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持統天皇が登場するおススメの小説 |
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黒岩重吾 『天の川の太陽』 | ||||||||||||||||||
古代史上最大の合戦である壬申の乱が緻密な時代考証から雄大なスケールで描かれている。 大海人皇子を気丈に支える鵜野讃良皇女(持統天皇)がこの頃はまだ健気な女性だった。 |
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黒岩重吾 『天翔ける白日 小説 大津皇子』 | ||||||||||||||||||
我が子、草壁皇子の皇位継承を阻む大津皇子を、持統が刑死に追い込む悲劇。 大津はかなり魅力的に描かれているので、持統が憎くなるかも?! |
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黒岩重吾 『天風の彩王』 | ||||||||||||||||||
主人公は藤原(中臣)鎌足の子、藤原不比等。 彼が時の最高権力者である持統の心いかにしてを掴み、国政を我が物としていったかが生涯を通して語られる。 天武天皇、草壁皇子を失った、晩年の持統がやや哀れに思える。 |
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永井路子 『裸足の皇女』 | ||||||||||||||||||
奔放闊達に生きた青年皇子・大津が持統の謀略で死を賜わり、その死を追って裸足で屋敷を飛び出した妃を悲しく描いている。 やはり持統は悪者・・・。 |
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天智天皇の皇女として生まれた鵜野讃良皇女こと後の持統天皇は、13歳で大海人皇子(後の天武天皇、天智天皇の同母弟)に嫁した。 この時、大海人は27歳で既に額田王、大田皇女(持統の同母姉)、尼子娘と結婚していたので、少なくとも4番目以降の妻となる。 だが、この時代は何番目かというよりも、いかに身分の高い血縁を引き継いでいるかが重要視されたので、天皇の娘である持統は皇后となりうるポジションにいた。 さらに持統は幸運な女性だった。 持統より先に大海人に嫁し、大伯皇女と大津皇子の生母でもあり、持統の実姉でもある大田皇女が若くして亡くなったからである。 これにより、持統は誰に遠慮することもなく、壬申の乱の際には大海人を支え、大海人が天武天皇として即位した後は大勢の妻の中から迷うことなく皇后となることができたのだ。 この時、持統29歳、天武43歳。 しかし、女としての持統の幸せは、脆くも崩れてしまった。 一つは夫・天武の妻の多さ(女好き?)であろう。 当時、身分の高い、特に天皇となれば妻を何人娶ろうが自由であった。 それにしても、天武の結婚は凄まじい。 天智天皇の皇女だけで4人(持統、大田皇女の他に大江皇女と新田部皇女)、藤原鎌足の娘が2人(氷上娘と五百重娘)など、兄弟・臣下から推定10人の妻が確認できている。 当然、皇子・皇女の数も多い。 それが、持統の幸せを崩してしまったもう一つの理由、後継者争いである。 持統には、一粒種の草壁皇子がいた。 草壁はどうやら幼い頃から病弱で、何事においても秀でることのない凡庸な子どもだったようだ。 それに比べて亡くなった実姉・大田の皇子である大津は幼少より文才や運動能力に優れ、群臣の期待集まる大きな器を備えていた。 草壁は大津より1歳年長だったらしいが、年齢が近いこともあり、両名は幼い頃から自然と周囲から比較されるようになっていた。 2人を比較する有名な話がある。 草壁、大津の両皇子は同時期に石川郎女(いしかわのいらつめ)に恋をした。 そして当時の習いで両皇子が郎女に歌を送っている。 しかし、哀しいかな草壁は振られてしまい、郎女からの返歌は大津皇子にしか届かなかったのだ。(『懐風藻』大津皇子の伝) 草壁は大津によって恋愛まで阻まれ、口惜しい思いをしていただろう。 だが、それ以上に苛立っていた人物がいた! その人物こそ持統(この時は皇后)であったに違いない。 是が非でも我が子を天皇位に就けたい!このままでは大津に凌駕されてしまう! この母の強い愛情が血にまみれた悲劇を巻き起こすのである。 681年、母・持統の強力な後ろ盾により、草壁皇子は晴れて皇太子となる。 天武のお気に入りだった大津皇子も朝政に参加し、草壁皇太子をよく補佐していた。 しかし、持統の不安は消えなかった。 686年9月9日、かねてより病に臥していた天武天皇が崩御。 この後、持統は悲しみに暮れることもなく、迅速に計画を実行に移した。 翌10月2日、大津皇子の謀反が発覚! 大津は即、刑死となった。 持統は天武崩御後になすべきこととして、大津を陥れるシュミレーションを考え、実行の時を待っていた。 つまり、この謀反は持統による演出で、謀反をそそのかしたと云われる僧・行心も、謀反を密告したと云われる川島皇子も持統が書いた台本どおり、役割を演じたに過ぎない。 それは、謀反に加担したとされる人物達が厳罰を受けていないことからも推察できる。 それでも持統の悲願は成就しなかった。 大津皇子の変から3年後の689年、草壁は即位することなく28歳の若さでこの世を去ってしまったのだ。 一説には強すぎる母の愛情から、草壁は精神を病んでしまったとも云われている。 しかし、持統はここからがまた凄いのである。 気持ちは萎えることなく、今度は孫の珂瑠皇子を皇位に就けるべく動き出したのだ。 とはいえ、珂瑠皇子はまだ7歳・・・。 そこで持統は直系の血脈を守るため、ついに自ら天皇に即位した。 690年のことである。 かつての女帝達と違い、天武の右腕として政治の現場で力を蓄えていた持統は、天武の長子、高市皇子や藤原不比等(鎌足の子)を重用し、万全の政治体制を整えていった。 697年、珂瑠皇子が15歳となった年に持統は譲位し、文武天皇として即位させた。 持統自らは太上天皇となり、まだまだ政界に留まり、若い天皇を支えた。 702年幼い頃から激動の時代を生き抜いた持統天皇崩御、御歳58歳であった。 持統の人生は、信念を貫くために猛進したでけではなかっただろう。 謀殺した大津皇子の怨霊に悩まされ、他皇子の追随に焦燥し、気の休まらない生涯だったのではないだろうか。 至上最も強く、気高い女帝は、晩年若い妃に走り、持統の心を傷つけた天武天皇と共にに合葬された。 現在、奈良県明日香村にあるこの古墳は、残念ながら何度も盗掘され、遺品は残っていなかった。 |
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