6月6日

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 その日。
 壱哉は、いつもと同じように仕事に追われていた。
 そんなに性急に事業を拡大している訳ではないのだが、クロサキグループは壱哉で保っているようなものだから、細かい仕事はかなりの量に登るのだ。
 いつもよりも更にうずたかく積み上がった書類の山にうんざりしつつも、壱哉は次々と片付けて行く。
 何より、普段仕事を余計に片付けて置かなければ、また貴重な休みが取れなくなってしまうのだ。
 先週も忙しくて、結局あの街に行く時間は取れなかった。夜になって、少しの時間樋口と話した程度だった。
 今週こそゆっくり休む、そのつもりで壱哉は仕事に取り組んでいた。
 昼を過ぎた頃。
「壱哉様、樋口崇文からです」
 吉岡が樋口からの電話を取り次いで来た。
 樋口には携帯の番号も教えてあるのだが、夜とか、壱哉が完全にプライベートの時間の時しかそちらにはかけて来ない。特に昼間などは、壱哉のスケジュール管理を一手に引き受けている吉岡に遠慮しているらしく、必ず彼を通して来るのだ。
「俺だ。どうした?」
 普段通りに返したつもりだったのだが、どうやら仕事疲れが口調に出てしまっていたらしい。
『‥‥今日も、仕事、忙しいのか?』
 少しの躊躇いの後返って来た言葉に不審を覚えるが、その理由には心当たりがない。
「あぁ。今頑張れば今週はそっちに行けるからな」
『そっか。でもあんまり、無理するなよ』
「わかっている」
 樋口の口調がどことなく沈んでいるような気がしたのは、気のせいなのだろうか。
『あのさ。お前のマンション、ちょっと入らせてもらいたいんだけど』
「別に構わんが‥‥キーを持ってるんだから勝手に入ればいいだろう」
『そう言う訳にも行かないよ。‥‥‥それじゃ、ちょっと入らせてもらうから。本当に、仕事、無理するなよ』
 言いたい事だけ言って、電話は切れた。
「壱哉様‥‥?」
 吉岡が、控え目に声を掛けて来る。
 壱哉が樋口に会う時間を作るのに、スケジュールの調整に頭を痛めなければならないのは彼だからだろう。
「いや。マンションに入らせてほしい、とか言っていただけだ」
 一体何をしたいんだか、と肩を竦める壱哉に、吉岡は複雑そうな表情を浮かべた。
「?なんだ、お前まで」
 樋口ばかりか吉岡まで様子がおかしい事に、壱哉は眉を寄せた。
「‥‥‥いえ。なんでもありません」
 小さくため息をつき、吉岡は書類の束を手に取った。


