ページ内の肖像写真は、香雲堂吟詠会旧資料より抜粋させていただきました。(転載不可)
阿蘇山(徳富蘇峰)
 

 【題意】

 阿蘇山を詠じられたもの

 【詩意】

 一筋の晴れやかな白煙が、真っ青な空を突く様に昇っている

 阿蘇の五岳が空を削る様に、険しさを競っている

 幾度も訪れた阿蘇の路ではあるが、

 今日の阿蘇山の容姿は、初めて見る真の名山の姿である

 【語釈】

 碧旻(へきびん)=真っ青な空。  五峰=阿蘇山の五岳。

 IJ=山の険しい様子。 面目真=真の様子。

 【鑑賞】

 阿蘇山は何度見ても名山であるが、今日の山容は格別にその真の名山の姿を

 表していると賦された。蘇峰先生の阿蘇に対する感慨に次の和歌もある。

 『行末を我が契りにし阿蘇の山、天衝く烟(けむり)今も燃ゆるか』

 徳富蘇峰(とくどみそほう)先生  
 1863〜1957年。熊本の生まれ。名は正敬。通称猪一郎、蘇峰は号。
 熊本の生んだ大偉人であり、明治・大正・昭和時代の言論人、史家、漢詩人。
 香雲堂吟詠会の最も敬仰する大先達。初代瓜生田山桜先生を認められ、
 多大の御後援を賜った。本会の最高名誉顧問である。
 家は代々総庄屋兼代官の役を勤めた。父、一敬は実学派の横井小楠の高弟で維新後、
 県の役人に登用され県政に参画した。弟、健次郎(蘆花)は小説家として名高い。
 また母の妹が横井小楠夫人であるため、小楠は叔父にあたる。
 明治4年、兼坂止水塾に学ぶ。父一敬らの教育改革政策としてアメリカ人ジェームスを招き
 熊本洋学校が設けられ、明治6年、当校に入学、アメリカ風の教育を受けキリスト教を知った。
 また洋学校の側に新聞を印刷する会社が在った事で新聞に興味を持ったといわれる。
 明治9年13歳の時、同士と共にキリスト教を日本に広めるという誓いを熊本花岡山でたてる。
 これを「熊本バンド」と云ったが、それが元で洋学校は閉鎖、仲間と京都の同志社に移った。
 同年、新島襄から洗礼を受け正式にキリスト教徒となる。
 翌年、西南戦争が勃発。征討軍の本拠地・京都で新聞特派員の活躍やその戦況報道に
 大きな刺激を受け新聞記者を志す。
 新島からは将来に期待をかけられていたが、「校長自責事件」として有名な学生運動に
 巻き込まれ、同志社を退学して上京する事となった。
 19歳の時、熊本に帰り大江義塾を創設。この頃、板垣退助、中江兆民、福沢諭吉等と交わり
 「将来の日本」を著した。一家を挙げて上京の後、明治20年(1887)出版社・民友社を創り
 雑誌「国民の友」、同23年には「国民新聞」を発行。
 同29年には欧米視察。またロシアへ赴きトルストイを訪問している。
 同44年貴族院議員に勅撰されたが、後に息子・桂太郎の死に遭い政治的野心を捨てた。
 第二次世界大戦中、文学報国会長となり文化勲章を授けられたが、終戦後は戦犯とされて
 引退し、一切の公職や勲章等を辞退した。
 大正7年より新聞に掲載の「近世日本国民史」(全百巻)の執筆を続け、昭和27年89歳の
 時に完成した。昭和32年(1957)11月2日熱海晩晴草堂にて94歳で病没。
 辞世は「吼え狂う波の八重路をのり越えて心静けく港にぞ入る」
 先生は一世の文豪で学問も広く、その著書は三百冊に及ぶ。漢詩人としても「今山陽」の
 称がある程で、詩集には「徳富先生作詩集」「蘇峰詩集」「蘇峰百絶」等がある。
 
 初代山桜先生との出会いは、昭和13年(1938)5月、蘇峰先生の熊本に於ける、
 ”横井小楠没後70年祭”の記念式典時に始まる。
 後に初代が出版された「書簡に偲ぶ蘇峰先生」によれば「式典後、先生の歓迎会が催され、
 その席上、落合東郭先生の歓迎詩を代吟して図らずもお耳に止まった訳である」とある。
 その時、初代は先生から『月明林下美人来』の七文字を揮毫して戴いたが、
 現在徳富蘇峰記念館(旧大江義塾)に展観され往時を物語っている。
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三賢堂(安達漢城)
 

