宮本武蔵
宮本武蔵、年表、漢詩、詩吟、熊本、肥後、雲巌禅寺、五百羅漢、霊巌洞、武蔵塚、西の武蔵塚
宮本武蔵(大橋悟軒)
※漢詩、作者については栞/熊本漢詩紀行 一に詳述。 

宮本武蔵肖像画(島田美術館蔵)

 宮本武蔵

 戦国末期から江戸初期の剣豪、兵法家、思想家。

 幼少から剣術を学び、吉岡一門との死闘他、諸流の兵法者と生涯で

 六十余度戦い一度も敗れなかったといわれる。

 中でも有名な「巌流島(舟島)の決闘」では、佐々木小次郎に勝利し、

 剣豪として名を全国に轟かせた。

 晩年を熊本ですごした武蔵は、剣術のみでなく書画や彫刻等にも

 才能を発揮、優れた作品を残す。

 また霊巌洞にて自らの集大成ともいえる「五輪書」を著した。

宮本武蔵肖像画

(島田美術館蔵)
 

 現代人にとっての武蔵のイメージは、昭和10年から朝日新聞夕刊に連載された吉川英治

 の小説「宮本武蔵」で描かれた武蔵である。

 実はその武蔵像は吉川英治の創作なのだが、今やそのイメージですっかり定着している。

 その理由は小説が秀作で広く人々に読まれたことに加えて、ほとんどの以後発表される

 武蔵を描いた映画、ドラマ、小説、漫画等の原型となっているからである。

 それでは実際の武蔵はどうだったのか?出世地や両親についても諸説有る。

 名を馳せていた割に、その経歴は不明の部分が多いという。

 晩年、肥後(熊本)に現れる以前のことは、全く謎に包まれているといっても過言ではない。

 寛永17年(1640)57歳の時、武蔵は細川忠利公の客分として肥後に移り住む。

 此処熊本においても武蔵は数多くの謎と伝説を残してはいるが、不明の経歴の中にあって

 唯一光のあたっている時期といえる。

 
島田美術館
島田美術館
熊本市島崎にある美術館。武蔵関連のコレクションで有名。
武蔵は芸術にも造詣が深かった。
直筆の書画や遺品等が展示されている。
 

 島原の乱後、武蔵は仕官を求めて上方や江戸を廻ったらしいが望みは叶わなかった。

 再び西下した武蔵は旧知であった細川家家老・松井興長に書状を送り面会、その仲介等

 もあって、肥後藩主・細川忠利公に客分として召されることになる

 身分は正式な細川家家臣ではなかったが、七人扶持、合力米十八石を得ることとなった。

 余談ではあるがそれから半世紀ほど後、赤穂浪士の吉良邸討ち入りがある。

 大石蔵之助以下十数名は処分保留の間、細川藩江戸高輪台の下屋敷に預かりとなった。

 藩は彼らを忠義の臣として客分扱いで手厚く迎えたという。

 細川藩には代々そのような土壌があったのだろうか。

 
武蔵の井戸跡
武蔵の井戸跡
武蔵は千葉城跡に屋敷を与えられた。
現在は熊本市千葉城町。井戸はNHK熊本の敷地内にある。
 
 
細 川 忠 利

 父、細川忠興は三斎の号でも知られる利休十哲の一人。飢饉の際、茶器を売り、得た金で

 領民を救った。豊前藩主の頃、佐々木小次郎を藩剣術師範として召抱えたともいわれる。

 母は明智光秀の娘、細川ガラシャ(玉)。祖父は細川幽斎(藤孝)。

 肥後熊本藩主であった加藤清正が急死し、後継の加藤忠広も改易させられたことをうけて、

 豊前小倉より肥後へ入り54万石藩主となった。以後、細川家が幕末まで代々藩主を務める。

 忠利公はたいへん人格者であったといわれ、その死去に際して多くの殉死者が出た。

 殉死をめぐる問題から阿部一族の乱ともいわれる事件まで起きた。

 後に森鴎外が小説「阿部一族」に描いている。

 

