6月6日
太陽が傾きかけた頃、ようやくデスクに積み上がっていた書類の山がなくなった。 最後の一枚を吉岡に渡した壱哉は、思わずため息をついて、椅子の背に沈み込む。 「ご苦労様でした。お疲れでしょう」 書類を揃えながら、吉岡がねぎらいの言葉を掛けて来る。 「確かに、今日は働いた気がする‥‥‥」 壱哉の言葉に、苦笑めいた表情を浮かべた吉岡は、表情を改めた。 「?」 怪訝そうに見上げる壱哉に、吉岡は生真面目な表情で口を開いた。 「壱哉様、お誕生日おめでとうございます」 告げられた言葉が、一瞬理解出来なかった。 数秒置いて、今日が六月六日で、自分の誕生日であった事を思い出す。 「‥‥‥あぁ。そうだったな」 そんな事は完全に忘れ去っていた壱哉は、少々、間の抜けた答えを返してしまう。 元々、誕生日にはろくな思い出がなかった。だから、そんなものを祝う行為自体が馬鹿げたものに感じられた。 そして、その記憶から連鎖的に嫌な事まで思い出してしまうから、壱哉はいつも、強いて自分の誕生日を忘れるようにしていた。 そんな壱哉の気持ちを知った吉岡は、しかし毎年、密かに誕生日を祝ってくれていた。 それは、彼の手作りのフルコースであったり、美味いと有名な店の食事であったり。 事前に言うと壱哉が余計な事まで思い出してしまって不機嫌になるから、吉岡はいつも、その日が終わる直前に祝いの言葉を口にしていた。 その気遣いに、さすがに壱哉も、彼からの誕生祝いだけは素直に受け取っていたのだ。 「本日これより、今度の日曜日まで、一切のスケジュールは空けておきました。壱哉様、ゆっくりお休みになってください」 何か含む事でもあるのか、今日の吉岡は壱哉を驚かせるように唐突な言い方ばかりする。 さっきと同じように、一瞬言われた意味が判らなかった壱哉は、しばし置いてからようやく、この状況を理解する。 「なるほど‥‥忙しかった訳だな」 数日先の仕事まで全部片付けたのだから、量が多い道理だった。 これは、休みの少ない壱哉に吉岡が用意してくれた最上のプレゼントなのだろう。 ずっと樋口にも会えなかったから、気を遣ってくれたのかも知れない。 いつもながら、彼の気遣いは心からありがたいと思う。 彼がいなければ、今の自分はなかった。このごろは、今までにもましてそう思う。 「本当に、お前には色々な気を遣わせているな。‥‥俺も、昔ほどは『誕生日』と言うやつが嫌ではなくなった気がする」 壱哉の言葉に、何故か吉岡は複雑な表情を浮かべた。 「‥‥‥それは、樋口崇文のせいですか」 思いもよらなかった言葉を返され、壱哉はきょとんとした。 「‥‥あぁ、なるほど。確かにそうかもしれんな」 今気付いたように、壱哉は頷いた。 しかし壱哉はすぐに、吉岡を見上げて微笑した。 「だが、お前にも感謝しているぞ。お前だけが、毎年俺の誕生日を祝ってくれた。誕生日などくだらんと思っていたが、お前が祝ってくれる時だけは素直に受け取る事ができた。本当に‥‥感謝している」 「壱哉様‥‥‥」 吉岡は、僅かに頬を赤らめて視線を逸らした。 その横顔が、どこか寂しそうにも見えて戸惑う。 しかし、吉岡がそんな表情を見せたのはほんの一瞬の事だった。 「ありがとうございます。‥‥壱哉様、すぐお出かけになりますか?」 「あぁ、すまんがそうさせてもらう」 いつもの忠実な秘書の顔に戻った吉岡の言葉に、壱哉はもう立ち上がっていた。 壱哉は、あの街に向けてBMWを走らせていた。 