 【題意】

 作者が三賢堂(加藤清正、細川重賢、菊池武時を祀る)を建立し、感慨を詠まれたもの。

 【詩意】

 三賢人が後世に残した恩徳で、肥後は素晴らしい国となった

 爾来、数百年の間当地の人々は、その恩恵を忘れたことはない

 民衆の心を奮い起こした、三賢人の終生の事業

 小さな真心が大きな実りとなり、神の御意思にも添うことになった

 (私も真心を以って政治に参画し、国の興隆を願い、神の御意志に応えたいものだ)

 【語釈】

 肥州=肥前国、肥後国の総称。   畢生=一生涯。終生。

 丹誠=飾り気や偽りの無い心。真心。赤心。

 【鑑賞】

 肥後人の安達先生も、先賢を敬い、政界に投じ国の発展を願い、終生の業として歩まれた。

 三賢人と安達先生の心が固く結ばれた思いのする作である。

 【三賢堂】

 熊本市島崎。昭和11年(1936)、安達謙蔵(漢城)氏によって精神修養の場として

 建てられた。

 堂内には肥後の三賢人として、南朝の忠臣菊池武時公、肥後の藩政を確立した

 加藤清正公、細川家中興の祖細川重賢公の坐像が田島亀彦、朝倉文夫、長谷秀夫ら

 彫刻家により製作され安置されている。

 安達漢城(あだちかんじょう)先生  
安達漢城先生
 1864〜1948年。熊本の生まれ。名は謙蔵。父は細川藩御用方に属した。
 9歳の頃より寺小屋にあがる。14歳の時、西南の役に遭遇。
 15歳で玉名郡玉名村の友枝庄蔵の漢学私塾、忍済学舎に入塾。
 6年間漢学を修めた後、佐々友房の経営する済々黌に転学。
 その後東京に遊学し、佐々について朝鮮を漫遊した。帰熊後、雪子夫人と結婚するが、挙式
 4日目に再び朝鮮に渡り、「朝鮮時報」「漢城新報」を創刊する。
 明治18年、朝鮮閔妃事件に関連し、公使三浦梧楼と広島監獄に入監されるが、その後
 無罪となって帰熊。佐々友房を補佐し、友房の後継者として国権党の首領となった。
 明治35年、衆議院議員。大正元年立憲同志会入会。
 同13年、第1次加藤高明内閣の逓信大臣。
 同15年、内務大臣兼務。浜口、若槻内閣でも内務大臣を務める。
 昭和6年、満州事変が勃発すると、内閣総辞職にともなって立憲民政党脱退。
 国民同盟を結成して総裁となった。
 満州事変等の戦争が始まり、次第に軍部の政治力が強まった為、昭和15年11月17日、
 銅像の除幕式で政界からの引退を表明し、同17年以降、原泉荘に隠棲した。
 同23年、85歳を一期として熊本市島崎町の三賢堂にて没。
 
 「香雲堂」の名付け親であり、本会の名誉顧問であった。
 安達先生は政治が生命であったが、他方漢学に深い素養が有り、漢詩も善くされた。
 先生の作品はそれ程多くないが、いずれも先生のお人柄、思想、世界観をよく表現している。
 詩歌を以って国民精神を陶冶する事を志し、昭和8年10月、横浜本牧に、孔子、釈迦、
 キリスト、聖徳太子、弘法大師、親鸞上人、日蓮上人の8人の聖人の像を祭置した八聖殿を
 建立された。熊本市島崎にも三賢堂を建立し、共に幾度も吟詠大会を開催された。
 昭和13年5月には、現在の日本吟詠総連盟の前身・大日本吟詠連盟を結成、全国の吟詠
 振興に多大の貢献をされた。
 八聖殿、三賢堂で開催される全国吟詠大会には著名な吟詠家が出吟したが、初代宗家
 も昭和9年から18年迄、10年間出席した。
 香雲堂社中に於いても春秋の西山の景色を賞づると共に、先生をお慰めする吟詠大会を
 催した。当時三賢堂までは市電の停留所から徒歩で、弁当水筒持参の一日がかりの行事
 であった。
 三賢堂の下、同じ敷地内に漢城先生の晩年の住居・原泉荘がある。
 (原泉は漢城先生の以前の雅号)
 現宗家も少年時代、初代と共に漢城先生に度々お会いした。当時、先生は二階の書斎に
 いつも居られて、虎の敷物にお座りになり、「よく来た、よく来た」と言ってお会いになられた。
 ここへ来ると、今にも二階から先生のお声がする様に思われるとのことである。
三賢堂
安達漢城先生銅像
原泉荘
三 賢 堂
安達漢城先生銅像
原 泉 荘
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菊池武時公(菊池東郊)
 