 武蔵は熊本で亡くなる迄の五年ばかりを過ごした。

 門弟達に剣術や兵法を伝授し、「兵法三十五か条」を藩主細川忠利公に献上している。

 しかし客分として迎えられて一年程、「兵法三十五か条」を献上後まもなく忠利公は急逝、

 武蔵も大いに落胆して門戸を閉ざしたといわれる。

 武蔵は禅に親しみ、剣術や兵法以外の書画や彫刻、茶道や詩歌等にも才能を発揮した。

 熊本での晩年は人生の中で最も平穏で安定した時期だったと思われる。

 やがて金峰山西麓の霊巌洞に籠もり「五輪書」や「独行道二十一か条」を著す。

 
霊巌洞(二代瓜生田山桜)
※作者については香雲堂吟詠会の頁に詳述。
雲巌禅寺
曹洞宗雲巌禅寺
南北朝時代に元の渡来僧、東陵永O(1285〜1365)に
よって建立された。
本尊は「岩戸観音」として知られる石体四面の秘仏。
五百羅漢
五百羅漢
肥後の商人、淵田屋儀平が安永八年(1779)から享和二年
(1802)の間に奉納。永年の風雨や地震、明治の廃仏毀釈
を経て現在は約半数が残る。
霊巌洞
霊巌洞
雲巌禅寺境内。五百羅漢を横に見ながら、起伏の激しい
見学用の小道を百メートルばかり歩いたつきあたりにある。
 
霊巌洞内部
霊巌洞内部
武蔵が此処に籠もって「五輪書」を執筆し始めたのは、
寛永二十年(1643)60歳の秋であった。
写真手前の大岩の上で武蔵は座禅を組んだといわれる。
熊本市郊外、金峰山の峠を越えた有明海側にある。
周囲は熊本河内蜜柑の産地。山の斜面に蜜柑畑が広がる。
夏目漱石も「草枕」の舞台である小天温泉で休日を過ごした際、此処を訪れたという。
 

 五輪書

 五輪書は地、水、火、風、空の五巻からなる。

 兵法の基礎的なものから人間形成までを記述した自らの修行の集大成ともいえる実践の書。

 地の巻は、二天一流の基本理念や兵法の道を述べている。

 水の巻は、二天一流についての具体的記述。

 火の巻は、水の巻の応用ともいえる実戦での駆け引き等。

 風の巻は、他流派の比較や批判。

 空の巻は、武士としての正しい兵法や精神のあり方等が語られている。

 
独行道21か条
独行道二十一か条
 

 武蔵には高弟であり世話人でもある寺尾孫之丞勝信、求馬助信行の兄弟がいた。

 武蔵は亡くなる一週間前、兄弟に「五輪書」等を授けている。

 また禅を通じて親交のあった細川家菩提寺泰勝寺の春山和尚に引導役を頼んだという。

 「五輪書」空の巻は未完であった為、寺尾兄弟や同じく高弟の古橋惣左衛門良政、

 春山和尚らが完成させたという説もある。

 
武蔵塚(二代瓜生田山桜)
 
武蔵塚公園
武蔵塚公園
通説による武蔵の墓所。武蔵の像や日本庭園がある。
遺言により細川藩主の参勤交代を拝し見守る為、街道沿いに
埋葬された。
武蔵塚
武蔵塚
墓石には「新免武蔵居士」と刻まれている。武蔵は甲冑を身に
付け、太刀を持った姿で葬られていると伝わる。
 
熊本市龍田弓削。熊本から阿蘇方面に向かう旧大津街道沿いの二里木と三里木間にある。
城下の武蔵の屋敷から霊巌洞と武蔵塚への直線距離はほぼ同じ、位置関係はおおよそ真
反対にあたる。
 
西の武蔵塚
城下の西郊にありこの名で呼ばれる。武蔵の高弟寺尾兄弟
の墓域にある。 通説の武蔵塚には太刀のみを埋め、武蔵は
此処に葬られたという説もある。
西の武蔵塚
寺尾家墓域
写真のすぐ左側に西の武蔵塚がある。
写真右端の白い表札は寺尾信行の墓と記されてある。
 
