寒梅(新島襄)
 

 【題意】

 梅は早春、多くの花に先がけて咲くことから、異名を花魁(かかい)と云い、花中のリーダー格

 ととらえられている。その梅にかりて人を啓発したもの。

 【詩意】

 庭に立つ梅の一木

 風や雪の困難にもめげず、微笑むかの如く花を咲かせている

 競うわけでもなく、また努めるのでもなく、

 それでいて、おのずと多くの花の魁になっている。

 【鑑賞】

 梅を擬人化し、厳しい試練に耐え、他人と争ったりせず、己の歩調を失わずに進み、自然に

 先導者となった人物にたとえた。

 詩は王安石の「梅花」に学んだといわれるが、「寒梅」は、教育家・宗教家としての作者の

 体験や思想が良く反映されている。

 【俳諧】

 手折らるる 人にもかおる 梅の花 (宝井其角)

 【宝井其角】

 1661〜1707年。江戸前期の俳人。松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲の一人。

 芭蕉と共に俳諧の革新に努め、蕉風の確立、発展に寄与した。

 晩年は、芭蕉の枯淡を追わず、新奇壮麗な表現を好んだという。

 新 島 襄(にいじまじょう)  

 1843〜1890年。明治時代の教育家、宗教家。

 天保14年正月、上州(群馬県)安中藩の右筆の家に生まれる。

 幼時より漢学を習う。藩命により杉田玄瑞について蘭学を学んだことや16歳で海軍伝習所

 に入ったことで、早くから彼の目は世界を向いていたといわれる。

 20歳の時、アメリカの汽船で密航して上海へ向かい、更に船の給仕としてアメリカへ渡る。

 この船中でジョーゼフの名をもらい、略してジョー(襄)と名のった。

 ボストンのアマースト大学を卒業後、キリスト教に入信し、神学校に学ぶ。

 明治4年、岩倉具視全権大使の訪米に際し、案内役として欧州に赴き、教育制度等を視察。

 同7年にキリスト教主義の学校設立の為、帰国し京都に同志社を創立した。

 同23年、1月23日、神奈川県大磯において没。48歳。

 門下に徳富蘆花、浮田和民らがいる。妻、新島八重が2013年大河ドラマヒロインになった。

 ※右筆・祐筆(ゆうひつ)=文書、記録の執筆、作成にあたる武家社会の職務。

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芳野(河野鉄兜)
 
 【題意】

 吉野に遊び南朝をしのんだ作。吉野三絶句の一つとして名高い。

 【詩意】

 夜気に山鳥の一声が響き、辺りはまた静寂に包まれる

 吹きつける春風は、未だ恨み消えぬ後醍醐天皇の息吹のようだ

 その帝の墓所のそばで横になり月を見上げる

 桜の影を浴びながら、いつか眠りに落ち、南朝の夢を見た

 【語釈】

 叫断=叫ぶに、強める意の「断」がついたもの。「鳴きやんだ」ではない。

 【鑑賞】

 作者が芳野で後醍醐天皇のことを思って深い感銘を受け、それをこの様に表現したが、

 皇陵で横になるとは不敬という意見等、発表当時から後世に至るまで賛否両論があった。

 後醍醐天皇

 1288〜1339年。第96代天皇。文保2年(1318)即位。

 鎌倉幕府討幕計画が失敗し隠岐へ流罪となるも、後に脱出。

 新田義貞等により、鎌倉幕府が滅亡すると建武新政府を樹立した。

 親政が行き詰まり足利尊氏と対立すると吉野に移って南朝を開いた。

 以後、後村上・長慶・後亀山天皇の4代57年間にわたり、天皇親政を主張し続け、

 北朝を擁立する室町幕府と争う南北朝時代となる。

 河野鉄兜(こうのてつとう)  

 1825〜1867年。播州(兵庫県)網干村生れ。名は維羆、羆(ひぐま)。

 幼時より神童と称され、15歳の時に一晩で漢詩百首を詠んだという。
 讃岐の吉田鶴仙門下となり、一時梁川星巌にも学んだ。
 江戸で播州林田藩の教授を務め、後に西日本の各地を漫遊。九州では草場佩川、
 木下い村、広瀬淡窓ら諸儒を歴訪する。帰郷後は家塾を開き、子弟の教育に尽力した。
 若き日の鉄兜は自らを誇り、礼を失して周囲の人を怒らせることもあったが、
 その才能は驚異的で万人が認めた。晩年は別人の如く謙虚になったという。
 明治維新前年の慶応3年、惜しくも43歳の若さで病没。
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太田道灌蓑を借るの図に題す(作者不詳)
 