 【題意】

 忠臣、菊池武時公を賦した。

 【詩意】

 暗く怪しい空気が宮中に満ち溢れている

 日本の西方、肥後で勇躍君国の為に立ち上がった忠臣こそ菊池武時公である

 櫛田神社では、鏑矢で蛇の物の怪を倒した

 袖ヶ浦で詠った和歌は鬼神さえも涙させた

 その子武重は父の教え通り、小さな郷里を守り、頑張った

 武時公たち菊池一門は自分の身を忘れて天下の御為に尽くしたのである

 後世の人々は、勤皇の地でいつまでも一門を祀り弔う

 十八の城があったというこの辺りに来ると、菊池一族の忠義を思い、涙があふれるのだ

 【語釈】

 紫宸=天皇の宮殿。   西陲=西のほとり。ここでは九州肥後。

 【櫛田の鳴鏑】

 武時一行が櫛田神社の前まで来ると突然馬が動かなくなった。

 武時は「神といえど大義の戦を止めることはできぬ。」と言い、社殿の扉へ矢を放った。

 すると馬は呪縛が解けた様に再び進みだし、矢の傍には一匹の蛇の死骸があったという。

 【袖ヶ浦の題歌】

 鎮西探題攻めで守勢にたった武時は、覚悟を決め嫡子次郎武重を呼んで、肥後に帰るよう

 命じる。武重は館に討ち入ることを頼むが、武時は故郷へ戻り態勢を立て直し再び挙兵する

 よう後事を託した。

 その際、武時は直垂の袖を切り「故郷に今宵ばかりの命とも 知らでや人のわれを待つらん」

 という歌をしたため、母に与えよ、と命じ武重に持たせて菊池に帰した。

 「袖ヶ浦の別れ」といわれ、菊池武時親子の悲しい別れを今日に伝えている。

 楠公父子の櫻井の駅の別れの3年前の事であった。

 菊池東郊(きくちとうこう)先生  
菊池東郊先生
 1866〜1938年。熊本の人。高等小学校教諭を経て熊本詩壇に重きをなす。
 人格円満で生き仏と称された。
 書道にも長じ名士の碑文等も多く揮毫されている。
 香雲堂吟詠会最高顧問のお一人。初代瓜生田山桜先生の作詩の先生の
 一人でもあり、各吟詠大会には何時も御出席戴いた。現宗家も良く会われたが、白い髭を
 生やされた優しい人柄であったと記憶されている。
 日本軍進撃の詩を賦され、初代山桜先生の処へ御持参後、一日を経ずして急逝され、
 その詩稿が絶筆となった。昭和13年1月21日歿。
 葬儀は千体佛報恩禅寺で盛大に挙行され、各界名士が500余名会葬。
 初代山桜先生が落合東郭先生作の弔詞を吟じ盛葬であったという。
 
 先生の墓地は千体佛報恩禅寺に在るが、すぐ隣に宮原南郊先生の墓も在る。
 その御縁で二代宗家厳父、瓜生田建山先生が自身の墓所を同じ場所に求め、初代宗家も
 ここに眠られている。丁度向かい合わせに三つの墓石が在り、菊池東郊先生の墓碑には、
 徳富蘇峰先生の筆による碑銘が刻まれている。
 ※報恩禅寺は、俳人の種田山頭火が得度を受けた寺としても知られる。
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暁に高千穂の峰を望む(落合東郭)
 

