Eifersucht
《4》


「壱哉様。例の件ですが、先方の代理人と連絡が取れました」
 書類の山に囲まれていた壱哉に吉岡がそう告げて来たのは、翌々日の朝の事だった。
「よし。‥‥で、向こうは何と言ってきている?」
 しかし、吉岡の返答は、一呼吸遅れた。
「?」
 不審に思って見上げると、吉岡は、躊躇いがちに口を開く。
「‥‥スケジュールが混んでいるので、今日の十一時なら時間が取れると言う事です」
「今日の十一時?」
 壱哉が、眉を寄せる。
 いきなり今日、しかも午前中とは唐突な話だ。
 しかも‥‥‥。
「クラウスとの待ち合わせは十一時半だったな」
「はい‥‥‥」
 昨夜、クラウスから電話がきて、予定を少し早めて昼に日本を発つと言ってきた。
 せめて見送りに来てほしいと懇願され、壱哉は不承不承、承知したのだ。
 空港までの時間を考えれば、どう考えても間に合わない。
「仕方がない。クラウスには俺が、断りを入れる」
「よろしいのですか?」
 いくらお忍びとは言え、彼の機嫌を損ねるのはあまり得策ではないだろう。
「壱哉様の代わりに、私が行っても‥‥」
「いや。あんな事があったのに、お前をクラウスと二人だけにできるか」
 腹立たしげに、壱哉が言う。
「それに、もし実務的な話になった時には、お前がいた方がいい」
「はあ‥‥‥」
「クラウスだって、もう子どもじゃないんだ。何が優先されるべきか、わからんとは言わせない」
「わかりました。では、十一時に設定します」
 一礼して、吉岡は出て行った。
 壱哉は、ひとつため息をついて電話に手を伸ばす。
 クラウスはホテルの部屋にいて、フロントに話をするとすぐに電話が繋がった。
《あぁ、おはようイチヤ。今日で君のいる日本ともお別れかと思うと、胸が張り裂けそうだよ》
 臆面もない言葉に内心でため息をついた壱哉は、口を開いた。
「空港に見送りに行く約束だが、予定が入った。すまんが、行けそうにない」
《‥‥‥‥》
 しばしの沈黙からは、クラウスが何を考えているのかは読み取れなかった。
《‥‥でも、僕の方が先約のはずだろう。イチヤは、そんな薄情な人間だったのか?》
 表面、茶化すような言葉だったが、その口調には僅かに怒りが感じられるような気がした。
「だから、悪いとは思っている。だが元々、仕事に支障がない範囲で付き合う約束だったろう。お前がどう考えているか知らんが、仕事の約束がプライベートより優先されるのは当然だ」
《じゃあ、プライベートじゃなければいいのかい?こんな僕でも向こうでは多少顔が利くからね。見送りに来てくれたなら、向こうの大手コンツェルンとの商談を仲立ちしてあげてもいい》
「いい加減にしろ、クラウス!」
 なおも言い募るクラウスに、壱哉は思わず強い口調になっていた。
「お前が、仕事でこちらに来たと言うなら、それなりの手続きを踏んで話をする。だがそうでないなら、一方的に借りを作るのはごめんだ」
 厳しい口調に、クラウスは小さくため息をついたようだった。
《貸しなんかじゃないよ。僕は本当に、君の役に立ちたいんだ。君のためだからこそ、ね》
「まだそんな‥‥!」
《今日、十一時半。空港で待っているからね、イチヤ》
 一方的に言って、クラウスは電話を切ってしまった。
「‥‥‥‥」
 壱哉は、思わず切れた電話を睨み付けてしまった。
 クラウスは、あんなに諦めの悪い人間だったろうか?それとも、そこまで壱哉に執着する何かがあると言うのか?
