「個展を終えて・・・。」



ご挨拶が、大変遅くなりましたこと、初めにお詫び申し上げます。
思えば、3月11日、個展の準備中に遭遇しました、未曾有の巨大地震、東日本大震災。
今まで経験したことの無い、激しい揺れの最中、この世の終わりを感じたほどでした。
地震直後のテレビの画面に、宮城県名取市の津波に呑まれる信じがたい映像が流れてきました。
今回の地震が尋常ではない、と、誰もが震え慄きました。
三日後くらいに、母の故郷、南三陸町の、更に壊滅状態の町の映像が映し出され、私たち家族は言葉を失いました。

5月1日からの個展を控え、夢中で制作の追い込みに入っていた私の手は、ぴたりと止まったまま、動かなくなりました。
全ての価値観を覆されたような、「生きる」ということは何なのか、自然の猛威の前では、人間というものはかくも脆いものなのか。
辛うじて、親類縁者の無事を確認できたのは、地震からどれほど経ってからだったでしょうか。
更に驚いたのは、従兄である町長が、鉄骨だけになってしまった防災庁舎の屋上で、雪の降る中、一晩中津波の波に埋もれていたことでした。
屋上に上がる非常階段の手すりに必死に掴まっていた手は、紫色に晴れ上がっていたそうです。

そんなニュースが次々入ってくる中、今更、「三十六歌仙」も無いだろう・・・・・。
こんな呑気な事をしている場合か・・・・。
でも、だからと言って、何も出来ない自分もそこに居ました。
テレビに度々顔を見せる従兄の顔は、正視できないほどやつれているのに、自分のことは二の次にして、必死で町の復興のため、救済を叫んでいたのです。

後に彼が言ってましたが、辛くも難を逃れ、身一つで避難生活を余儀なくされている町民1万人の食事、一日三回として、毎日三万食を如何にして確保するか、まずそれに頭を痛め、その為だったら、どんな取材にも応じて、救済を訴えようと思った、と。
そんな彼の姿を、テレビで何度も見ているうちに、知らず知らずのうちに、勇気が湧いて来ました。
そして、悩んでいる私の背中を押してくれた家族のお蔭で、3月11日を境に、時が止まったようになっていたアトリエに戻ることが出来ました。
もう一切の迷いもなく、頭の中では、たった一つのことだけ思い描いて、制作を再開しました。
それは、地震による中断を感じさせることの無い、優雅な三十六人の歌仙を飾って、その前で、いろんな方とお話をしている自分の姿でした。
プラスアルファは、その作品と自分を、母に見て貰いたかったのです。
5年前の約束でしたから・・・。
欲張りしましたが、出来れば南三陸町のことも紹介して、ささやかでも何か支援の形のして送れたらいいな、と。

制作を再開してからというもの、本当にいろんな方に応援して頂きました。
この場を借りまして、心から御礼申し上げます。
一人では全く無理でした、気持ちも、身体も、仕上げも、何もかも・・・。
今回は、アートロビー一杯にリヤドロの商品を展示してました関係で、残念ながら、今回は御家流安藤先生の素敵なお茶とお香の席を設けて頂くことは出来ませんでした。
同じように、演奏の方も、また御祝いに、と、地歌・生田流箏曲演奏家 奥田雅楽之一さんとバイオリニストの阿部真也さんが、お忙しいスケジュールの中、駆けつけてくださいましたが、会場はお二人のご希望に従い、敢えて狭いながらも、私の作品の前で、とのことで、地下のギャラリーで3時からと5時から、2回も演奏して下さいました。
曲目は、そうです、勿論、あの「春の海」でした。

それから、地下ギャラリーにて、お抹茶の無料接待を、お引き受け下さいました野崎先生と金子先生。
お暑い場所で、しかも流しの設備の無い大変な悪条件にもかかわりませず、大勢のお客様にお茶を振る舞ってくださいました。
金子先生には、お嬢様、奥様にまでお手伝い頂き、重ねて御礼申し上げます。

南三陸町の支援に繋がれば、と、出雲の和紙を漉いていらっしゃる、安部さんにご協力を依頼してくださった山田様、いろいろとお骨折り下さいまして、有難うございました。
心より感謝申し上げます。

搬入間近の仕上げの段階で、いよいよこちらの身体の方も限界点に至りました時、見るに見兼ねて、わが恩師のご子息が、お忙しいスケジュールの中、車で飛んできて、快くお手伝いの手を差し伸べてくださいました。
地獄で仏、の心地でした。
有り難かったです。
彼が来てくれてなかったら、と思うと、ぞっとします。

そして、私の思い描いていた通りに、連休中にもかかわらず、たくさんのお客様がいらして下さいました。
中には、一度いらした方が、お連れの方とご一緒に、二度もいらっしゃって下さいました。
嬉しかったです・・・・。

今回の「佐竹本三十六歌仙・装芸画絵巻」は、言うなれば、単なる原本を復元した模写に過ぎないもので、大して芸術性もなければ、創造性も無い、自分自身が持っている表具師としてのロマンを追いかけただけようなものなのですが、「装芸画」というのは、「表装」の技術が無いと出来ないのです、というアピールになれば、というのが、そもそものコンセプトでした。
歌仙の絵の部分を、古布を駆使した装芸画で彩り、脇に臨書し、最後に装丁の巻子本仕立てまで、全て作家自身が手がける、という、今の時点では、自分以外誰もまだ手を付けていない分野なのです。
出来うれば、私にまだ人様に物を教える根気が備わっているうちに、どなたか若い方が、この技術を受け継いでくれたらいいな、と、個展を終えてみて、少しだけ思いました。
何故なら、一瞬のうちに、人生の幕を閉じるかもしれない、という恐怖を、このたびの地震で教えられたからかもしれません。

最後に、大切なご報告をさせて頂きます。
皆様の、温かいご支援のお蔭様で、南三陸町・町長あてに、30万円の義援金を送ることが出来ました。
本当に、有難うございました。
合わせて、たくさんのメッセージカードも、添えてお送りしました。
内訳は下記の通りです。
会場に置かせて頂きました「南三陸町義援金箱」9日間で、 ¥92,721
出雲和紙・便箋&封筒他 (商品売り上げ純益全て) ¥35,000
船田春光 絵葉書 @500×174set=87、000 - (ギャラリー3割) ¥60,900
合計 ¥188,621
5月14日、お友達のめだかさん(鴇田裕子さん)主催のフォルクローレのコンサートが六本木でありました。
ひと時演奏を楽しませて頂いた後、思わぬサプライズで、チケット代の一部(4万円も)を、南三陸町の町長さんに、と
お客様の前で義援金をお預かりしましたのです。コンサート会場で感謝の言葉を述べさせて頂きましたが
、改めまして、この場を借りまして、
「ボランタールU」の鴇田様、会場の皆様、本当に有難うございました。 ¥40,000
合わせて ¥228,621
プラス春光から ¥71,379
総合計 ¥300,000

それから、もうひとつご報告がございます。

ようやく、宿泊の目処が付きましたので、6月7,8,9日の三日間、私のプリメーラで南三陸町と仙台市青葉区に行ってまいります。
これまでに、小笠原とし子さんや、森まりこさんが、支援物資を送ってくださいました。有難うございました。
南三陸町のホームページに、今余っているものと、不足しているもののリストが載っています。それを見て、なるべく一杯つめて参りたいと思います。

長くなってしまいまして、皆様の貴重なお時間を、使わせて頂きました。申し訳ありません。

          たくさんの有難うを、もう一度・・・。有難うございました!   春光 拝


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