 【題意】

 古来、天孫降臨の地として有名な、宮崎・高千穂の峰を望み賦されたもの。

 【詩意】

 朝一番早く鳴くという鶏が、美しく色づいた雲の中に朝を告げる

 早暁の清々しい気が、大空に満ちている

 その時、五色の雲間から、一筋の陽光が辺りを照らし出す

 神の山の頂に、真っ白な雪が玉の様に美しく、神々しい思いは益々強くなる

 【語釈】

 天鶏=神山に住み、どの鳥よりも一番早く朝を告げるという鶏。

 氤U=天地の気の盛んな様。気のやわらぐ様。

 【鑑賞】

 三代の天皇に侍従として務めた人らしく、詩も品格が漂い、高潔である。

 落合東郭(おちあいとうかく)先生  
落合東郭先生
 1867〜1942年。熊本の人。元田東野(永孚)の外孫。
 永孚の没後、明治天皇の恩召にて宮中に入り、明治・大正・昭和三代の侍従
 を務めた。昭和11年帰熊、遠風吟社を設立し門下を育成。温厚高潔な人で
 五高教授も勤める。
 香雲堂吟詠会最高顧問のお一人。
 初代山桜先生が深く敬慕され、現宗家先生と共に詩書を頂戴しに伺候された由。
 詩を好み書を善くし、親切で人情に厚いかたであった。
 賦された詩に、熊本中学校(現在の熊本高校)の校賦「火国健児歌」等がある。
 昭和17年1月19日没、76歳。初代山桜先生の御依頼で、シンガポール陥落の詩を、
 1月12日に賦されたのが絶筆になった。
 
 余談だが1897年9月から半年程、大江村(熊本市新屋敷)の自宅を夏目漱石が借りている。
 当時、夏目漱石は第五高等学校の英語教授として熊本に在住であった。
 「吾が輩は猫である」に登場する多々羅三平のモデルとされる股野義郎もこの家に寄食して
 いたという。
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天草の洋を望む(松口月城)
 

 【題意】

 天草の海を眺め、頼山陽の「天草洋に泊す」の詩に懐いを巡らして賦された。

 「天草洋に泊す」の有名な一節「雲か山か呉か越か…」と共に詠ずる事が多い。

 【詩意】

 限り無く遥かに霞んで、煙った様な波が広がって見える天草の海

 ぼんやりとして判然としない雲を眺めているうち、美しい風光に心を引き込まれてしまう

 その時にわかに、あの頼山陽の「天草洋に泊す」が

 澄んだ声で高く吟じられるのを耳にすると、益々感慨が深まってくる

 居合わせた人々皆が、同様な感情を抱いて、

 「雲か山か・・・」と詠われた遥かな海の彼方に見入るのである

 【語釈】

 縹=ただようさま。 渺=遥かに霞んでいるさま。水面等が限り無く広がっているさま。

 模糊=はっきりしないさま。ぼんやりとしたさま。 忽=にわかに。速やかに。

 朗々=音声が清く澄んで良く通るさま。 頼翁=頼山陽  斉しく=同じ。揃って。

 【鑑賞】

 松口月城先生が香雲堂の吟友一行と天草観光をされた時の詩である。

 松口月城(まつぐちげつじょう)先生  
松口月城先生
 1887〜1981年。福岡市出身。名は栄太。月城は号。
 少時より秀才の誉れ高く、熊本医学専門学校(現・熊本大学医学部)を18歳
 にて卒業、医者となり世人を驚かせた。
 当時、久留米出身で熊本在住の詩壇の重鎮・宮崎来城に漢詩を学び、以来
 詩歌の道を究め続ける。
 後に福岡に「月城吟社」を興し、現代詩人の雄として活躍、書画にも秀でた。
 殊に吟詠に適する詩を賦して、吟会の発展に寄与した。
 昭和49年文部大臣表彰。著書に「松口月城詩集」等。
 昭和56年7月16日没、94歳。
 平成6年4月、福岡県那珂川町に松口月城記念館が開設された。
 
 初代瓜生田山桜先生と親交があり香雲堂吟詠会顧問でもあった。
 月城先生御逝去の折まで、香雲堂流吟詠の資格を証する木札は先生の揮毫によるもので、
 初代をはじめ会員の多くが先生の書画を頂いた。
 その際、月城先生は初代宗家宅に宿泊され、木札、書画を書された。
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