投稿(妄想)小説の部屋・別館

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火姫宴楽

 
【1】

 グラインダーズは困惑していた。
 そして焦燥感にも苛まれていた。そして、こんな事で何日間も悩まなければならない自 分にも腹を立てていた。
 そして彼女自身に向けられる好奇の視線にも苛立っていた。

 事のはじめは、南領で毎年開催されるトゥーリパン子爵夫人の仮装舞踏大会の『今年の お題』のクジをグラインダーズが引いてしまったことに起因する。
 
 暑く乾いた南領の気候に適した、開口部と柱が多く天井の高い南領の典型的な建造物を 目にしながらその門をくぐったのは、つい二週間前のことである。
 門から屋敷に通じる通路からは、この屋敷自慢の庭が見えるようになっている。
 原色の花々と緑が生い茂り、涼しい影を落とす庭園の至る所に水音が響いて通路に涼し い風を運んでくる。
 南領の気候はあまり植物には適さない。植物を育てるには水が必須条件だからだ。南領 の乾いた空気では、少量の水ではたちまちのうちに蒸散してしまう。しかも長く育てると なると東国あたりから良質の土を購入し、遠いところから多量の水を引いてきて庭園中に 水路を張り巡らせないとあっという間に枯れてしまう。しかしこの庭には南領特有の植物 が数多く生い茂り、のびのびと育っている。水の少ないところで育つ南領の植物たちはど こか乾いた貪欲さを感じさせるのだが、彼女の庭の植物はそう言ったことを感じさせな い。・・・穏やかな緑が多いのは裕福な証拠だ。
 炎王から預かった文書を携えてきたのが王女グラインダーズであることに、トゥーリパ ン子爵夫人は驚いたようだったが、すぐに屋敷の中の一番美しい貴賓室に彼女を通した。
「姫様自らお越し下さるとは・・・。でも嬉しゅうございますわ」
 西領から嫁いできた、穏やかな青い瞳と金の髪、白い肌の子爵夫人(と言っても彼女は 未亡人なのだが)は、えくぼが出来るふくよかな頬をほころばせてグラインダーズによく 冷えた後味がすっきりとする香草入りの清涼飲料水を差し出した。
「新しく売り出した香草茶ですの。まだ一部の地域でしか販売出来なかったんですが、今 日、ようやく他の地域でも販売しても良いというお許しを炎王様から頂きましたわ」
「?」
「グラインダーズ様が今日お持ちして下さった文書。あれが、許可証でしたの」
 この、にっこりと微笑む貴婦人が南領でも一、二位・・とまではいかなくても常時十指に は数えられる大商人であることは周知の事実だった。
 夫とただ一人の跡継ぎ息子を五年前に事故で亡くした彼女は、緑豊かな東国の絹と綿に 圧され、すっかり生産が絶えてしまった南領の植物から採れる繊維で作った布を再現した のを皮切りに、南領の気風を盛り込んだ製品を次々に発表し天界に送り出している。
 女性の身でありながら(こう言っては何だが、南領は天主塔や東国に比べて女性が活躍 する場が少ないとグラインダーズは思っている)子爵夫人といえども大した後ろ盾もなく 殆ど自分のアイディアだけで商品を作り出して売り出し、それを軌道に乗せ、短期間で大 商人と呼ばれる地位を築いたこの女性と、一度話をしてみたいと思っていたのだ。
 しかし実際の所、こうやって目の前でグラインダーズの問いや世間話に応える彼女は、 グラインダーズが気抜けするほど、どこにでもいる気のいい貴婦人だった。この女性のど こに、短期間で成り上がるほどの(言い方は非常に悪いが)才気が隠されているのかグラ インダーズは不思議だった。
 そうこうするうちに毎年招待される仮装舞踏会の話題となった。仮装舞踏大会は天界で はさほど珍しくないが、彼女が開催する仮装舞踏会は毎年『お題』が決められていて、招 待された客はその『お題』の趣旨に添った仮装をするのが習わしになっていた。そしてそ の奇抜な衣装や手の込んだ仕掛け入りの衣装など、招待客が頭を悩まして考えた、凝りに 凝った衣装が多数登場することが彼女の会を有名にした。
「昨年は『動物』でしたけれど、今年のお題は何ですの?」
 昨年彼女は弟と一緒に天界の華やかな鳥を模した揃いの衣装を着て舞踏会に出席し、 微笑ましく可愛らしいと賞賛をあびている。(ちなみに昨年一番の称賛を浴びたのは、古 代のは虫類型巨大肉食獣の全身かぶりもので現れた某貴族であった。)
 夫人はふふっと微笑むと上辺に丸く穴の空いた長方形の箱を持って来た。夫人の歩く振 動で箱の中からカサカサという軽いものがこすれ合う音がした。
「この箱の中には、いろんなお題を書いた紙が入っておりますの。・・・お恥ずかしい事な がら、私毎年この箱の中にあるクジを引いて決めておりましたの」
 あまりにも安易で失望なさいました? と夫人が笑う。
「そうですわ、ここでこのような話が出たのも何かのご縁。グラインダーズ様、今年のお 題は貴女が決めて下さいませ」
 グラインダーズは一瞬ためらった。何だか最初からこれが目的でここに来たのではない のかと自分を疑った。
 しかし彼女が微笑んで差し出してくる箱の穴から見える、たたまれた沢山の紙片に 好奇心が動いたのも事実だった。結局グラインダーズは好奇心に抗しきれず紙片の一つを 箱の中から取りだして彼女に渡した。
「まあ、素敵!」
 紙片を開いた夫人が顔を輝かせて微笑んだ。
「何でしたの?」
 夫人が手渡してくれた紙片に書かれた文字を見てグラインダーズは心中で呻いた。表情 を変えずにいられたのが自分でも不思議だった。
 紙片にはこう書かれていたのだ。
 『恋人』と。