 【題意】

 道灌が蓑を借りようとした話は有名。その場面を描いた画に題をとった。

 狩衣姿の道灌に対し、若い娘が黄色の山吹の一枝を差し出している絵馬がある。

 【詩意】

 一騎の武者が驟雨の中、かやぶき家の門を叩く。

 その家の少女は、ただ八重山吹の花の一枝を指し示した。

 少女は何も言わず、もちろん花は何も語らない。

 さすがの猛者、道灌も心がもつれた糸の様になり困惑してしまった。

 【語釈】

 孤鞍=供を連れず、一人で馬に乗って行くこと。   茅茨=かやぶきの家。

 【鑑賞】

 この詩だけでは、道灌と同様に、今ひとつ話が見えてこないかもしれない。

 話の詳細は、飯田黙叟「大日本野史」の武臣列伝に、次の様に記載されている。

 太田道灌は若かりし頃、自らの武勇を誇り、驕り高ぶっていた。野や山で狩りをしては殺生

 を繰り返し、情趣というものが全く欠けていた。ある日、山で狩りをしていると、にわか雨が

 降り出した。そこで、一軒の粗末な家を訪ねて、蓑を借りようとしたが、返事が無い。

 しばらくして、一人の少女が出て来ると、山吹の一枝を指差し、ただ微笑むだけであった。

 道灌は意味が解からず、心が結ぼれたまま憮然として立ち去った。

 帰宅後、このことを家来に話すと、一人の老武士が「それは蓑が無いという意味でしょう」

 と申し上げた。道灌が理由を問うと答えて言った。

 「七重八重 花は咲くとも 山吹の 実の(蓑)一つだに 無きぞかなしき」

 道灌は大いに面目無く思い、また後悔し、これより和歌を学び始め、後にその奥旨を得る

 までになった。

 【参考】

 八重山吹は実がならない。つまり、実の一つだに無い。

 【参考2】

 「七重八重…」の歌は平安末期の「後拾遺和歌集」に醍醐天皇皇子、兼明(かねあきら)

 親王作として収められている。元歌は最後の句が「なきぞあやしき」となっている。

 【参考3】

 香雲堂教本に於いては、初めに下記の今様が入る場合もある。

 「若葉の風もさわやかに野辺の獲物も軽からず時をえがおの丈夫が狩衣ぬらす俄雨」

 更に二句と三句の間に以下の和歌を入れて詠う。

 「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」

 【太田道灌

 1432〜1486年。関東管領、上杉定正の家臣。歌人。

 名は持資(もちすけ)、後に資長(すけなが)。

 室町時代中期の武将で江戸城の築城者として有名。主君定正を助け政治を整えたが、

 定正の勢威を恐れた、鎌倉の上杉顕定が道灌を除かんと讒言した為、文明18年7月、

 異志あるものと疑いを持った定正に暗殺された。55歳。道灌は剃髪後の称。

 歌集に「花月百首」等がある。

 【飯田黙叟

 1798〜1860年、徳山藩士。名は忠彦。国学者、歴史家。

 40年近くの歳月をかけ、嘉永5年、歴史書「大日本野史」を完成させた。

 後小松天皇から仁孝天皇までの約420年間が漢文、紀伝体で綴られている。

 作 者 不 詳  

 作者に関しては、大槻磐渓、新井白石、愛敬四山等、諸説伝わっている。

 香雲堂教本に於いては作者不詳を採っている。

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春夜(廣瀬青邨)
 

 【題意】

 春の夜。

 【詩意】

 眉のように細い月が昇っている

 春霞は長くたなびいて帯のようである

 山奥からやってきた鳥は夜の寒さに堪えて

 梅の花の傍に宿っている

 【語釈】

 幽禽=山奥に住む鳥。

 廣瀬青邨(ひろせせいそん)  

 1818〜1884年。豊前下毛郡の人。矢野氏。名は範治。

 廣瀬淡窓の養子となり、後に廣瀬林外(廣瀬旭荘の子)と共に感宜園を監督した。

 書や画にも巧みであり、旭荘・林外とともに(三広)と称せられた。

 明治17年没。

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和歌 照りもせず(大江千里)
 

 【歌意】

 さやかに照るというでもなく、全く曇り果ててしまうでもない、

 ほのかな春の夜の、おぼろ月に及ぶものはない。

 【出典】

 新古今和歌集

 【参考】

 詞書に日本に伝わった白楽天の「白氏文集」嘉陵春夜の詩の一部、「明らかならず

 暗からず朧々たる月」を題にして詠んだと書かれてある。

 

 大江千里のこの和歌の本歌取りで、後に藤原定家(新古今和歌集の選者の一人)が

 「大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月」と詠った。

 大江千里(おおえのちさと)  

 生没年不詳。平安前期の漢学者、歌人。三十六歌仙の一人。

 父は学者で大江家家学の祖、大江音人(おとんど)[811年〜877年]。

 叔父に六歌仙の一人、在原業平がいる。

 宇多天皇の勅命で「句題和歌」を奉ったが、その中に収められた歌は漢詩文の一部を

 題にとった当時画期的なものであった。

 白楽天や元H等の詩を題材にした歌百首以上が収められている。

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和歌 いにしへの(伊勢大輔)
 
 【詞書】

 一条院の御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、その折、御前に侍りければ、

 その花を題にて歌よめと仰せごとありければ

 【歌意】

 その昔、奈良の都で咲いた八重桜が

 今日は、九重、すなわちこの宮中で美しく咲きほこっていることよ

 【語釈】

 九重=昔、中国の王城の門が九つ重なっていたところから天子の住居。宮中。

 【鑑賞】

 奈良の八重桜の献上があった際、受け取る役を紫式部が新参であった伊勢大輔に譲った。

 それを聞いた藤原道長が、桜に歌も付けるように命じたので、即興で詠んだ。

 この歌を聞いた周囲の人々の賞賛はたいへんなものであったという。

 中宮彰子は「九重ににほふを見れば桜がり重ねてきたる春かとぞ思ふ」と歌を返した。

 いにしえときょう、八重と九重が綺麗に対照を成した美しい歌である。

 伊勢大輔(いせのたいふ・おおすけ・たゆう)  

 生没年未詳。平安中期の女流歌人。大中臣輔親の娘。

 寛弘4年(1007)頃から一条天皇の中宮、上東門院彰子(藤原道長の娘)に仕えた。

 和泉式部、紫式部、赤染衛門とは出仕の同僚でもあった。

 後に高階成順の妻となる。家集に「伊勢大輔集」がある。70余歳で没。

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