 受話器を戻し、壱哉は深いため息をついた。
 あんな風に誘惑されるのは困るが、クラウスの存在がなければ今の壱哉はなかったから、未だに彼は大切な友人だと思っている。
 だが、ずっと機会を窺っていた商談と友人の見送り、どちらが大切かと言えば、考えるまでもなく答えは出る。
 見送りに行かなかったからと言って機嫌を損ねたりはしないと思うが、昔、壱哉が知っていたクラウスとは違うように見えるから、なんとも言えない。
 もし、たかがその程度で腹を立て、妨害工作など仕掛けて来るような人間だったら、彼との付き合いもここまでだろう。
 壱哉はもう一度ため息をつくと、まだ山積みになっている仕事に手を伸ばした。


 午前十一時の十分前、壱哉は、都心でも最高級に属するホテルに来ていた。
 さすがに、EUの関係者だけあるかも知れない。
 非公式な訪問で、日本の市場を現場の視点で見て回る予定だそうで、政財界の要人との会談は殆ど予定されていない。
 吉岡でも、直接会談の約束を取り付けるのに大変な苦労をしたらしい。
 壱哉は、グループをこれから維持して行くには、国内だけ見ていては駄目だと痛感していた。
 今回の会談だけで商談に結び付くとは思っていないが、海外とのパイプが皆無な現状を考えれば、小さなチャンスでも逃せない。
 約束の時間にはまだ少し早かったが、先方が会ってもいいと言って来たため、壱哉達は最上階のロイヤルスイートに向かう。
 分厚いドアを開けて彼等を迎え入れたのは、秘書と言うにはかなり年若い青年だった。
「黒崎様ですね?お待ちしておりました」
 ハーフか何かなのか、西欧風の顔立ちをした黒髪の青年は、全く違和感のない日本語で壱哉達を案内する。
 一泊数十万のロイヤルスイートだけあって、豪奢な内装だったが、特にそれらは壱哉の目を惹く程のものではなかった。
「こちらへどうぞ。お連れの方もご一緒に、とのことです」
 青年は、応接室の前で一礼した。
 どうやら、彼の案内はここまでらしい。
 商談用なのか、部屋の中の一室にしては頑丈な扉を開け、壱哉は応接室に入った。
「‥‥‥!」
 上質の革張りのソファから立ち上がった相手を見て、壱哉は呆然とした。
 見覚えのある、その男性は。
「‥‥‥クラウス‥‥‥なのか?」
 こんなに近くにいる相手を見間違えるはずはないと思いつつ、壱哉は自分の目が信じられない。
「Guten Tag、イチヤ。そしてヨシオカ。歓迎するよ」
 クラウスは、にこやかに笑って両手を広げる。
 今まで会っていた時とは違い、今のクラウスはきっちりとしたブランドスーツに身を包んでいる。
 そうしていると、整った顔立ちと存在感とが相俟って、威圧感すら感じさせる。
 壱哉はまだ状況が把握出来ない状態で、勧められるままにソファに腰を下ろした。
 その後ろに立った吉岡も、珍しくも呆然としているらしい表情だ。
 そんな壱哉達を楽しそうに眺め、向かい側に座ったクラウスは長い脚を組んだ。
「Herzlichen Glückwunsch!‥‥まずはおめでとう。君達は、最後のテストに合格したんだ」
「テスト?」
 壱哉が、眉を寄せる。
「あぁ。君が、ビジネスよりプライベートを優先させるような人間でなくて嬉しいよ」
 つまりそれは、今朝の電話でクラウスがあんなに絡んで来たのも、この会談がわざわざこんな時間に指定されて来たのも、全部仕組まれていたと言う事なのか。
 もし壱哉が、クラウスの言葉に乗せられて空港に行っていたとしたら、待ちぼうけを食わされ、この会談も成立しなかっただろう。
「要するに、最初から俺達を騙していたと言う事なのか?俺や、吉岡に妙なちょっかいを出して来たのも」
「まぁ、簡単に言えばそうなるねぇ」
 壱哉の厳しい視線にも、クラウスは全く動じた様子はない。