 それ以来グラインダーズは悶々と悩むハメになっている。
(まさかこんな事になるとは思わなかったわ・・・)
 それでも、城にいる間は、まだいいのだ。小さな弟は今年は姉と一緒に出られないこと に頬を膨らましているし、父王は何も言わないし、グラインダーズ専属のデザイナー達は デザイン画を描こうにも相手方がいないとイメージがまとまらないから早く選んで欲し いとせっついてくるが、それにはまだ耐えられる。
 耐えられないのは、文殊塾でのグラインダーズに寄せられる視線のほうだ。
 女子は好奇と探りの視線を向けてくる。中には直接的に誰が候補に挙がっているのかと 聞こうとした者もいたが、グラインダーズの無言の一睨みで冷や汗をかきながら下がって いった。
 男子は声をかけようともせずに視線を向けてくる。女子と同じような、好奇と探りと・・・ そして一縷の期待を持って。南領の王女であるグラインダーズに相手方として選ばれると いうことは、飛躍的に考えれば彼女の未来の夫候補として選ばれるということも大いに考 えられるからだ。
(・・・この歳になれば、もう、そういったことも考えておかなければいけないということ は分かっていたけれど・・・)
 文殊塾を卒業してすぐ嫁いでゆく女子達も少なくない。
 嫁ぎ、子を成し、家を守り、盛り立てていくことこそが大事なこと―――と教えは受け ているが、はいそうですか、その通りでございますなどとグラインダーズは言いたくない。 王家に生まれたからには、いや、生まれたからこそ、いずれそういう運命を辿らなくては ならない。そして、全ての女子の範となる存在になる事を望まれているということは痛い ほど分かっている。
(でも、私はイヤ)
 文殊塾で勉強していることも、大好きな鍛錬の稽古も、何もかもが無駄になってしまう。 幼いながらも築き上げたものが全て無意味になってしまう。そんな気がして。
(・・・あああ、でも今はそんなことより当面の問題のほうが深刻だわ)
 グラインダーズとて、黙ってこの二週間耐えていたわけではない。
 根が真面目なグラインダーズは、自分で何とか出来る(大人には相談したくなかったし、 文殊塾の同級生は論外だった)あらゆる範囲内で記憶と思考と情報を総動員して悩んでい たのだ。
(・・・やっぱり、彼に頼むしかないわ)
 この二週間悩みに悩み、考えに考えた末の結論だった。
 グラインダーズは席を立つと、まっすぐ彼の所へ歩いていった。その彼といえば、自分 の席に座っていて、その周りには彼のとりまき連中がいたのだが、背筋を伸ばし胸を張っ て進んでくるグラインダーズに気押されて道を開いた。
 グラインダーズは彼の前に立った。そして一気に言い放った。
「柢王どの、トゥーリパン夫人の仮装舞踏会でぜひともあなたをエスコートさせていただ きたいの」
 柢王は目の前で仁王立ちに立っているグラインダーズを二秒間ほどまじまじと見た。 そしてにっと笑って言った。
「いいですよ」
 ・・・教室内に静かにどよめきが広がってゆき、それはたちまち天界中に知れ渡ることと なった。
 
 