今日が六月六日である事は認識していたが、自分の誕生日である事は全く忘れていた。 いや、意図的に意識の中から追い出していた、と言う方が正しい。 吉岡と暮らすようになってからはともかく、それ以前は誕生日にろくな思い出がなかったからだ。 物心ついた頃は、母が祝ってくれる『誕生日』を素直に喜んでいた。 しかし長じるに連れ、母が息子よりも愛する人の誕生日の方を大切に思っているらしい事を漠然と感じ始めていた。そればかりか、息子の誕生日を祝いながら、愛する人のそれを重ね合わせている事も。 そして、あれは中学の時。偶然にも西條が来る日が重なっていたあの日、母は壱哉の誕生日の事など全く忘れ去ってしまっていた。 遅くなってから帰ろうと思って本屋などで時間を潰しながら、やりきれない淋しさと孤独のようなものを感じていたあの時の気持ちは、今でも覚えている。 勿論、西條が壱哉の誕生日を知っていてぶつけて来たと言う事はないだろう。そもそも、あの男が他人の誕生日などを覚えているはずがないのだから。 だからあれは完全に偶然だったのだろうが、あの日の事は壱哉の心に深い傷として残ってしまった。 あれ以来、壱哉は『誕生日』と言うものに対して悪い印象しか持たなくなった。 実業家として財界での名を上げるに連れ、接待まがいの贈り物を受け取る事もあり、それで一層、誕生日を祝う行為自体を胡散臭いと思うようになってしまったのだ。 そんな自分の気持ちを承知しながら、控え目に祝いの気持ちを表してくれていた吉岡の気遣いは、本当にありがたかったと思う。 今回だって、数日とは言え、纏まった休みを作る為に吉岡は相当苦労してスケジュールを組んでくれたのだろう。 「俺は‥‥本当は、ずっと恵まれていたのかもしれんな」 壱哉は、自嘲混じりに呟いた。 ただ、今まではそこから目を背けていた。 それにも関わらず尽くしてくれていたのが吉岡であり、それに気付かせてくれたのが樋口なのだと思う。 そんな事を考えているうち、あの街に近付いて来た。 久しぶりに樋口に会える楽しみを胸に、壱哉はBMWのスピードを上げた。 ――――――――― 街に着いたのは、幸い、まだ夕方になる前だった。 驚かせてやろうと、真っ先に樋口花壇を訪ねると、店には『本日臨時休業』の札が掛かっていた。 店舗と隣接している家も訪ねたのだが、中に人のいる気配はない。 「何をやっているんだ、あの馬鹿は‥‥‥」 せっかく休みが取れたのに、と腹立たしくなってしまう。 八つ当たり気味の怒りを感じた時、ふと、昼過ぎの電話を思い出す。 確か樋口は、マンションに入らせて欲しいと言っていた。 何をするつもりなのか知らないが、すれ違いになってしまった事も考えられる。 「まったく、手間がかかる‥‥‥」 ひとつ、ため息をついて壱哉は車に戻った。 逸る気持ちでマンションに向かい、車庫にBMWを入れると、案の定、樋口のワゴン車が停まっている。 エレベーターで部屋に向かう途中、壱哉は何故か緊張している自分に気付いた。 一体どうして、自分の部屋に入るのに緊張しなければならないのだろう? そう言えば樋口は、今日が壱哉の誕生日である事を知っていたのだろうか。 話した覚えはないのだが、学生の頃に教えたかどうかは覚えていない。 十年も前の話だが、妙な事ばかり良く覚えている樋口の事だ、もし教えていたとすると覚えている事は充分考えられる。 電話をかけて来た時、何か言いたげだったのはそのせいだったのだろうか。 それならそれで素直に言えばいいのに、何を遠慮しているのだろう。 