「これは、内密にしてほしいんだけれど。実は、僕は今、フリーのエージェントをしているんだ。そっちの業界ではそこそこ信頼されていてね。場合によっては交渉の全権を握る事もあるし、ヘッドハンティングする事だってある」
 クラウスの家柄、そして人脈。更に、学生時代に浮名を流していただけあって、彼が人の内面を見抜く目は鋭かった。
 似合いと言えば、これ程彼に似合いの仕事もないかも知れない。
「今回、僕はある企業グループの依頼で来たんだけどね」
 と、クラウスが告げた名は、EU内でもかなりの影響力を持っている中堅の企業グループだった。
 多方面に手を伸ばし、最近急速に成長しているものの、グループとしての歴史は浅くない。
 旧家などの顧客も多く、その為か、手を伸ばすにしても悪どい事はせず、評判は上々だ。
「僕の受けた依頼は、この日本でパートナーとなり得る企業、もしくはグループを選定する事。それで、君に白羽の矢を立てたと言う訳さ。君も知ってると思うけど、こっちはホテル経営やブランドショップなどで名前が知れているだろう。つまり、派手なサービス業のノウハウはあるんだが、それ以外となるとかなり弱い。その点、クロサキグループは金融、建設、医療、研究分野などの、どちらかと言えば裏方としての分野に強い。パートナーとしては理想的だからね」
 表面上、あまり目立たない分野が多いのは、ずっと西條グループの汚れ役ばかりやらされて来たせいなのだ。
 壱哉は、皮肉な話に内心で苦笑していた。
「‥‥話はわかった。だが、どうして『俺』なんだ?確かに今、ヨーロッパとのパイプは欲しいし、そっちの条件にも当てはまるのは確かだろう。だが、クロサキグループは国内でそう大きい方じゃない。そっちのメリットは薄いはずだ」
 壱哉の言葉に、クラウスは満足そうな笑みを浮かべた。
「ふふ‥‥いいね、その用心深さ。これだけの好条件にあっさり飛びつかない慎重さも、君を評価するプラスポイントだよ?」
「評価してくれるのはありがたいが、質問の答えは?」
 『友人』ではなく『商談相手』として話している壱哉は、真っ直ぐにクラウスを見据える。
「クライアントの意向だが、あまり名の通った大きなグループだと、意思決定の動きが鈍くて困るんだ。それに、伝統だの前例だの、日本の慣習を必要以上に持ち込まれたくない。その点、クロサキグループは大き過ぎない。トップがまだ若いから目が組織全体に行き届いているし、古臭い慣習にも縛られすぎないからね」
「‥‥‥‥‥」
 もし真実なら、渡りに船の好条件な話だ。
 クロサキグループは壱哉が実力だけで築き上げた人脈しかないから、そこに広い人脈が、更に海外とのパイプが出来るとなれば申し分ない話だった。
 しかし、クラウスが――彼を雇ったグループが、日本での足掛かりを作る為に、簡単に乗っ取れるような小さいグループを探させているとも考えられるのだ。
 壱哉は、クラウスの本音を探るように鋭い視線を注いだ。
 無論、にこやかな笑みを湛えたクラウスは、全く内心を読み取らせなかった。
「‥‥君の心配もわからないでもないよ。好条件で釣っておいて、いずれ乗っ取られて踏み台にされたらつまらないからね」
 見透かされている言葉に、壱哉は内心、憮然とする。
「彼等はそこまで悪どい事はしない。僕が保障する。これは、クロサキグループの今までの実績を評価した上での話なんだ。それに、もし連中が妙なちょっかいを出して来たとしても、君と、ヨシオカとが揃っていれば、あっさり乗っ取られるような事はないと思うけど?」
 クラウスの言葉に、壱哉の口元に初めて笑みが浮かんだ。
 確かに、クラウスの言う通りだった。
 リスクに怯えて手を伸ばさなければ、何一つ手には入らない。
「‥‥そうだな」
 壱哉の表情に余裕が戻る。