 電話を切った樋口は、小さくため息をついた。
 今日、六月六日は壱哉の誕生日だった。
 しかし、週の中日だから壱哉がこちらに来る事はまずないだろう。
 多分仕事が忙しいだろうから、樋口の方から訪ねるなどと言う事は論外だ。
 案の定、電話越しでも壱哉は忙しそうなのが判った。
 だから何となく、誕生日の事を言い出せずに終わってしまった。
「‥‥‥まぁ、そんな気はしたけどさ」
 もう一度、ため息をついて樋口は大きな花束を車に運んだ。
 壱哉の誕生日を聞いたのは、それこそ中学時代だった。我ながら、良く覚えていたと思う。
 何かの話をしていた時に、偶然誕生日の話になったのだ。
 しかしあの時、壱哉はあまり嬉しそうではなかった。
 誕生日当日も、おめでとう、と声を掛けた樋口に、壱哉はどこか戸惑ったような、そして少しだけ淋しそうな顔をした。
 どうしてそんな顔をするのか判らなくて、樋口は家に誘ってみた。プレゼントと言う程のものではないけれど、花をあげたいから、と。
 しかし壱哉は、行く所があるからと言って断った。
 家に早く帰らなければならないのかと思って、その時は無理強いしなかったのだが。
 その日の夕方、父親の買い物で商店街に出た時、樋口は壱哉を見掛けた。
 本屋で、何か難しいビジネスマン向けの書棚の前で立ち読みしているのは確かに壱哉だった。
 その横顔が何故か淋しそうに見えたけれど、声を掛けるとかえって壱哉にばつの悪い思いをさせてしまいそうだったので、そのまま帰ってしまった。
 誕生日だと言うのに、壱哉はどうして家に早く帰らないのだろう‥‥そんな事を考えて、あの日の夜は眠れなかった。それ以来、誕生日の事には触れないようにしていた気がする。
 そんな事まで覚えていたから、樋口は電話で、『おめでとう』の一言を言う事が出来なかったのかも知れない。
 壱哉が仕事に追われているのに、自分一人が浮かれているのも気が引けた。
 だから樋口は、自分に出来る、ささやかなプレゼントをしようと思ったのだ。
 抱えるような大きな花束を三つ、樋口は車に積み込んだ。
 そのまま、壱哉のマンションに運ぶ。
 マンションの暗証番号は教えられていたから、カードキーを使って中に入る。
 定期的にハウスキーパーが入っているので、今はあまり生活感のない部屋は綺麗に保たれていた。
 樋口が時折花を持ち込むようになってから置かれるようになった、大きな花瓶。
 既に何度も使っているそれに、樋口は花束を生け始めた。
 あの新種を始め、淡い色を中心にした薔薇の花束。
 丸っこいカップ咲き、優雅でボリュームのある大輪、一本の茎に小さな花が幾つも咲くスプレー咲き‥‥色は勿論、香りの良い品種を選んで来た。
 本当は、今日壱哉に渡したかったけれど。
 宅配などで贈る事も考えたのだが、やはり渡す時は自分の手で渡したい。
 それに、もし壱哉が自分の誕生日に悪い思い出しかなかったとしたら――それは、とても悲しい事だけれど――かえって、嫌な事を思い出させてしまいそうで怖かった。
 壱哉の事を知れば知る程、以前の自分がいかに無神経に残酷な言葉を口にしていたかを思い知り、それは樋口の胸の中に小さな刺になって突き刺さっていた。
 その為に、自分の気持ちを押し付けてしまうのが躊躇われる時があったのだ。
 だから、せめて自分の気持ちとして、薔薇達をこの部屋に置こうと思った。
 週末、壱哉がこのマンションに戻って来た時、部屋全部に広がった薔薇達の香りが迎えてくれる事だろう。
 誕生日の祝いだとは気付かないかも知れないけれど、それでも、樋口にとっては大切な日なのだと言う気持ちを、薔薇の香りに託すつもりだった。
 リビングに殆どの花を飾り、樋口は多少気が引けるものを感じつつも壱哉の寝室に入った。
 サイドテーブルには、あの時と同じように一輪挿しが置かれている。
 壱哉が、あの枝を大事に取って置いてくれたからこそ、今の樋口がある。
 あの時の事は、今でもはっきりと思い出せる。
 もう記憶の中にしか残っていなかったあの薔薇が、目の前にあった時の驚きと喜び。
 きっと、壱哉の中にあった優しい気持ちが、あの薔薇を咲かせてくれたのだと思う。
 樋口は、一輪挿しにあの薔薇を挿した。
 一輪では少し淋しそうだったので、やや小ぶりの枝をもう一輪、そっと添える。
 薔薇を全部生けてしまうと、樋口はリビングに戻った。
 何となく、このまま帰ってしまう気になれず、リビングのソファに腰を下ろす。
 こんな事をして時間を潰していても壱哉が来る訳はないと判っている。けれど心のどこかに、予定が変わって壱哉が唐突に来てくれるのではないか、そんな有り得ない事を考えてしまう自分もいる。
「ちょっと、弱気になってるかも‥‥」
 小さくため息をつく。
 正直、寂しいのが本音だった。
 壱哉の仕事が忙しくて、この前の土日は電話で話しただけだった。
 その前の土日は、結局壱哉が来てくれたのは日曜の午後で、ほんの数時間、会って話が出来ただけだった。
 それしか会えない事が寂しくて、しかしそれ以上に壱哉が忙しすぎる事が心配で。
 いくら一時間もかからないとは言え、忙しい壱哉にこの街まで足を運ぶ時間を余計に取らせている事に多少なりとも罪悪感を覚える。
 樋口も壱哉の近くに住んでいれば、もっと会う事が出来るのだろう。壱哉に余計な時間を取らせる事もなくなるだろう。
 けれど、樋口にはこの街を離れる事は出来なかった。
 ここには、父から受け継ぎ、壱哉のおかげで守れた薔薇園がある。それに、樋口は薔薇を作る以外の事は何も出来ない。
 全てを捨てて一緒に暮らす事が出来ない訳ではないけれど、そうしたら自分は、真正面から壱哉を見られなくなってしまうと思う。
 少なくとも、自分では何もせずに壱哉に依存するだけの人間にはなりたくなかった。
 勿論、自分が壱哉と対等だなどとは考えていない。
 壱哉は、幾つもの系列企業を持つ実業家であり、対して自分は、薔薇では多少名を知られているとは言え、それだけしか能がないのだから。
 けれど、せめて自分に出来る事を精一杯やっていなければ、壱哉の隣りにいる資格もない気がした。
 でも、それは逆に壱哉に余計な時間を取らせる事でもあって。
「‥‥俺、わがままかな‥‥壱哉‥‥‥」
 樋口は、答えてくれるはずのない人に、そっと問い掛けた。

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