郷土熊本出身の作者 二
 
     ※下記の漢詩は熊本漢詩紀行 二を御覧下さい。
水  前  寺
玉 城 白 水
三  賢  堂
安 達 漢 城
吉  次  嶺
佐 々 克 堂
 

 【題意】

 題を失われているものを、「逸題」という。元治元年(1864)頃の作。

 【詩意】

 都の空に立ち込める薄暗く怪しい妖気は、何時になったら消え去るのだろう

 我等の冤罪を晴らすことは、到底望めそうにも無い

 国の為にこの様に生き、この様にして死ぬ

 自分の心中を知っているのは、志を同じくする者だけだ

 【鑑賞】

 文久3年8月の政変(七卿都落ち)以後、無実の罪を蒙っているので、何とか汚名挽回を

 図りたいと、朝廷に訴える為に上洛する前後の作と思われる。

 忠誠が認められないのに苦しむ烈士の心情が伝わって来る。

 【参考】

 七卿都落ち=公武合体派に敗れた尊皇攘夷派の公卿七名が、再起を図るため京都を

 脱出し、長州藩へ逃れた事件。

 七卿=三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにしすえとも)、

 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、四条隆謌(しじょうたかうた)、

 錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし)

 宮部城子(みやべじょうし)  

 1820〜1864、熊本、上益城郡生まれ。名は増実。代々医を業とした。

 幼少より学問を好み、大志を抱き兵法を修め、30歳の時細川藩に召された。

 後に江戸に出て吉田松陰と親交を結ぶ。ペルリ来航後、京都に出て勤皇の志士と交わり、

 朝廷の徴により、御親兵三千人の総監に任ぜられる。七卿の西下に際しては此れを守って

 三田尻に行き、その後真木和泉等と忠勇隊を組織する。肥後の傑物と云われた。

 元治元年、朝廷に哀訴しようと、密かに上京。6月5日、同志と京都池田屋に会している所を

 近藤勇の率いる新撰組に襲われて奮戦したが遂に屠腹。時に45歳。

 明治20年、正四位を追贈される。

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村居雑詩(横井小楠)
 

 【題意】

 慶応3年頃、熊本城外・沼山津に閑居中の心情を詠った。

 【詩意】

 既に栄達の途を投げ捨てて、悠々自適の日々に満足している

 こうして静かに暮らしているのに、どうして奢り高ぶっていられるだろうか

 故郷の美しい山河で清く秀でた霊気を心中に養ってきた

 今は営利や名声等にとらわれず、それらを超越した境地にありたいのだ

 【語釈】

 栄途=出世の道。   高蹈=俗を避け、身を清くして隠れ住むこと。

 【鑑賞】

 図らずも閉居を繰り返し、外から国政を見る立場になったことが、後の更なる飛躍を生んだ

 気がする。悠々自適の穏やかな生活とはいえ、心中の国を憂う気持ちに変わりはなかった

 ことであろう。蟄居中も第一線の知識人と交流、門下を育て、充電、理論武装の期間とした。

 そこには、はやる気持ちを押さえつつ、自らの意識を高めようとする葛藤が感じられるようだ。

 横井小楠(よこいしょうなん)  