「で?国内でのパートナーになるのは悪くないが、実際、こっちは何をさせられるんだ。そっちの役員でも受け入れろと言うのか?」
 しかし、クラウスは首を振った。
「これは全面的に業務提携をするような『合併』じゃない。お互いの独自性は維持した上で、一部の事業についてだけ『提携』をして、互いのノウハウを交換するのが目的だ。こちらとしては、一切条件をつける気はない。完全に対等な立場での契約だ」
 これはさすがに意外で、壱哉は驚きに目を見張る。
「だが、それではそっちにとって不利な取り引きじゃないのか?大体、名門のそっちと違って、うちは俺一代で作り上げた成り上がりのグループに過ぎないんだ」
 こちらを卑下するつもりはないが、全て下調べは終えているだろうクラウスに見栄を張っても仕方がない。
 壱哉の言葉は満足の行くものだったのか、クラウスの口元に楽しそうな笑みが浮かぶ。
「僕はクライアントから、この件については全権を任されている。クロサキグループが、我々のパートナーとしてふさわしいかどうかは、僕が見定める。その僕が、対等な契約をして然るべきだと判断したんだ。どこからも、文句は出ないよ」
 今までの、誘惑めいたクラウスの言動は、全て『テスト』の為だったと言うのだろうか。
「‥‥‥参考までに訊くが。もし俺が、お前の誘いに乗っていたらどうしたんだ?」
 壱哉の言葉に、クラウスは目を細めた。
 切れ長の目が冷たい色を加え、端正な面立ちと相俟って、言い知れない凄味さえ感じられる。
「‥‥‥さあ?甘い言葉にすぐ騙されるような人間がトップにいるようなグループは、長続きはしないだろうね。そのうち、外資系の企業にでも乗っ取られて終わるんじゃないかな」
 クラウスは、口元にだけ笑みを刻み、壱哉から吉岡へと視線を移す。
「イチヤは勿論好きだけれど、僕はヨシオカみたいなタイプも好きだよ?君みたいに生真面目で一途なタイプを、仕事も何も忘れてしまうくらい溺れさせてみたいね」
 クラウスの口調には不穏な響きも感じられて、吉岡の背筋に冷たいものが走る。
 表面、気さくで明るい彼の中にある、深い『闇』が垣間見えたような気がした。
 そう‥‥壱哉の中にあったものと同じ、いや、もしかするともっと深い『闇』が。
「クラウス!」
 そんな雰囲気に気付いていない訳ではないだろうが、壱哉はきつい表情でクラウスを睨み付ける。
「あ‥っと、これは失言だった。君が彼をGefährteにしている限り、手を出す気はないよ?」
 クラウスは、おどけた仕草で、両手を肩まで上げて見せる。
 その表情は今までと同じ、本音を読み取らせない笑みに戻っていた。
 朗らかで陰など一切感じさせないその様子を見ると、吉岡は、今垣間見えたものは全て錯覚に過ぎなかったようにすら思えてくる。
「吉岡に手を出したりしたら、たとえお前でもただではすまさん。そんな事は当然だ」
 そうでなければ何なのか、クラウスは不思議そうに首を傾げた。
 壱哉は、怒りの表情を隠しもせず、クラウスを見据える。
「これだけは言っておく。吉岡を、呼び捨てにしていいのは俺だけだ。覚えておけよ」
 壱哉の言葉に、クラウスは一瞬、驚いたように目を見開いた。
 しかし次の瞬間、大きく吹き出す。
 壱哉がここに来てずっと不機嫌だったのはそう言う訳だったのか。
 独占欲と言うのか何と言うのか、子どもじみているようにも聞こえる言葉である事に、壱哉は気付いているのだろうか。
 壱哉の反応が余程おかしかったのか、クラウスは肩を震わせて笑っている。
「‥‥君を呼び捨てにするのは良くて、彼を呼び捨てにするのは駄目なのかい?」
「あぁ。吉岡は、俺だけのものだからな」
「い、壱哉様‥‥‥」
 臆面もない言葉に、吉岡は赤くなる。
 『商談』のはずなのに、何故こんな話になっているのだろう。
 ようやく、笑いの発作が治まったらしいクラウスは、憮然とした表情をしている壱哉に視線を向けた。
