Eifersucht
《1》


 その連絡が入ったのは、大きなプロジェクトが一段落した頃の事だった。
「‥‥‥吉岡」
 壱哉が、携帯を内ポケットに納めながら自室から姿を現した。
「なんでしょう、壱哉様」
 壱哉の表情が妙に硬いのに気付き、吉岡は真顔になる。
「俺の、留学時代の友人の‥‥クラウスの事は覚えているか?」
「‥‥‥はい」
 銀髪で背の高い、端整な顔立ちをした男性。
 彼によって、壱哉は自分の性癖に気付かされたのだと言う事だった。
 留学中に一時帰国して来た壱哉が一緒に連れて来て、家に泊めた時に吉岡は初めて顔を合わせた。
 夜、壱哉が彼に抱かれているのを偶然見てしまった時の事は、今でも苦く思い出された。
「そのクラウスがな。明後日、こっちに来るらしい」
「は‥‥」
 吉岡は、思わず言葉を失ってしまった。
「観光、とか言っていたが。昔のよしみで、俺に案内しろと言ってきた」
 壱哉は、呆れたような顔をしている。
 一方、吉岡はどう反応すればいいのか判らず、黙っているしかない。
 大体、彼だって壱哉が忙しい人間だと言うのは知っているはずなのだが、いきなり明後日とは。
「‥‥あいつだってそんなに暇なはずはないんだがな。まったく、何を考えているんだか」
 壱哉はため息をついた。
「‥‥どう、されるのですか?」
 吉岡の言葉に、壱哉は肩を竦めた。
「まさか無下にもできんだろう。あいつの家は、あっちでも有数な実力者だ。敵に回す訳にも行かない」
「‥‥‥わかりました」
 吉岡は、小さく頷いた。
 複雑な内心がない訳ではなかったが、そんな個人的な感情は別の話だ。
 彼が欧州でも有数の財閥の家の出である事は壱哉から聞いているから、邪険にするのは確かにまずいだろう。
 吉岡は、明後日からのスケジュールに目を落とす。
 丁度その辺りで、EU関係の実力者がお忍びで来日するとの情報が入っていて、壱哉は事業範囲の拡大の為にアポイントを取ろうと考えていた。
 まだ海外とのパイプが殆どない為に、アポイントどころか具体的な日程すら掴めていなかったから、突発的な予定を入れるのに丁度一週間ほど空けていたのだ。
「例の関係で、大きな予定は入っていません。社内の打ち合わせや視察がメインですから、アポイントが入らなければ時間の調整はできます」
 いつもと変わらない様子の吉岡を、壱哉はじっと見上げた。
「‥‥?なんでしょう?」
 その視線に気付き、吉岡は怪訝そうに目を上げる。
「お前に迷惑をかける事になるが‥‥すまない」
「いえ、そんな事は‥‥‥」
 壱哉は立ち上がると、吉岡の顔を見詰めた。
「俺は今も、あいつと知り合った事自体は、後悔してないんだ」
 壱哉は、愛しげな表情で吉岡の頬に触れた。
「だからこそ‥‥今、お前とこうしていられるんだからな」
「壱哉様‥‥」
 吉岡は、少し困ったような顔をする。
 仕事中には、どんなトラブルが起ころうとも全く表情を動かさない吉岡のこんな顔は、壱哉だけが見られるものなのだろう。
「心配するな。適当に相手をして、すぐ追い返すさ」
 壱哉は、吉岡を安心させるように笑った。


 そして、クラウスが到着する日。
 日本は判らないから迎えに来て欲しいと言われ、壱哉は吉岡を伴って空港に来ていた。
 日本語は出来るのだから一人で来い、と言っても良かったが、会社に押し掛けてこられても困る。
 ロビーにひしめく人ごみの中で、銀髪の長身は遠くからでも良く目立った。
 ラフな服装にサングラスなど掛けていると、まるで外国のスターのお忍び旅行のようだ。
 壱哉が声を掛ける前に、クラウスの方もこちらを見付けたようだ。
「イチヤ、ひさしぶり!」
 辺りも憚らず手を振ると、足早に歩いて来る。
 日本に帰って来て以来、一度も会っていなかったからか、クラウスはあの頃とは違って見えた。
 モデルでも通じる端正な面立ちは同じだが、どこか厭世的で、陰を感じさせるような雰囲気は大分薄くなっているようだった。体格もかなりがっちりしたようだし、全体的に存在感を増したような気がする。
「会いたかったよ、イチヤ」