 1809〜1869、肥後藩士奉行、横井時直の次男。名は、時存。

 8歳の時、藩校の時習館に入学。当時、小楠のような次男は文武両道に秀でなければ、

 将来の活路が開けない時代だったが、時習館最高学府の青莪斉(せいがさい)に学び、

 藩主・細川斉護公から表彰もされている。

 藩命により江戸に遊学、水戸藩主・徳川斉昭の政治顧問・藤田東湖よりその実学的思想を

 学んだ。

 「酒失事件」後、閉居中に私塾・小楠堂を開く。徳富蘇峰の父・一敬もここに学んでいる。

 この頃、吉田松陰も度々訪れ、長州藩への来遊を勧めている。

 急進的な改革派であった小楠は、保守的な熊本藩での藩政改革に失敗したが、

 50歳の時、福井藩主・松平春嶽公に招かれ、政治顧問として藩政改革を指導した。

 更に、幕府の政事総裁職についた春嶽公の側近として政治にも関与。

 新政権の基本方針として「国是七条」を作成する。この七条は、当時将軍後見職であった、

 徳川慶喜公に建言された。

 その後、肥後勤皇党の刺客に襲われ、危うく難を逃れるという出来事が、「士道忘却」事件

 に発展する。肥後藩は、小楠を帰藩させ、士籍剥奪、知行召し上げ、沼山津蟄居の処分を

 下した。しかし閉居中も小楠が「四時軒」(しじけん)と名付けたこの場所に、多くの人たちが

 訪れた。井上毅や元田東野もここで学んだ。勝海舟の使者として坂本龍馬も何度かここを

 訪れており、小楠と日本の将来について意見を戦わせた。

 

 1867年、大政奉還後、岩倉具視等の要望で、士籍を回復し現在の国務大臣に就任した。

 新政府となり、暗殺の風も無くなったかにみえた、明治2年(1869)正月5日、太政官に出仕

 しての帰途、京都寺町で刺客の一団に襲われ非業の最期を遂げた。享年61歳。

 【酒失事件】

 藤田東湖邸の忘年会で酒の上の失態がひきおこした事件。

 【士道忘却事件】

 刺客の一団から逃れる際、丸腰であったことが、敵前逃亡ととられ、武士として決して許され

 ない行動とされた事件。

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中庸(元田東野)
 