【2】

「どーして! よりによって姉上の相手役がお前なんだよっ!!」
 花街のはずれの丘の上で屋台で買ってきた串に刺した揚げ菓子をかじりかけた柢王は、 いきなり空から降ってきた年下の友人二人に目を丸くした。傾斜した丘の上に降り立った 途端バランスを崩して転げ落ちそうになった金髪の少年を赤毛の少年があわてて支えよ うとしてバランスを崩し、二人もろともに丘を転げ落ちかけるのを、柢王は揚げ菓子をく わえたままそれぞれの襟首を掴んでそれを防ぎ、こちらを向かせた途端、赤毛の少年が発 した言葉がそれだった。
「・・・って、わざわざそれを俺に言うために東国くんだりまで押しかけて来たってか?  お前らは。しかもアシュレイはまだしも、ティア、お前まで。どうやって護衛をまいたん だよ?」
「いや、私はアシュレイが心配で付いてきたって言うか(無理矢理一緒に連れてこられた というべきか)。・・・ちょっと好奇心もあったしね。それちゃんと聞きたいこともあった し。あれから二日経つけど天主塔じゃまだまだ君たちのことで持ちきりだよ。」
 卓越した頭脳とたぐいまれな美貌の持ち主の天主塔の幼い主人は(あまり活動には向か ない長衣と長い金髪も手伝って美少女にしか見えないが)およそ年下とも思えない物言い で柢王に笑いかけた。その隣では目をむくほど鮮やかな赤毛とそれに勝る紅玉の瞳を爛々 と光らせた南の太子が敵意もあらわに怒鳴る。
「姉上も姉上だっ! 何でお前にエスコートなんかさせるんだよ!」
 食いつくように怒鳴るアシュレイにデコピンの一撃を食らわせ、ひるんだところに柢王 があきれたように、半ば諭すように言った。
「ばか。逆だ。逆」
「・・・ああ?」
「おまえ、話を聞いてなかったのか? グラインダーズ殿は俺に『エスコートしていただき たい』じゃなく、『エスコートさせていただきたい』って言ったんだぞ。つまりグライン ダーズ殿が俺をエスコ−トするって事になってんだぜ」
「姉上が・・ ・・あれ? えーと、それじゃあ・・」
「そう。つまり俺が『女役』ってわけだ」
 ・・・沈黙が落ちた。
 ティアが納得したように頷くその隣でアシュレイはしばらく放心したようにさっきの 言葉を反芻していたようだったが、やがてまじまじと年上の友人の顔と見て、いきなり爆 発したように吹き出した。
「お前が女役〜〜っ?! じゃあお前が女のカッコするってかぁ?」
 見たくねーっ! とゲラゲラ笑い転げる。
「じゃあ、やっぱり言い間違えじゃないんだね? 他人から聞いた時にあれ? と思っていた んだけれど。」
「言い間違えるような人じゃないだろ。昔っから女心は複雑でナゾなもんだと相場が決ま っているって親父が言ってたし、あっさり男役女役よりその逆にしたほうが面白いだろう ってあの人なりに考えたんじゃねえの?」
 そういうものなの? とティアは不思議そうに首をかしげた。幼い天主塔の主人を取り巻 く美しく優しい使い女達と、彼を王子様♪ と信奉する幼い年少組の女児達しかまだ知らな い(そう、まだこの時点では・・・)彼には、そういう女心の複雑さと言われてもあまりピ ンと来ないらしい。
 その隣でゲラゲラ笑い転げていたアシュレイは、はたと笑いを止めて怒鳴った。
「そんでも姉上がお前を選んだことには変わりねーじゃねーかっ!」
「・・・男心も複雑だ・・・・・」
「美人の姉を持った弟の苦悩ってトコかな? 私には親も兄弟もいないからよく分からな いけど。でも柢王。私には二秒でそんな条件を承諾しちゃう君のほうがナゾだよ。」
「だいたいだな! ・・・う〜・・ ちくしょう、腹に力がはいらねえ・・」
 怒鳴りかけたアシュレイが腹を押さえて力なく呻いて腰を落とした。
「私も・・・」
 その隣にティアがへなへなとしゃがみ込む。
「・・・なんだ腹減ってんのか? おまえら」
 天主塔から二人で隠遁の術で抜け出して空を飛び続けてきた彼らは体力を消耗してい たのだ。
 夜の喧噪にはまだ早い花街から、少し離れた場所にある食べ物や小物を売る屋台の建ち 並ぶ通りまで柢王は彼らを連れて行くと、好奇心丸出しで物珍しそうに屋台を見回してい る二人に揚げ菓子と飲み物を買って差し出した。
「食いもんなんかで俺を恐竜しようってのか!」
「・・・それをいうなら懐柔(怪獣)だろうが。(しかも思いっきり間違っているし・・・)」
 未だ柢王にビミョーにハズした敵愾心を燃やして怒鳴っていたアシュレイだったが、屋 台で買った揚げ菓子を食べ終わる頃にはすっかり機嫌が直っていた。
「柢王、あれも美味そうだ。食べたい!」
 金網の上でじゅうじゅう音を立てて焼かれている串焼き肉を指してアシュレイが柢王 を見上げる。その瞬間頭に巻いた布がずり落ちそうになり、隣にいたティアがあわててそ れを押さえつける。冠帽とその赤毛は大いに目立つからと変装の意味を込めて柢王がそう したのだが、巻き方が甘かったらしい。あちこち布を引っ張ってそれをなおしているティ アは前髪を全部おろして額の御印を隠している。
「あー、あれか? それならここより向こうの店のほうが美味い。タレに南領産のチャツネ が使ってあるからお前の口にも合うだろうし」
 アシュレイがニコーッと笑って柢王の袖口を引っ張った。
 ・・・数十分後。
「あ! テヘオオ あへはナグなんハ?」
「ああ、あれは西で採れる魚のすり身に色々混ぜて固めたやつを揚げたモンだ。中に醍醐 が入ってるやつとか木耳が入ってるやつとかが美味い。・・・分かった分かった。買ってや るからまず今頬張っているモンを食っちまえ」
 幸せという文字を顔いっぱいに貼り付けて屋台の食べ物を育ち盛りの凄まじい食欲で 制覇しているアシュレイの隣で、早々に満腹になったティアは、食べ物よりも店頭に並ぶ 小物に目を奪われている。
 鈴蘭や沈丁花や水仙などのスタンダードな香玉から、ティアが知らないような香りの香 玉などが並ぶ台を嬉しそうに覗き込むティアの横にひょいと柢王が並んだ。
「花街の御職の太夫が調合した香玉とかもここに卸してあるんだ。そこにある香袋の模様 のデザインとかは芸妓達が手がけてるらしいぞ。おいティア、何か欲しいモンがあったら 遠慮なく言えよ」
 柢王に背中をどやされて、ティアはさっきから気になっていた淡い浅黄色のグラデーシ ョンの上に錆色で鉄線唐草模様が施された香袋と香玉を二つ指さした。店の店主に「お嬢 ちゃん小さいのにお目が高い!」と褒められて小さな香玉をおまけにもらい、ティアは複 雑そうに笑いながらもきちんと礼を言った。
 気前よく食べ物や小物をおごってくれる柢王に、香玉と香袋を大事そうに袖口にしまい ながらもティアがおずおずと尋ねる。
「こんなに買ってもらってしまっていいの?」
「臨時収入があったから気にすんな」
 柢王は笑って手を振った。

