度変えてしまった心は、元通りには戻らないとネピリムが言っていた。 元のように変える事は出来ても、それは新たに作り出された心であり、元のそれと同じではないのだと。 見下ろせば、あの時と同じように真っ直ぐに見詰めて来る大きな瞳がある。 しかし、そこに宿る色は、全く姿を変えていた。 もし、あの時、新の心に何も手をつけず、そのままで置いたら。 いや‥‥‥もし、あの時、新の魂を奪わなかったら。 何かが、変わっていただろうか。 そんな事を思う時、壱哉は、僅かな胸の痛みを感じる。 この胸の中に捕らえた、新の魂が、酷く熱を帯びて感じる。 痛い程に。 息苦しい程に。 「フ‥‥‥今更、そんな事を考えて何になる」 そう――これは、壱哉自身が望んだ事。 壱哉の呟きを聞きとがめたのか、新は不安そうな顔で見上げて来た。 黒い、しなやかな尻尾が、落ち着かないように左右に振られる。 そんな子猫の頭を、優しく撫でる。 髪と同じ色をした尖った耳を軽く指で玩べば、嬉しそうに目を閉じて身を委ねてくる。 「ずっと‥‥ずっと、俺の側においてやる。何があろうと、お前を一人で残しはしない」 それは、主としての誓い。 奪ったものへの対価――いや、償い。 多分それは、奪ったものの重さには到底、釣り合わないだろうけれど。 傍にいる。 生を手放す、その瞬間まで。 「お前は‥‥‥俺のものだ」 優しく、耳に囁く。 儚げに目を閉じた子猫の頬に、また、涙か一滴、流れた。 |
END |
樋口の話より更に短いです。その上、同じくやっつけ仕事です(←もういいって)。
新のバッドED、攻サイドの話ばかりだよなぁと思っていたら、何となく思いつきました。あのEDの時、壱哉様が故意に新の感情部分に手をつけたように書かれていたので、ちょっとびっくりと言うか。
壱哉様、そう言う事はしないと思ったんですが。まぁ、PS2版の壱哉様は、新相手だとそんなに酷い事しないかなぁとか思ったり。