 【題意】

 左右に偏らず、中道を進むことを述べたもの。

 作詩の時代は不明であるが、明治中期の欧化主義が盛んであった頃の作といわれる。

 【詩意】

 勇気が有る様にみせて腕力を誇る者は、結局粗暴と無分別によって身を滅ぼしてしまう

 また、文明ばかりを追い求める才子は、文明に酔うあまり、我が国の美点・長所を見失う

 君に勧めたいのは、常に不偏中正の道を選び、此れに則した考えで行動をとることである

 天下の総ての事は、唯一つ、誠の道を貫く事によってのみ、成就するものである

 【語釈】

 中庸=中国の戦国時代の思想書。全一巻。子思の著と伝えられる。礼記の中の一編で

 あったが、朱熹が「中庸章句」を作ったことから、四書の一として儒教の根本書となった。

 天人合一の真理を説き、中庸の誠の域に達する修養法を述べる。

 徳の中心になる概念で、過大さと過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を

 発見して、此れを選ぶ事にあるとした。

 万機=万事、働きの起るところの意。

 【鑑賞】

 作者は復古と維新の何れにも偏せず、中庸の道を以って明治の新時代を開いた思想上の

 恩人である。

 明治の新時代は「文明開化」と称して、いたずらに西洋文明に憧れ伝統的なものを否定

 する風潮になっていた。また一方では伝統を守るべく、此れに反発して自力に頼り、暴走

 する人々が生じ、一身を滅ぼすのみか、社会・国家に多くの害を及ぼしていた。

 この詩はこれらの人々に対し、中庸の道を守り、誠の一字を以って万事を貫くべき事を教え

 ている。

 元田東野(もとだとうや)  
 1818〜1891年。文政元年10月1日、熊本山崎町に生まれる。
元田永孚先生誕生地碑
元田永孚先生誕生地碑
(くまもと阪神百貨店の一角)
 名は永孚(ながざね、えいふ)。字は子中。通称、三左衛門。
 東野は号。幼くして学を好み、藩校時習館に学んだ。
 20歳の時、時習館居寮生となり、横井小楠等とも親交があった。
 その後、藩公と共に長州征伐に従い戦功を立てた。
 明治2年、大江村に隠棲、五楽園という塾を開き、翌年には
 藩知事細川護久の侍講となった。その後上京、宮内庁入りし、一等侍講、皇后宮御用掛、
 宮中顧問官等を経て、同21年5月枢密顧問官に就任、帝国憲法、皇室典範の成案に参画。
 更に勅命により井上毅(梧陰)らと共に教育勅語の草案を成した。
 華族に列せられ従二位、男爵を賜る。明治24年1月22日、74歳で没。
 明治天皇の御信任は殊の外厚かった。大久保利通は「聖徳の日の隆々たるは、実に感仰に
 堪えず。是主として元田侍講多年の功なり」と言い、副島種臣は「明治第一の功臣」と讃えた。
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暁に高千穂の峰を望む(落合東郭)
 

 【題意】

 古来、天孫降臨の地として有名な、宮崎・高千穂の峰を望み賦されたもの。

 【詩意】

 朝一番早く鳴くという鶏が、美しく色づいた雲の中に朝を告げる

 早暁の清々しい気が、大空に満ちている

 その時、五色の雲間から、一筋の陽光が辺りを照らし出す

 神の山の頂に、真っ白な雪が玉の様に美しく、神々しい思いは益々強くなる

 【語釈】

 天鶏=神山に住み、どの鳥よりも一番早く朝を告げるという鶏。

 氤U=天地の気の盛んな様。気のやわらぐ様。

 【鑑賞】

 三代の天皇に侍従として務めた人らしく、詩も品格が漂い、高潔である。

 落合東郭(おちあいとうかく)  

 1867〜1942年。熊本の人。元田東野(永孚)の外孫。

 永孚の没後、明治天皇の恩召にて宮中に入り、明治・大正・昭和の三代、侍従を務めた。

 昭和11年帰熊、遠風吟社を設立し門下を育成。温厚高潔な人で五高教授も勤める。

 香雲堂吟詠会最高顧問のお一人。

 初代山桜先生が深く敬慕され、現宗家先生と共に詩書を頂戴しに伺候された由。

 詩を好み書を善くし、親切で人情に厚いかたであった。

 賦された詩に、熊本中学校(現在の熊本高校)の校賦「火国健児歌」等がある。

 昭和17年1月19日没、76歳。初代山桜先生の御依頼で、シンガポール陥落の詩を、

 1月12日に賦されたのが絶筆になった。

 

 余談だが1897年9月から半年程、大江村(熊本市新屋敷)の自宅を夏目漱石が借りている。

 当時、夏目漱石は旧制第五高等学校の英語教授として熊本に在住であった。

 「吾が輩は猫である」に登場する多々羅三平のモデルとされる股野義郎もこの家に寄食して

 いたという。

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秋日晩眺(初代瓜生田山桜)
 

 【題意】

 深まり行く秋の夕方の景を賦したもの。

 【詩意】

 毎年の事ではあるが、秋はこの熊本にも訪れて、涼気が清々しい

 と思いがけなく、一羽の雁が飛来して二鳴き三鳴きする声を聞いた

 いにしえより秋は感傷をかきたてる季節といわれるが、人生の哀歓が胸中を駆け巡る、

 この懐いを誰に向かって語ったらよいのだろうか。いや話しても理解してもらえないだろう

 そんな懐いに耽っていると、誰が吹くのか哀愁を帯びた笛の音が聞こえてきて、

 なおさら心は愁いを増すのである

 【鑑賞】

 初代山桜先生が敬愛され親交の深かった、徳富蘇峰先生が他界された昭和32年11月の

 作。初代先生にとって、この秋は誠に辛い無常の季節となってしまった。

 その様な当時の背景を汲み取って詠えば、初代先生 の他の多くの作品と何処か趣を異に

 する味わいを感じる詩である。

 初代 瓜生田山桜(うりゅうださんおう)  

 ※作者紹介は香雲堂吟詠会の頁で「初代・宗家」をご覧下さい。

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