 クラウスは、物珍しげな辺りの視線も全く気に留めず、壱哉を抱き締める。
 更に、キスの雨を降らせるクラウスの腕から、壱哉は慌てて抜け出した。
「クラウス。ここは日本なんだ、お前の国と一緒にするな」
 呆れたような言葉に、クラウスは悪びれた様子もない。
「つれないなぁ、イチヤ。今まで、何度もラブコールしたのにちっとも返事をくれないし」
 恨めしげに見詰めて来るクラウスに、壱哉はため息をついた。
「‥‥お前、軽くなったんじゃないか?」
 昔も確かに、辺りを気にせずいちゃついて来る風ではあったが、それでももっと落ち着いていた気がする。
「僕は昔からこうだよ。イチヤこそ、随分堅くなったみたいだな」
 そう言って、クラウスは黙って控えていた吉岡にちらりと視線を走らせた。
「もしかして、彼のせい?今の愛人なんだろう?」
 クラウスの言葉に、壱哉は眉を吊り上げた。
「吉岡は、愛人じゃなくて俺のパートナーだ。仕事の上でも、私生活でも」
 壱哉の言葉は意外だったのか、クラウスは少し驚いたように目を見開いた。
「だから、絶対に手なんか出すなよ。それから、俺も昔のよりを戻す気はないから、そのつもりでいてくれ。あくまでも、お前は俺にとっての『客』なだけだ」
「‥‥‥‥」
 聞きようによってはそっけない壱哉の言葉に、クラウスは黙り込む。
 しかし、好奇心に満ちた視線が壱哉と、そして吉岡に向けられている所を見ると、納得した訳ではないようだ。
「車を持って来ているから、さっさ行くぞ」
 さすがに、これ以上人目を引きたくないと思ったのか、壱哉はクラウスを促した。
「ホテルを取ってあるから、まずチェックインだな」
 吉岡が運転するBMWに乗り込んで、壱哉が言った。
「イチヤの家に泊めてもらえるんじゃなかったのか。残念だな」
 クラウスが、落胆したようにため息をついた。
「もうお互い、学生時代とは違うだろう。家で仕事をする事もある、そこに外部の人間を簡単に入れる訳には行かない」
「‥‥日本人らしく、仕事熱心だねぇ」
 少しからかうようなクラウスの言葉に、壱哉は苦い表情になった。
「お前だって、人の事が言えるのか?由緒正しい家柄の財閥トップなら、やる事はいくらでもあるだろう。こんな所に遊びに来ている余裕があるのか」
 しかしクラウスは、面白そうに笑った。
「生憎だけど、僕はもう、財力があるだけのお飾りだからね。コンツェルンも、今はかなり規模が小さくなった上に、全部人に預けたから、身軽なものだよ」
「なに‥‥?」
 この話は意外で、壱哉は思わず聞き返してしまった。
「素行不良な当主にコンツェルンを握らせてはおけないらしい。まだ名義は僕になっているけど、実質は一族の人間が動かしているんだ。コンツェルンの足を引っ張らなければ大金も使えるし、毎日遊んでいられる。僕にとっては楽しい日常だよ」
 壱哉は、思わずクラウスの顔を凝視してしまった。
 長い歴史を持つ名家であり、とてつもない財力のある家に生まれたばかりに、幼い頃から重大な責任を背負わされて来たクラウス。
 その反発からか、学生時代には浮き名を流したり、許されない恋にばかり手を伸ばしていた事も知っていた。
 卒業してから、彼が当主として家に戻った事までは知っていたが、実質的な責任を全て捨ててしまったと言うのか。
「ふふ‥‥意外かい?」
 クラウスが、楽しげに笑った。
「コンツェルンなんて言うのはね、動かす歯車さえあれば自然に動いて行くんだよ。多少小さくなった所で、僕の代で潰れる程度の資産でもないしね」
「‥‥‥‥」
 以前から投げやりな所があるとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
 だが、背負うべき重責を放棄して刹那的に生きていると言う割には、クラウスからはそんないい加減な雰囲気は感じられなかった。
 いや‥‥むしろ、学生時代よりも底知れない何かがあるようにも思えた。
 軽い言葉と、それに反して存在感のあるクラウスに、壱哉は戸惑っていた。
 どちらの姿も、学生時代に知っていたそれとは違っていた。