寺尾家墓域
熊本市島崎。東荒尾バス停そばに案内板がある。標識に沿い約200m歩いた山林にある。
一つ手前の標識と見誤りやすいので注意が必要。また多少予備知識が無いと、どの塚が誰の
ものか分からない。
 

 二天一流

 武蔵は自らの剣法を「五輪書」地の巻で二天一流と呼んだ。晩年に親交のあった泰勝寺の

 春山和尚から与えられた「二天道楽」の文字からとったといわれる。

 いわゆる二刀流の異名ではなく、二刀流を含む武蔵の完成させた剣法の総称。

 武蔵の高弟寺尾信行は武蔵亡き後、五輪書に記された、五方の構え、太刀筋等を後世に

 伝える為、四男信盛に武蔵の新免姓を名乗らせ二天一流を継承させた。

 二天一流は江戸末期には野田派、山東派、山尾派に分かれ肥後細川藩門外不出として

 隆盛を極めた。現在も野田派、山東派が継承されている。

 
剣豪(二代瓜生田山桜)
宮 本 武 蔵 略 歴
以下は「五輪書」で語られたもの等に基づく一般的な説である。異説も多い。
天正12年(1584)   3月、美作国吉野郡宮本村(現岡山県英田郡大原町宮本)
    もしくは播磨国(現兵庫県)にて父・平田無二斎、母・お政の
    次男として生まれた。幼名は辨(弁)之助あるいは辨助。
    出生年にも天正10年他異説がある。
慶長元年 (1596) 13歳 播磨国で新当流兵法者・有馬喜兵衛と初めて決闘を行い勝利。
慶長4年 (1599) 16歳 但馬国の兵法者・秋山某を倒す。
慶長5年 (1600) 17歳 関が原の合戦に参加。竹山城の新免伊賀守の手勢として、
    宇喜多秀家の配下で西軍に属した。
慶長9年 (1604) 21歳 京にて吉岡一門との果し合い。吉岡清十郎、吉岡伝七郎を倒し、
    一乗寺下り松で清十郎の子、又七郎以下吉岡一門を破った。
    奈良で槍の宝蔵院胤栄の弟子、奥蔵院道栄と試合して勝つ。
慶長10年(1605) 22歳 播州明石で夢想権之助勝吉と試合。
慶長12年(1607) 24歳 伊賀で鎖鎌の宍戸某(小説等では宍戸梅軒)を倒す。
慶長15年(1610) 27歳 江戸で柳生流の大瀬戸隼人、辻風天(典)馬と試合して破る。
慶長17年(1612) 29歳 巌流佐々木小次郎と舟島で対決して勝利する。
慶長19年(1614) 31歳 大坂冬の陣に西軍で参戦する。
慶長20年(1615) 32歳 大坂夏の陣に参戦。
    大阪城落城後、西国方面に向かったとされるが不明。
元和5年 (1619) 36歳 造酒之助(みきのすけ)を養子にする。姫路城下に居住か。
寛永元年 (1624) 41歳 伊織を養子とする。
寛永3年 (1626) 43歳 造酒之助、主君本多忠刻の墓前で殉死。
    伊織は明石にて小笠原忠真の近習となる。
寛永9年 (1632) 49歳 伊織は小笠原忠真に従い小倉へ、2500石の家老となる。
寛永15年(1638) 55歳 島原の乱において小笠原忠真の軍に従う。伊織と共に軍監として
    出陣するが、石つぶて又は石落によりすねを負傷する。
寛永17年(1640) 57歳 肥後藩主細川忠利に客人として召され、屋敷を与えられる。
寛永18年(1641) 58歳 「兵法35ヶ条」を藩主細川忠利に献上。
寛永19年(1642) 59歳 忠利の死後、門を閉じて茶禅書画に打ち込む。
寛永20年(1643) 60歳 霊巌洞に籠もり、「五輪書」を書き始める。
正保元年 (1644) 61歳 病が進行。周囲の者が武蔵を千葉城跡の自宅へ帰らせる。
正保2年 (1645) 62歳 「五輪書」が完成。「独行道21か条」を記す。
    同年5月12日、高弟寺尾兄弟に「五輪書」等を授ける。
    5月19日没。

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