「・・・姉上は俺にはなーんも言ってくれないんだ。乳母達が姉上付きの使い女達にこっそ り尋ねてくれたんだけど、黙り込んで私たちにも何にも言ってくれないって。デザイナー 達にはもう少し待ってと言い続けてたらしいし。・・・でもおまえを選んだことで城じゅう 結構大騒ぎだぜ。東国の職人とかもショーヘー(招聘)されてるみたいだし」
「・・・東の? どんな?」
「・・・わかんねー。わかったのは東の職人って事だけ」
 すっかり満足した二人と元の丘への道を辿りながら、アシュレイの言葉に柢王が眉をひ そめる。
「綿織物の職人じゃないことだけは確かじゃないかな。昨日と今日天主塔に来てたし。え ーと。あと染色のほうも違うと思う」
「・・・職人たって山にように種類があるしなあ・・」
「・・・えっとね。関係あるかどうか分からないけれどグラインダーズ殿が昨日天主塔の蔵 書室に来てらしたよ。何も借りて行かれなかったけれどね」
「・・・・・・」
 ・・・笑って手を振りながら夕暮れの空を飛んで帰ってゆく彼らに手を振り返し、彼らの 姿が見えなくなったところで手を下げた柢王は、やれやれとため息をついた。
(情報が少なすぎる・・・)
「・・・結局、俺はどんな仮装をさせられるんだ?」
(おまけにこうなった経緯の前後関係もよくわかんねーし。・・・だいいちトゥーリパン夫 人って誰だよ? 南領の行事なんぞ、いくら東の王族つったって一介の文殊塾生なんかが知 ってる訳ねーし。・・・親父に聞くのは何かヤだしなー。)
「・・・ん? まてよ・トゥーリパン夫人? ・・・親父がなんか言ってた気がするぞ。・・・たしか」
 柢王はすっかり暮れた空から視線を戻し、小高い丘の上から地上を見おろした。
 さっきまでいた屋台の明かりがぽつぽつと灯る通りから少し離れた場所―――。
 まるでそこから光と歓喜が生まれ出たかのように、暗闇の中で光り輝く場所―――。
「・・・たしか 花街の話題の時に―――言っていたような。」
 光を見つめる柢王の髪を一陣の夜風が乱していった。
 
 

【3】

 いつだったか、幼い彼を膝に乗せて酔った父親が笑いながら言った。幼い彼は、ただひ たすら父親の言葉に聞き入っていた記憶がある。
『知識も必要、武運も必要。そして財力も。・・・だがな、何よりも情報を集めることの出 来る奴が最後に勝つ』
 情報収集するなら、人の集まるところに限る。
『人がいないのなら、集めるまでよ。儂はそうやってあの街を作ったのさ』

