1809〜1869、肥後藩士奉行、横井時直の次男。名は、時存。
8歳の時、藩校の時習館に入学。当時、小楠のような次男は文武両道に秀でなければ、
将来の活路が開けない時代だったが、時習館最高学府の青莪斉(せいがさい)に学び、
藩主・細川斉護公から表彰もされている。
藩命により江戸に遊学、水戸藩主・徳川斉昭の政治顧問・藤田東湖よりその実学的思想を
学んだ。
「酒失事件」後、閉居中に私塾・小楠堂を開く。徳富蘇峰の父・一敬もここに学んでいる。
この頃、吉田松陰も度々訪れ、長州藩への来遊を勧めている。
急進的な改革派であった小楠は、保守的な熊本藩での藩政改革に失敗したが、
50歳の時、福井藩主・松平春嶽公に招かれ、政治顧問として藩政改革を指導した。
更に、幕府の政事総裁職についた春嶽公の側近として政治にも関与。
新政権の基本方針として「国是七条」を作成する。この七条は、当時将軍後見職であった、
徳川慶喜公に建言された。
その後、肥後勤皇党の刺客に襲われ、危うく難を逃れるという出来事が、「士道忘却」事件
に発展する。肥後藩は、小楠を帰藩させ、士籍剥奪、知行召し上げ、沼山津蟄居の処分を
下した。しかし閉居中も小楠が「四時軒」(しじけん)と名付けたこの場所に、多くの人たちが
訪れた。井上毅や元田東野もここで学んだ。勝海舟の使者として坂本龍馬も何度かここを
訪れており、小楠と日本の将来について意見を戦わせた。
1867年、大政奉還後、岩倉具視等の要望で、士籍を回復し現在の国務大臣に就任した。
新政府となり、暗殺の風も無くなったかにみえた、明治2年(1869)正月5日、太政官に出仕
しての帰途、京都寺町で刺客の一団に襲われ非業の最期を遂げた。享年61歳。
【酒失事件】
藤田東湖邸の忘年会で酒の上の失態がひきおこした事件。
【士道忘却事件】
刺客の一団から逃れる際、丸腰であったことが、敵前逃亡ととられ、武士として決して許され
ない行動とされた事件。
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