種シリーズ小話:紅譚
▼ 小種31『月を仰ぐ』

 自分でも理解出来ない。
 感情らしい感情なんて大した意味もないと思っていた。
 欲しいものは何でも手に入れたし、面倒を感じない大抵のことは即実行してきた。そのお陰で自ら欲しいなんて思うことは無くなっていた。本当に詰まらない毎日で、直ぐに据え変えのきく人間のほうが時を満喫しているようにも見えて正直面白くなかった。

 今夜も見上げた月は二つ。

 青い月と白い月、それはとても近い距離にあった。どれほど記憶を遡っても、あれほど近い時期は無い。今が変だ。

 腕の中で大人しくしているマシロは、この異変を妙だとは感じないだろう。
 それでも彼女は最近こうして月を仰いで言葉にし難い表情をしている。それがたまらなく苦しくて腕の中に閉じ込めてしまう。他に何もしなければマシロは抵抗しないし、呆れたような溜息を吐くだけだ。

 だから取り合えず腕を伸ばした。

 人の体温を心地良いと思うようなことはこれまで無かった。
 というか体温を感じるような距離に他人を置くことがあるとは思わなかった。

 彼女はただの人間で、無力なはずだ。与えられたものでしか存在価値なんて無くて、結局はこの世界に馴染むことは決して無い。異質で異物。
 もしも自分が世界なら排除すべきものだと判断したかもしれない。

 きっと、マシロを消しても何も残らない。何も……残らない……。彼女と同じを形成する種は無い。

「ブラック?」

 自分と同じ色をした瞳が、なんとか身体を捻って見上げてくる。

 彼女の媚びない目が好きだ。
 彼女の怯えない恐れない、真っ直ぐな瞳が好きだ。
 彼女の掛けてくれる声が好きだ。

「いつまでそうしてるの? 離してよ」

 無駄だと思っているからか無理に離れようとはしない。冷たい言葉端に含む優しさが好きだ。

 好きだ……好き……好き
     ―― ……これが、好意?


「好き、です」

 口に出すと妙に得心する。
 それと同時に別れを痛感し、身の内全てがぎりぎりと痛み悲鳴を上げる。痛みしか生み出さない。こんな意味の分からない感情に適した言葉があるとは思わない。

 知りたくない。
 知らなければ、こんな思いはしなかったのに……。

「マシロ、好きです」

 いって抱き寄せる腕に力をこめれば、いつもなら、ふざけたことをと手を上げるマシロの瞳が動揺に揺れている。

 これまでと今の、どこに違いがあるのか分からない、
 ただ……痛みが伴うようになっただけ……。

 彼女を引き止める術はないのだろうか?
 紡ぎだす言葉に意味はないのだろうか?

 力で押さえつけ籠に押し込めてしまえばマシロにはどうすることも出来ない。自分にはそれが出来るはずだ。出来るはずなのに……それは、違う。

 今、自分が欲しがっているものは一体なんだ。

「―― ……帰らないで、下さい」

 生まれて初めて願いを口にする。
 動揺に揺れる彼女の瞳は涙に濡れている。このまま泣かせてしまうのかと、自分の望みが彼女を苦しめるのかと思うと、また身体が軋んだ。

 だから……

「貴方の幸せはそこにあるんですね?」

 そう思った。
 彼女が幸せなら泣かずに笑っていられる場所があるなら、それが良いのだろうと思うしかなかった。

 そう思わないと自分は彼女を傷つけ、何も残さない。
 奪い取り破壊し、何も残さない。
 それが種屋を引き継いだ性だ。

 だから何もいらない。

 必要ない。

 マシロが問いに答えない、ということは正解なのだろう。
 世界の幸福……美しいときなど願わない。酔狂としか思わない。でも、マシロだけは美しいときの中で居て欲しい。それを与えることは到底自分では無理だ。今、出来ることは気付いてしまった思いを消して、いつものように微笑んで

「―― ……さようなら」

 別れを告げること。

 自分が離れれば二度と重なることの無いレールだ。凄く簡単なことだ。だから、完璧に成したはずだ。それなのに、マシロは笑ってはくれなかった。



 刹那触れただけの唇が熱い。何も抱くことが無くなった腕が軽い……そのときやっと気がついた。
 この名も無い感情は恋という陳腐な括りで縛られるのだろう。
 そして、初恋だから実らないなどということは絵空事で叶わぬ願いなどないと思っていた種屋はその恋を失った。

 欲しいと思ったのは心…… ――
    それは到底手の届かないものだった。



 月を見上げる。
   浮かされる熱を冷ますように、ただ、じっと月を見る。
     初めて彼女がこの世界に落ちてきた夢見草の木の上で……。


←back  Next→ ▲top

ぱちぱち拍手♪