「ウソだ。絶対自分の趣味を最優先してるだろう。親父・・・」
 花街の喧噪の中に居心地悪くたたずんで柢王はごちた。
 この時間帯の花街に足を踏み入れるのは、実ははじめてだった。アシュレイとは違い、 少なくとも表面的には優等生を装っている柢王が、父王や上の兄達に比肩して花街や天界 で浮き名を流しまくるのは、もう少し先の話である。
「・・・すげー人の数・・・」
 光と脂粉と音楽と嬌声に溢れるこの不夜城に、一体どれだけの人が集まっているのだろ う。
 石畳の道にあふれかえる人の多さに圧倒されて、川沿いの道はずれの柳の木によりかか って道行く人の波をながめながら、たしかにこれだけの人が集まっているのならば、自分 の知りたいことを聞き出すことが出来そうだ、と柢王は思った。
 酔っぱらいのたわ言を信じてここに来ている自分に多少の腹立ちも感じていたが、あの ときの言葉がまさか今頃になって役に立とうとは思いもしなかった。しかし他に術はない のだ。知人や顔見知りに聞いて回ってわけを詮索されるのが嫌ならば、自分の足と才覚で 情報を得るしかないということだ。
(・・・情報情報情報、か。親父よ、あんたは確かに正しい。伊達に年をくっているわけじ ゃねえんだな)
 情報収集の容易そうな、花街の情報に詳しい人のいる場所となるとだいたい場所は限ら れてくる。柢王はぽりぽりと後ろ頭をかいて周囲を見回した。
「・・・やっぱ、酒舗、だろうな」
『情報ってのはタダではないぞ。それに見合う額かそれ以上の見返りが必要だからな』
「・・・って。どのくらい要るんだよ、クソ親父。どうせなら酔っぱらいついでにそれも教 えとけっつの」
 思い出した父親の言葉に毒づきながら、柳の木から身を離す。
 幸い、懐はまだまだ暖かかった。
 彼の父がトトカルチョで勝った金の半分を巻き上げてきていたからだ。
「息子に賭けるか? フツー。」
 親バカなのか、単に総合的に考えた末に自分の息子に賭けたのかは謎だが、上の兄二人 は西の金髪の美しい男子や北の体格のいい若い貴族に賭けて父親に賭け金を巻き上げら れたらしいので、ザマーミロと柢王は大いに溜飲を下げていた。