回り道をさせられた壱哉は、ついそんな事を思ってしまう。 「‥‥やつ当たり、だな」 壱哉は、ため息をついて前髪をかきあげた。 家を訪ねたのにすぐ会えなかった事で、思いの外落胆してしまっている自分を自覚する。 それ程までに樋口の存在が自分の中で大きくなっているのだと、今更ながらそう思う。 オートロックを開けて部屋に入ると、ほのかな香りが鼻腔をくすぐった。 「これは‥‥‥」 まるで、薔薇園にいるかのように錯覚する甘い香りが、壱哉を包み込んだ。 一瞬、太陽のように明るい笑顔を浮かべ、両手を広げて迎えてくれる樋口の姿が脳裏に浮かぶ。 これはきっと、樋口なりのプレゼントなのだ。 壱哉は、そう確信する事が出来た。 「‥‥らしくもない、回りくどい真似を‥‥」 苦笑した壱哉の口調は、とても柔らかい響きを帯びていた。 優しい薔薇の香りに包まれながらリビングに入った壱哉は、足を止めた。 リビングの大きな花瓶には、溢れんばかりに薔薇が活けてあった。 そして、薔薇達の間にあるソファで、暢気にも眠りこけている大きな物体がひとつ。 「何をやってるんだ‥‥‥」 呆れたような壱哉の呟きにも、樋口は目を覚まさなかった。余程安心して眠っているのだろうか。 あの電話から推測すると、樋口は壱哉がいない間に薔薇を届け、多分そのまま帰るつもりだったのだろう。 それがここで眠りこけていてどうするのだ。 「おい、崇文」 呼ぶが、樋口は目を覚まさない。 「こら、起きろ」 屈み込んで耳元で言ってやると、ようやく樋口の目が開かれた。 「あ‥いちや‥‥」 ぼんやりした瞳と口調は、まだ寝ぼけているようだった。 「誕生日、おめでと。お前が生まれた日って、なんかうれしいよ」 微妙に呂律が回っていない口調は、やはり寝ぼけているのか。 樋口はゆっくりと手を伸ばすと、そのまま壱哉の背中に回して引き寄せる。 いつになく積極的な樋口に驚きつつ、せっかくの機会なのだから壱哉は遠慮なく唇を合わせる。 「‥‥っ、んっ‥!」 深く舌を入れられて、ようやくまともに目が覚めたらしい樋口が慌てたようにじたばたし始める。 「‥‥っは、ゆ、夢じゃない?!」 開放され、大きく目を見開いた樋口はまじまじと壱哉を見詰めた。 「本当に、本物の壱哉?なんでこんなところに‥‥?」 「人の家を『こんなところ』とは随分な言い草だな」 本物だった事にこうまで驚かれると、何故か判らないが面白くないものを感じる。 「ご、ごめん‥‥‥」 樋口は、途端にしゅんとなってしまった。 「でも、なんで?今日は平日なのに‥‥‥」 「吉岡が気を利かせてくれてな。日曜まではこっちにいられる」 「ほんとか?!」 驚きに目を見開いた樋口は、すぐに照れたような、しかしとても嬉しそうな表情になって俯く。 「嬉しい‥‥よ。吉岡さんには悪いけど」 何故そこに吉岡が出て来るのかと首を捻る壱哉の鈍さは相変わらずだった。 「それで、壱哉‥‥‥」 落ち着いて自分の状況が判って来たのか、樋口は少し赤くなりながら壱哉を見上げた。 「いい加減、離れてくれないかな?」 今は樋口は腕を下ろしているから、壱哉が一方的に押し倒しているように見える。 「お前の方から迫って来たくせに何を言ってる」 「せま‥‥って、そんな、俺は‥‥っ」 うろたえる樋口がおかしくて、壱哉はわざと白い首筋に唇を寄せる。 「ちょっ、こんな所じゃ‥‥」 結構本気で逃げようとする樋口が壱哉は少し面白くない。 「いつもしてる事だろう。何が嫌なんだ?」 