 彼が、一体何を目的にして、今更日本に来たのか。
 壱哉は、クラウスの内心を図りかねていた。


 クラウスが滞在するのは四日間との事だった。
 まさかその間仕事を放り出して壱哉がついている訳には行かないし、かと言って吉岡も、クラウスについていられる程暇ではない。
 何とか時間を都合して、壱哉が一日目に付き合い、二日目は吉岡が案内をして、それ以外の日は好きに歩かせる事にした。
 大体、流暢な日本語が話せるくせに「日本の事はわからないから案内が欲しい」とは聞いて呆れる。
 取り敢えず、クラウスは都心のビジネス街や、とにかく人の集まる場所を見てみたいと言う。
 おかげで、壱哉は人混みに閉口しながら、東京の街を歩く羽目になった。
 ただでさえ外国のスターかモデルのように見えるクラウスに、スーツ姿の壱哉が一緒にいるのだ。
 人混みの中ではあまりにも人目を引いてしまい、壱哉はかなり居心地が悪かったりする。
「確か、アキハバラと言うのは『オタク』の街なんだろう?」
 楽しそうなクラウスに、壱哉はため息をついた。
「そう言う偏った知識をどうやって仕入れてるんだ?」
「『オタク』と言うのは日本の文化じゃないのか?かなりグローバルな言葉になっていると思ったんだが」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉は、もう一度、深いため息をついてしまった。
 何となく疲れてしまって、反論する気力も湧いて来ない。
 壱哉は、普段から人混みの中など歩かないし、あまり好きでもないために、途中からすっかり飽きてしまった。
 しかし、クラウスの方は逆に、何もかも物珍しそうに見回して、本当に楽しそうに見えた。
 目立つ長身のために女性から声を掛けられたりして、それが更に壱哉の機嫌を悪くしてしまったりする。
 そして、夕方。
 一日、人混みの中を歩いてすっかり疲れてしまった壱哉は、夕食は思い切り高い料亭でとる事にする。
 クラウスが和食を食べたいと言っていたし、ここであれば、限られた人間しか入って来ないから、静かで落ち着けるのだ。
「やっぱり、日本の懐石料理は素晴らしいね」
 満足気に目を細めるクラウスに、壱哉は少し呆れる。
 クラウスは箸もごく普通に使っているし、懐石の作法も最低限は知っているようだ。
 最近の日本食ブームで、欧州でも日本料理店が増えていると言うから、それで覚えたのだろうか。
「‥‥それにしても、日本語が上手くなったな?」
 元々語学には才能を発揮していたクラウスは、学生時代に既に母国語のドイツ語の他、英語、フランス語、イタリア語をマスターしていた。
 壱哉と関係を持つようになってから日本語も勉強し、壱哉が一時帰国するまでには何とか日常会話がこなせるくらいまで上達していた。
 それが、久しぶりに会うと、少しイントネーションは違うものの、ごく普通に日本語を話しているのだ。
「そうだね‥‥今は、十カ国語くらいは話せるかな?」
 事も無げな言葉だが、普通の人間にそうそう出来る事ではない。
「それだけ喋れれば、いつでも外交官になれるだろう」
 壱哉の言葉に、クラウスは肩を竦めた。
「国のために頭を痛くするなんてごめんだね。僕は、気に入った人間としか話す気はないから。‥‥大体、恋人ができるたびに言葉を覚えて行けば十カ国語なんてすぐだよ?」
 臆面もない言葉に、壱哉は呆れた。
 学生時代も、何人もの相手と関係を持っていたクラウスだが、それは今も変わっていないらしい。
「でも、イチヤは随分ストイックになったね。『仕事が趣味』の典型的日本人かな?」
 からかうようなクラウスの言葉に、壱哉は憮然とした表情になる。
 そんな貧しい精神構造のつもりはないが、休日も何度かに一度は仕事に追われて休めなかったりするから、大きな事は言えない。
「戻ってからは結構楽しんでるって聞いていたんだけど。来てみたら大違いだ」
 確かに、吉岡と気持ちを確かめ合う前は色々やっていたが、どうしてクラウスがそこまで知っているのだろう?