 水面に映る火影が眩しいほどたくさんのかがり火を舳先や船縁に掲げた、さまざまな形 の屋形船をこぎ出しての川遊びの喧噪を背にして歩き出しかけ、柢王は突然足を止めた。
「・・・っ!」
 首元に何かが押しつけられていた。
 刃物の類ではない。細い葉をつけたしなやかな柳の枝だった。しかし完全に虚をつかれ た柢王の背に冷や汗を流させるには充分な代物だった。
 長いしなやかな枝は柢王がさっきまでいた柳の木の反対側から突き出されていた。喧噪 に気をとられていた隙にいつの間にか近寄られていたらしい。
「・・・あんたみたいな年頃の男の子が、この時間帯にここらをうろうろするのは感心しな いねえ」
 とろっとした、しかしねばりくような甘さは感じられない女の声だった。
「ここらは掏摸(スリ)も多い。ボーっとしていたら危ないよ」
 柢王ののど元に柳の枝先をつきつけたまま、木の向こう側から姿を現した女は、ほぼ同 じ高さにある柢王の目を見て、にこっと笑った。
「特に、ここに初めて足を踏み入れるおのぼりさん達はね」
 化粧気のないほとんど素顔のその笑みは、声と同じく、柔らかでひとなつっこいものだ ったがそこに媚びはなかった。
 この時間帯に街路を歩く女は、店に属しない街娼の類か、あやしげな物を売って歩く路 商の類がほとんどだが、彼女はそのどれにも当てはまらないように見えた。
 長い黒髪を高い位置で一つに括り上げ、体型のわかりにくい淡青色の簡素な襴衫をまと ってしなやかに立つその姿は、化粧気もないことも手伝って彼女こそ男装して花街を見物 に来たどこかの勇気ある貴族の娘ではないかと思わせるものがあった。
「・・・・・」
 しかし柢王は自分を見る彼女のまなざしに見覚えがあった。
 というより、どちらかといえばなじみ深いものだった。
 隙をつかれた悔しさもあって、お返しとばかりにこちらもいたずらっぽい笑みを浮かべ て言った。
「花街の水に馴染んだ姫君ってのは、客引きついでにお遊びで補導もするのか?」
 ・・・父王の後宮でよく目にするまなざしによく似ていたのだ。
 父王の前では強烈な秋波をはなつそのまなざしも、未だ幼く思われている柢王の前であ れば、また別の、いや、本来のまなざしになる。
 競争の激しい父王の後宮は、一度や二度の修羅場を当然のごとく くぐり抜けて勝ち残 った、頭のいい美しい女性がほとんどを占めている。(もちろん父王への愛情ひとすじで 修羅場を歯牙にもかけない者もいるが・・・)
 己を外面も内面からも美しく保とうと余念のない彼女たちのまなざしは、勝ち残った誇 りと、これからも闘い続けることに対する緊張感に、個性や性格によってさまざまだが、 どこか張りつめたような挑戦的なまなざしを持つものが多い。
「・・・いやな言い方をする。子供くせに」
 街娼呼ばわりされて気分を害したように形の良い片眉をつり上げる。
「初めてってのは当たってるけど、こっちは別に物見遊山で来てるわけじゃないんだ。 ・・・侮辱したのは悪いと思ってるさ」
「・・・どちらにしろ、ここはあまりあんたのような年頃の子が歩いていいところじゃない よ。気が済んだら早くお帰り」
柢王の首から柳の枝を離し、肩越しに川に投げ込んだ。
「そういう姐さんは? もうとっくに店に出てなきゃいけない時間じゃないのかい?」
 ものおじしない柢王の物言いにあきれたように肩をすくめ、苦笑に似た笑みを彼女はこ ぼした。
「あたしは今日は非番なのさ。」
 笑って下腹部を意味ありげにポンと叩くその仕草で、非番の理由を知った柢王だった。
「せっかくのお休みだから、買い物と食事ついでに川風にあたってゆっくり散策してたら、 あんたがそこにいたってわけ」
 別に見つけて欲しくてそこに立っていたわけではないと言おうとして、ふと柢王は思い ついて彼女を見た。
「姐さんは、花街にはくわしいほう?」
 唐突に尋ねられて、きょとんとする彼女に柢王はさらに言葉を継いだ。
「早く帰れっていうんなら帰るさ。姐さんが俺の知りたいことを知ってて教えてくれたな ら今すぐにでも。」
 柢王の言わんとしていることが飲み込めた彼女があごに手をやり、考え込むような仕草 をした。
「そりゃ、人並み以上のことは知っているつもりだけど・・・。あんたが知りたいって事は、 どうしても花街(ここ)でなきゃ聞けないことなの?」
「花街に関する事なら花街の人に聞いた方が詳しそうだから」
 ふうんと頷いた彼女は、柢王に視線を戻した。
「・・・あんたにとっては重要なこと?」
「命には関わらないけど、それなりには」
「・・・顔を見ればわかるよ。あんた結構頑固な性質(タチ)だね。自分の知りたいことを 聞き出さないことには、絶対家に帰らないつもりなんだろう?」
 柢王は笑っただけだった。
 やれやれとため息一つつくと、それで吹っ切れたように彼女も笑った。
「いいともさ。何が知りたい?」
 柢王が言い出す前に、優雅な仕草だが有無を言わさない勢いで柢王の眼前に指先を突き 出して牽制する。
「ただし、ここは花街。ここに足を踏み入れたからには花街のルールに従ってもらうこと になるよ。」
 川遊びの火影の光を反射して、笑ったままの彼女の目が、一瞬、凄味をおびて光ったよ うにみえた。
「花街に籍を置く者に対する個人的な拘束には、金銭をもって購われる。しかも時間が経 てばたつほど金額が上乗せされるって事をおぼえておおき。 ・・・覚悟はいいかい? ボーヤ♪」
 
 