「だって、なんか薔薇に見られてるみたいで‥‥‥ほら、この薔薇って俺の子どもみたいなものだろ?」 本気でそう言っているらしい樋口に、壱哉は呆れた。 「何を今更‥‥お前の薔薇園のど真ん中で、キスくらいはしてるじゃないか」 「そ、それは‥‥でも、このまんまだとキスじゃ終わりそうにないし‥‥‥」 赤くなって目を伏せてしまった樋口を見ていると、どうしてもいじめたくなってしまう。 「キス以上の事、って、どんな事だと思ってるんだ?」 耳元で囁かれ、樋口はぞくり、と背筋を震わせた。 「なんか、お前楽しんでないか?」 恨みがましそうな目で見上げられた壱哉は、喉の奥で笑った。 「帰ってみたら、こんなプレゼントが薔薇と一緒に転がってたんだ。楽しまなければ贈り主に悪いだろう?」 「‥‥‥‥‥」 臆面もない壱哉の言葉に耳まで真っ赤になった樋口だが、ひとつ、息をつくと顔を上げた。 「‥‥わかったよ」 樋口は、もう一度壱哉の背中に腕を回した。 「誕生日おめでとう、壱哉‥‥」 優しく言って、樋口はそっと唇を合わせて来た。 翌朝。 目を覚ました壱哉は、何となく温もりが恋しくて、隣に眠る樋口に手を伸ばした。 まだ眠っているらしく反応がないのをいい事に、軽く抱き寄せるように腕を回す。 こんな風に他人の温もりが心地良いと感じるようになったのは、樋口と想いが通じ合ってからの事だった。 「ん‥‥あぁ、壱哉‥‥‥」 ようやく目を覚ましたらしい樋口が、穏やかな色の瞳を向けて来る。 「あの、さ‥‥誕生祝いとか、そう言うのをあんまり良く思ってないのかな、とか思って‥‥なんか、言い出せなかったんだ」 樋口の言葉に、壱哉は苦笑した。 「確かに、な。誕生日を祝うなど馬鹿らしいと思っていたが‥‥」 壱哉は、一旦言葉を切って樋口を見詰めた。 「お前や吉岡が祝ってくれる今は、そう悪くないと思うようになった」 「‥‥‥そっか。よかった」 樋口は、照れたように笑った。 「それで壱哉、今日はどうするんだ?誕生日の次の日になっちゃったけど。どっかでお祝いするか?」 「俺は、こうしているだけで充分だ」 壱哉は、樋口を更に近くへ抱き寄せる。 「それってなんかただれてる気が‥‥‥」 「うるさい」 口付けて黙らせておいて、壱哉はしっかりと樋口を抱き締めた。 「‥‥‥‥‥」 少しだけ困ったように笑った樋口が、そっと腕を回して来た。 壱哉は、薔薇の香りの染み付いた、柔らかい樋口の髪に顔を埋めた。 腕の中の温もりは、どんなものよりも素晴らしいプレゼントだと思う。 サイドテーブルの上では、二輪の薔薇が寄り添うように優しい香りを漂わせていた――。 |
END |
社長お誕生日祝い話第一弾。何でこんなに長くなったんだろう‥‥‥謎だ(汗)。あまりにもタイトルが思い浮かばなかったので、ヤケになってそのまんま使いました。
壱哉のマンションにこっそり薔薇を届けに来てそのまま寝こけてしまう樋口、から話は始まったはずなのに。書いても書いても終わらなくて、なんか二本分仕上げたような心持ちです(量的にもそんな感じ)。あまりにも長くなってしまった事と、受け攻めをあまりはっきりさせたくなかったのでぼかしてあります。お好きな方の妄想で補完してください(笑)。もっとも、やっぱり受け仕様に見えるのは書いた人間がそっちが好きだからです。
自分で書いといてなんですが、ほんとに秘書は可哀想だと思います。全く社長ってば鈍すぎ。
ラストは、自分でも甘いと思いました(苦笑)。
ラブEDだとやっぱ甘くなってしまうなぁ。いや、嫌いじゃないんですが。