「失敬。君が、あまりにも可愛い事を言うのでね」
 敢えて逆撫でしているとしか思えない言葉に、壱哉は不機嫌な表情になる。
 しかし、その言葉とは裏腹に、クラウスは何故か、とても穏やかな顔をしていた。
「‥‥イチヤは、ようやく手に入れたんだな。僕とは違って‥‥‥」
「なに?」
 最後の方の呟きが聞こえなくて、壱哉は眉を寄せた。
 だが、クラウスがそんな表情を見せたのは一瞬の事で、すぐに、何事もなかったような表情で立ち上がり、右手を差し出した。
 全部クラウスのペースで進んでいる事に少々面白くないものを感じつつも、壱哉も立ち上がって握手を交わす。
「これで契約成立だ。うまく行って、とても嬉しいよ」
「‥‥あぁ」
 どう答えればいいのか思い付かなくて、壱哉は言葉少なに頷いた。
「具体的な内容は、後で直接連絡させる。その段階で内容が気に入らなかったら、遠慮なく蹴ってもらって構わないよ。もし、そうなったら‥‥‥」
 クラウスは、少し悪戯っぽい表情になると、握ったままの壱哉の手を強く引いた。
 不意を突かれてバランスを崩した壱哉の体を抱き止めたクラウスは、その唇に口付ける。
「こうして、イチヤを口説くチャンスがまた回ってくるからね」
「っ、クラウス!」
 怒りの表情で、壱哉はクラウスの手を振りほどく。
「ふふ、冗談だよ。あんまり君が見せ付けてくれるから、ついからかいたくなってしまう」
 あっさり手を引いたクラウスは、悪びれた様子もなく笑う。
「いい加減にしないと怒るぞ!」
 吉岡の前だからなのか、本気で怒っている壱哉に、クラウスは苦笑した。
「そうだね、愛しいイチヤに嫌われないうち、邪魔者は消えるとしよう」
 クラウスは、棚の豪奢な置時計に視線を走らせる。
「午後の便で帰る事にしているんだ。‥‥あぁ、見送れなんて言わないよ。君が忙しいのは知っているからね」
 だったら人をからかってばかりいないでさっさと帰れ、喉元まで出掛かった言葉を壱哉は何とか飲み込んだ。
 そんな壱哉の表情を楽しそうに眺め、クラウスは応接室の扉を開けた。
 外に控えていたらしい青年が一礼して、壱哉達を迎える。
「またそのうち、遊びに行くかもしれないから、その時はまた案内を頼みたいな」
「‥‥じゃあな」
 クラウスの言葉に敢えて答えず、壱哉は応接室を出る。
 吉岡も、軽く一礼して後ろに続く。
「おとといは、結構盛り上がったみたいだねぇ?」
 吉岡が目の前を通り過ぎる時、クラウスは楽しそうに声を掛けた。
 思わず足を止めてしまった吉岡に、クラウスは悪戯っぽい視線を向けた。
「もう、邪魔する気はないけど。痕には気をつけた方がいいよ?」
 クラウスが、吉岡の左の首筋に軽く手を触れる。
「‥‥っ!」
 吉岡は、思わず首筋を手で押さえてしまった。
 一昨日、壱哉が嫉妬から付けてしまったキスマーク、その一つは首筋だった。
 ワイシャツの襟でギリギリ隠れる位置だったはずなのだが、クラウスには気付かれてしまったのだろうか。
 どう反応すればいいのか固まっていると、そこに壱哉が飛んできた。
「クラウス!吉岡に触る事も許さないからな。手の届く距離には近付くな!」
 嫉妬丸出しで、庇うように吉岡の前に割り込む壱哉に、クラウスは呆気に取られた。
 吉岡は、困ったような顔で壱哉の後姿を見ている。
 自分が唇を奪われた時より余程怒っている壱哉に、クラウスはまた、楽しそうに笑い出す。
「君から、そんな言葉が聞けるとはね。本当に変わったな、イチヤ」
 クラウスは、害意がない事を示すように少し下がって見せた。
 そんなクラウスを睨み付けながら、壱哉は吉岡の腕を掴み、さっさと出て行ってしまう。
 秘書役の青年が、慌ててその後を追った。
 壱哉達の出て行った方を眺めたクラウスの瞳に、昏い色が浮かぶ。