【4】

 ・・・トゥーリパンの名が天界で聞かれるようになったのは、ほんの最近のことである。
 西領の小貴族の姫君だった彼女は、文殊塾を卒業して、すぐ南領の小貴族に嫁いだ。政 略結婚であったが、それなりに体裁の良い相手で、その間に彼女は男児を出産し、夫の庇 護のもと、南領の地で何の不満もなく過ごしていた。
 その平穏が崩れたのが五年前。貴族遊びの狩りを楽しんでいた彼女の夫と息子は、獲物 を深追いして狩り場の奥深くまで入り込み、そこで魔族に襲われた。
 ・・・彼女は、夫と息子の両方を一日にして失ったのだ。そしてその地位も。
 南の血を引かない彼女に残された道は、西領の実家に帰るか、夫の親類と再婚するか、 あるいは養子をとって子爵家を存続させるかだった。
 夫人はどちらも選ばなかった。
 この国にとどまり商いをすることを炎王に願い出たのだ。
 もちろん世間はそれを一笑に付した。領地からほとんど出ず、夫にぬくぬくと守られた 生活を営んでいた彼女に何ほどのものができるのかと、誰もがそう思った。
 商業手続き云々は保留されたまま、とりあえずのところ南領にとどまることを許された 彼女は、子爵家を出、領地の一軒家を借りてそこで商いを始めた。
 彼女があつかったものは、緑豊かな東国の絹と綿に圧され、すっかり生産が絶えてしま った南領の植物から採れる繊維で作った布を再現し、それを現代風にアレンジした製品だ った。領地で細々と昔ながらの方法で繊維をとって糸をつくりそれを染めて織り機で布を 織り続ける老婆達を尋ねて回り、その布を買い取って仕立てたものである。
 一反分の布を織るのに費やされる労力と時間はかなりなもので、もちろん量産は出来な い。必然的に一着分の値段は目をむくほど高価になった。
 もちろん商品が売れるはずもなかった。
 それ見たことかと商人たちはあざ笑い、誰もが夫人が泣いて西領に帰るものと思った。
 しかし、それから夫人のとった行為は周囲の想像をあっさり裏切った。
 なんと夫人は知り合いのつてをたどって東国の花街に足繁く通うようになった。それこ そ一流の店の妓女から道ばたに立つ街娼まで見て回ったのだ。
 その中から夫人が白羽の矢を立てたのは、南領出身の舞姫、コーヴィラーラだった。
 花街の大通りからわずかに外れたところにある翠辿楼は格式はさほど高くはない。コー ヴィラーラは、若々しい肢体に表情豊かに動くまなざしと南領特有の浅黒い肌を持つ舞姫 だった。美しく、技量も申し分ないにもかかわらず、彼女の舞には何か欠けたところがあ って、彼女はいつも翠辿楼において二番手三番手人気に甘んじていた。
 夫人は人を通じて見ることの出来た舞台でなめらかな絹地の衣装で今流行の東国の踊 りを披露する彼女を見て決めたのだった。
それからが大変だった。格式が低いとは言え、花街に門を構えるれっきとした店の舞姫 である。一定の手順を踏まねば、話をするどころか、会うことすら許されないのである。
 ・・・まず顔合わせのみで一言も話すことの出来ない「初回」。一言二言話し、食事や敵 娼(あいかた)が舞や歌を披露する「裏」。そして三度目の顔合わせである「馴染み」で ようやく二人きりになることが許されるのだ。
 格式を誇った昔ほどではないにしろ、そこには厳然と客に対して儀礼を求める花街の気 概があった。
 夫人は翠辿楼で彼女を指名し、莫大な金と人脈を通じて「初回」と「裏」をじりじりと した思いでこなし、その三日後の慶日に、大枚はたいて文字通り彼女と「寝所を共にした」 のだった。
「正規の手続きを踏んだのだから、誰に非難されるいわれもありません」というのが夫人 の言だった。
 無駄に広く豪華な寝室で行われたのは、男女間で行われるような行為ではもちろんなく、 コーヴィラーラに科せられたのは、夫人が部屋に持ち込んだありったけの衣装をとっかえ ひっかえ着ることだった。
「・・・殿方を相手にするほうがよっぽど楽だったわ」
 夜明けまでほとんど休みなく着替え続けたコーヴィラーラは、よろめきながら部屋を出 てくるなりそう言った。その後ろで、持ち込んだ衣類に埋もれてトゥーリパン夫人がクマ の浮かび上がる疲れ果てた顔に、満足そうな笑みを浮かべて眠っていたという。

 その後、晴れて彼女を敵娼(あいかた)にした夫人は時をおかずに通い詰め、熱心に彼 女を説得し続けた。夫人の説得の内容は、自分が作成した衣装をまとい、南領の古式舞を 舞台で披露してはどうかというものだった。
 最初コーヴィラーラは、困惑し、難色を示した。蝶のように軽々と舞う東国の舞がもて はやされるこの花街で、なぜ重々しい古式舞を舞わねばならないのか、と。
 南領の裕福な旧家に生まれ育った彼女は、貴族ではないので文殊塾にこそ行かなかった が、それなりの教育を身につけていた。その『教育』の中には所作やたしなみの一環とし て古式舞も含まれていた。
 不自由なく育てられ、おとなしい娘と思われていた彼女が年頃になり縁談が持ち込まれ るようになった時、彼女はいきなり身の回りのものを持って家を飛び出した。
 決して餓える心配のない天界では、季候のいい森で過ごせば最低限の生活はしてゆける。 しかし彼女が向かったのは、東国の花街だった。
 飢えが怖いのではない。だけどこのままでは何だか自分が空っぽになってしまいそうで 怖かったのだ―――と後に彼女は夫人に話した。
 飢えを満たしたければ森へ行けばいい。しかし心の飢えとなると話は全く違ってくる。 自分はどれほどのものなのか、どれだけのことが出来るのか―――それを試してみたいと 思う者は少なくはないだろう。プライドの高い、頭のいい女ならなおさらだ。
 花街は、女達の運試しの場所でもあった。
 己の才覚一つで、名をあげることが出来る場所―――
 それは奈落と隣り合わせでもあったが、それを覚悟で女達は花街に向かう。
 花街は、男達の欲望を満たす場所であると同時に、女達の強烈な自我の牙城でもあった。
 だからこそ、と夫人はコーヴィラーラを見据えて強く言った。
 名をあげたいのなら、他人と同じ事をしていてはだめなのだ、と。
 どこか土のにおいと荒々しさを感じさせる南領の布は、夫人の審美眼を裏づけるかのよ うに コーヴィラーラの浅黒い肌と、きつめの面差しによく似合った。
「あなたの舞にどこか違和感があるのは、東国の舞に貴女の体が馴染んでいないから。 それはきっと貴女が学んだ古式舞が貴女の基盤になっているせいだと思うの。だったらそ れを活かさない手はないでしょう? ・・・貴女は南領の女。南領の歴史の中で培われ創られた古式舞と南領の風土の結晶である この布は、きっと貴女を活かすわ―――」