 険しい表情になった壱哉に、クラウスは本音の見えない笑みを浮かべた。
「そっちの裏仲間はたくさんいるからね。そう言う情報が伝わるのは早いよ?」
 答えになっていない気もするのだが、これ以上追求してもきっと無駄だろう。
 それとなく腹の探り合いをしながらの夕食に、壱哉はちょっと疲れてしまったのだが、クラウスはいたく満足したようだ。
 食事を終える頃にはそれなりの時間になっていたから、壱哉はそのままクラウスをホテルに送る。
 ホテルの最上階、ロイヤルスイートルームのドアの前で、壱哉は足を止めた。
「じゃあな。悪いが、明日と明後日は外せない仕事が入っているから、お前の相手はできない」
 ややそっけない口調で言う壱哉を、クラウスはじっと見詰めた。
「まだ夜は早いよ。寄って行かないか」
 意図的な流し目に、壱哉はそっけなく答えた。
「悪いが、遠慮する。お前とよりを戻すつもりはない、と言ったはずだ」
 遠慮のない壱哉の言葉に、クラウスは苦笑いした。
「今の愛人がよっぽどいいんだね?僕の方は、君の事が恋しくてわざわざ訪ねて来たと言うのに」
「吉岡は『愛人』ではなくパートナーだと言っただろう!」
 壱哉は、厳しい顔でクラウスを睨み付けた。
「残念だな‥‥君が、誰かの手に落ちてしまうなんて」
 クラウスは、軽く腕を掴んで壱哉を引き寄せ、その唇に口付ける。
 壱哉に逃れる隙さえ与えない手際の良さは実に手慣れたものだった。
 熱いキスに答える事はせず、壱哉はするりとクラウスの手から抜け出す。
「いい加減にしろ、クラウス。お互い、もう学生時代とは違うはずだ」
 本気で睨み付ける壱哉に、クラウスは小さなため息をついた。
「君が日本に帰ってしまって初めて、僕は本当は君の事が大切だったんだって気がついたんだ。だから、もう一度君に会いたいと思って手紙を書いたのに。バースデーなんかに贈ったプレゼント、見てくれてないだろう?」
「‥‥‥‥」
 さすがに、そのまま捨てていたとは言いづらい。
「君が来てくれないから、僕の方から会いに来たんだ。それなのに、君はつれない事ばかり言うし」
 クラウスは、わざとらしく大きなため息をついた。
「君が仕事が好きになったと言うなら仕方ないけど。でも、それなら、僕のコンツェルンを預けてもいいんだよ?」
「なに‥‥?」
 クラウスの言葉に、壱哉は耳を疑った。
「君の腕と、僕の財力と家柄。これを合わせれば、どんな事だってできると思わないか?僕達、最高のパートナーになれるはずだよ。‥‥もちろん、私生活でも、君を満足させてあげられる自信はある」
 本気で言っているのか、と壱哉は思わずクラウスの顔を見てしまった。
 クラウスの表情は酷く真剣で、少なくとも、冗談で言っているようには見えなかった。
 もし、クラウスが本気なら、こんなにいい話はない。
 クラウスと手を組めば、日本ばかりか、ヨーロッパでも大きな事業が出来るようになる。
 しかし壱哉は、そんな甘い言葉を額面通りには受け取れなかった。
 そもそもクラウスに、そこまで壱哉に執着する理由はないはずだ。
「冗談なら、ここだけの話で聞き流してやる。もし冗談じゃないなら、俺ではなく、他の奴を当たれ」
「‥‥‥‥‥」
 壱哉の答えに、クラウスは落胆したような表情になった。
「どちらにせよ、お前との遊びはもう終わったんだ。‥‥明日は吉岡に案内させるが、余計な事は言うなよ?」
 これ以上の話を打ち切るように、壱哉は言った。


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タイトルはドイツ語で『嫉妬』です。なんでドイツ語かとゆーと、アノ人が出て来るからです。誰の誰への嫉妬かは‥‥まぁおいおいと(苦笑)。
本当は一昨年の秘書祭りの最後の話だったのですが。どーにも進まなくて、すっかり時期を逸してしまいました(二度目の秘書祭りにさえ間に合わなかった‥‥)。今更「秘書祭り完結!」でもないしなぁと(そもそも連載だから完結すらしてないし)思ったので、祭りページに区切りをつけて一般の方に持ってきました。
連載になんかするつもりはなかったんですが(私の筆の遅さだと、連載は反則だと思ったり)、まだ最後の話書き終わってないので、やむなくこんな形になりました。近日中に‥‥頑張ります(汗)。
実は最近、あまり秘書サイト回ってないんですが、ネタ的にまさかどこかのサイト様ブッキングはしてないよな?!と思いつつ。私と同じ偏った感性してる人間がそうそういるとは思えないし。もし似通った話を見掛けた方はお知らせください(←弱気)。
クラウスは設定も性格も含め、オフィシャルとは別人になってしまいました。いや、ドラマCDのイメージが強いとゆーか(元々ドラマCDでのクラウスに惚れてこの話を書こうと思ったくらいですから)。でもなんか、書いてるうちにただのナンパなおにーちゃんになっていってしまった(涙)。