猫の呟き


 何となく、空が見たくなった。
 窓で四角く切り取られてるんじゃない、広い空が。
 思いついて、屋上に上がる。
 屋上に出た途端、頭の上に、青い空が広がった。
 雲なんかほとんどない青い空。
 でもそれは、あの街で、公園で見上げていたものとは、ずいぶん違って見えた。
 広くて、眩しくて、そして―――酷く、遠い。
 遠くて、遠すぎて、もう、俺とはぜんぜん違う世界のものにさえ思えてしまう。
 そんな風に思うのは、きっと、俺自身が変わってしまったせいなんだろう。
 視線を落とすと、数え切れないほどのビルが、薄く霞んだ空気の中にひしめき合っている。
 このマンションは、このあたりでは一番高いくらいだから、他のビルは全部目の下だ。
 まるで、箱庭みたいに、現実感がない。
 あの人は、いつも、こんな景色を見ていたんだろうか。
 世の中を、いろいろ知ってるみたいで、全然わかってない。
 こんな景色ばっかり見てたら、それも不思議じゃないかもしれない。
 あぁ、でも、今は俺も同じか。
 大学に入るとか、弁護士になるとか、そんな、『普通』の生活は、もう俺には縁がなくなってしまったから。
 この、箱庭の中で営まれてる全てのことは、俺とは違う世界のものなんだ。
 あの人に裏切られて、魂を奪われて、『従魔』になって―――わかったことが、いくつかある。
 まず、あの人は、とても嘘つきだと言うこと。
 それから‥‥‥とても、馬鹿な人なんだと言うこと。
 哀れむなんて、俺はそんな傲慢なことを言える立場じゃない。
 でも、本当に欲しいものに、自分の気持ちに、まるで気がついてないあの人を見てると、本当に呆れてしまう。
 俺から魂を奪ったことも、無意識に後悔してるみたいで。
 気がついた時には、だったらするなよ、とか怒りたくなった。
 そう、この、『無意識に』って言うのが腹が立つんだ。
 本当は、欲しいものははっきりしてるのに、気がついてない。
 どうすれば手に入るのか、全然気がついてない――いや、知らないのか。
 いっそ、あの人が本当に悪い奴だったら良かった。
 そうしたら、ただ憎んでいるだけで良かったんだ。
 けど、知ってしまった。
 あの人が、見かけとは違って、いろんな辛い思いをして来たと言うこと。
 そのせいで、大切な、いろいろなものが欠けていること。
 そして、それが何なのか、欠けていることさえ、知らないこと。
 それに気がついてしまったら――憎めない。凄く、悔しいけど。
 何となく、ため息をつく。
 下から吹き上げてくるビル風が、髪を巻き上げて、尻尾や、耳の毛を撫でて行く。
 そう言えば、当てつけに飛び降りてやろうかと思ったこともあったっけ。
 魂があの人の所にあるから、ケガしても、体がばらばらになっても、どうせ元に戻せるんだし。
 凄く痛くて苦しいと思うけど、この身体になる時も凄く苦しかったから、結構平気かもしれないし。
 勝手に人の人生奪って、勝手に人を『所有物』にして、勝手に死ねない身体にした、あの人への嫌がらせにいいかもしれないと思ったんだ。
 でも――やめた。
 もし、俺がここから飛び降りたとしたら。
 きっとあの人は、壊れた俺の身体を必死に戻すんだろう。
 そして、なんでもなかったように俺を見るんだ。
 『こんなことで俺から逃れられると思うな』とか、言うかもしれない。
 本当は、凄く傷ついてるのに。
 きっと、自分ではそれに気がつかないんだ。
 そんなこと考えたら、できなくなった。
 ‥‥‥あー、なんか、俺、馬鹿みてえ。
 なんでこんなに、あの人のこと考えて、心配してるかなぁ。
 俺から何もかも奪って、人間でさえなくした奴だってのに。
 結局、俺、あの人のこと、好きだったんだよな。
 こんな風になって――気がついた。
 いや、今もきっと、好きなんだ。かなり。
 すっごい悔しいから、絶対に口には出さないけど。
 なあ、黒崎さん。
 あんた、自覚してるか?
 あんたの中に俺の魂があるってことは、あんたと俺は一心同体なんだってこと。
 時々、感じるんだ。
 あんたの魂が、凄く苦しんでるとき。
 あんたの魂が、凄く寂しがってるとき。
 俺にはわかるんだ。
 あんた自身が気がついてない、感情が。
 だから――俺が、あんたの『良心』になってやるよ。
 あんたは気づいてない、自覚もしてない感情を、俺が引き受けてやるよ。
 そして、あんたがこの世から消えるまで、ずっと側にいる。
 側にいて、いつもあんたを見てる。
 あんたが、本当に求めてるものとは、少し違うけど。
 でも、それで少しは、寂しくなくなるだろ?
 あぁ、あんたはきっと、自分が寂しがってるなんて認めないんだろうけど。
 でも、いいよ。
 俺は、死なないから。――死ねないから。
 この世に存在してる限り、あんたの側にいるよ。
 だって、俺はあんたの‥‥‥『良心』なんだからな。



闇の棲み処へ