「‥‥‥結局、君は欲しかったものを手に入れたんだね。自分ひとりだけ、光の射す方に行ってしまって。‥‥‥妬けるよ、本当に」
 暗い響きを帯びた呟きを聞く者は、その場にはいなかった。


 青年に送られて部屋を出た壱哉は、エレベーターの前で足を止めた。
 最上階にあるこのフロアまで、エレベーターが到着するまで少しかかる。
 と、くるりと振り返った壱哉は、そのまま、吉岡の背広の襟を掴んで引き寄せ、唇を奪う。
「‥‥っ、い、壱哉様!」
「口直しだ。おとなしくしろ」
「そんな‥‥っ!」
 反論は、甘いキスに飲み込まれる。
 しかし、限られた人間しか入って来ないとは言え、ここはホテルの廊下なのだ。
 大体、クラウス達が出て来たらどうするつもりなのか。
 見せてやればいいだろう、そんな壱哉の言葉も想像できてしまうのだが。
 その時、甲高い音がエレベーターの到着を告げ、扉が開く。
 とりあえず吉岡を解放した壱哉は、不満そうな顔のまま、エレベーターに乗り込んだ。
「続きは家でだ。さっさと帰るぞ」
「あの、仕事がまだ途中ですが‥‥‥」
「明日、今日の分まで片付ければいいだろう。とにかく、今日は付き合え」
 どうやら、クラウスに散々挑発されて、すっかりむきになってしまったらしい。
「‥‥‥‥‥」
 反論しようかとも思ったが、結局、この主人に勝てた試しはないのだ。
「これから、忙しくなるからな。その前に、少しくらい息抜きをしてもいいだろう?」
 少しだけ上目遣いで見詰めて来る壱哉の口調には、どこか甘えるような響きが混じっていた。
「‥‥‥はい」
 いつもより子どもっぽく見える表情に苦笑しながら、吉岡は頷いた。
 壱哉が言うように、これから、休んでいる暇もない程忙しくなるだろう。
 クラウスはああ言ったが、実際、国も文化も違う相手との商談は言葉で言う程簡単ではない。
 しかし、壱哉なら、きっとどんな困難でも乗り越えて行ける。
 そして、自分は‥‥‥。
「ずっと‥‥あなたについていきます。壱哉様‥‥‥」
 気付けば、吉岡はそう言っていた。
「どんな事が待ち受けていても、何があろうと、いつまでも。あなたのお傍に‥‥‥」
 吉岡の言葉に、壱哉は、少し驚いたように見詰めて来た。
 その表情が、とても柔らかな笑みへと変わる。
「当たり前だ。お前は、俺を看取ると言ったんだからな。俺の傍を離れる事は許さない」
「‥‥はい!」
 吉岡にしか見せる事のない、陰りのない笑顔は、とても眩しかった。
 誰よりも、何よりも大切なこの人と一緒に、どこまでも歩いて行こう。
 吉岡は、改めて、そう心に誓った。


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クラウスの仕事に関しては、読んでらっしゃる皆様全員お気付きだったとは思いますけど(苦笑)。伏線つー程の伏線じゃなかったですから。
いやー‥‥前回の話で吉岡とのHやっちゃったので、どーにもオチませんでした。引っ張った割に、結局最後は逃げてしまいましたけど。
ウチの幸せ秘書の集大成の話かなぁとか思いながら書いていました。これで秘書祭りのシメにしたかったなぁ(←書くの遅いからだろ?)。
‥‥‥そう言えば、秘書まつり主催のあね様にはウチの20000HIT踏んでいただいたんですよね。第一回目の祭り開催時にはこんなのにまでお声掛けていただきましたし。何かお礼でもとか思ったのですが、所詮私は、あね様に差し上げられるようなもの、書けないんですよね‥‥。この話書く前はせめてこれでも差し上げようかと思ってたんですが、45KBっつーのは人様に差し上げる量じゃないですし(てか、そもそもあね様は秘書×社長だし)。
とりあえず、ネットの片隅からひっそりとあね様に感謝しつつ(お礼はできないんですが)、こっそり秘書特集、終了です。