 ・・・結局のところ、コーヴィラーラは夫人の熱意に負けた。
 彼女は夫人の作成した衣装を付けて舞台に出ることを承諾し、夫人は翠辿楼の主人を同 時進行で説き伏せて、彼女に南領の舞を披露することを承諾させた。
 ・・・数日後、小さな火の灯る照明を数カ所に置いただけの、暗闇のような舞台の中央に ゆっくりと裸足で現れた舞姫に観客はどよめいた。
 目尻を中心にきつめの隈取りを施した化粧はともかくとして、高い位置で結い上げられ た髪には何の飾りもない。装身具と言えば大ぶりの耳環と細い金環を幾重にも重ねた右足 首のアンクレットのみ。
そして衣装と言えば、肩をむき出しにした、胸から足首までを大きな一枚布を巻き付け て帯を締めただけのものと最初勘違いした観客もいたくらい簡素なものだった。玄人が見 れば、舞姫の体に合わせて裁断縫製され、衣装の襞の一つ一つが丹念につくられたものだ と一瞬で看破したかもしれないが、観客がそれに思い当たったのは、舞姫が高々と両腕を 上げ、ゆっくりと身を翻して舞い始めてからだった。
 ・・・空間を振るわす大太鼓とその間を流れるような笛の旋律だけが伴奏の、ゆっくりと した しかし力強い舞だった。
 古式舞とは、古来 神に捧げるための舞だった。もちろん舞台で披露するにあたって、 舞の所作の緩急や伴奏にアレンジをくわえているものの、古式舞そのものの重厚さはその ままに残してある。
 炎の揺らめきを受けて暗がりに浮かび上がる舞姫の両腕が上がればそれは天を支える 夜の女神の両腕となり、舞台を踏む裸足のその足は冬の大地を踏みならして春を呼び覚ま す緑の女神の足となった。
 ―――この日。舞台を踏んだコーヴィラーラに捧げられた賞賛の言葉と万雷の拍手は、 今もって翠辿楼の語りぐさとなっている。
 彼女の不思議な衣装と舞はたちまちのうちに評判になった。
さまざまな楽器による けたたましいまでの伴奏にのって、きらびやかな衣装で蝶のよ うに軽々と舞う舞を見慣れた人々にとって、それは新鮮な衝撃だった。
 人々は彼女の舞の中に神秘的な高揚感と根元的な懐かしさを感じ取った。
 そうして、短期間のうちにコーヴィラーラは翠辿楼の一番人気の舞姫として名をはせる こととなった。
「見せ方が悪かったのね」
 喜んで報告してきたコーヴィラーラに微笑みながら、トゥーリパン夫人がぽつりと言っ た。それがコーヴィラーラの舞に対してのものなのか、自分の商品に対してのものなのか は分からない。おそらくどっちもなのだろう。
 トゥーリパン夫人も忙しくなった。花街の他の舞姫達や、コーヴィラーラの衣装を目に した花街の上客である貴族達の土産話を聞いた、目新しいものと他人より目立つことを信 条とする夫人達が、こぞって注文を申し込んできたのだ。・・・半月後には社交界で南領の 古典衣装を纏うことが爆発的に流行した。
「・・・売り込みかたもね」
 全く売れなかった時期、夫人は商品を前に考えた。服一着の値が高いというのならば、 それを購うことの出来る貴族達をターゲットにすればいい。しかしただ売り込むだけでは 意味がない。物珍しさやかっこよさなどの付加価値がなければ人々はついてこない。
(―――ないのなら、こちらで作ればいいじゃない)
 ・・・そうして夫人はコーヴィラーラを広告塔がわりに、人為的に流行を創り出したのだ。
 
 花街と社交界でブレイクした夫人の創る衣装は、逆輸入的に南領でも流行した。
 そしてその結果と利益を炎王に提示し、夫人はようやく許可を得たのであった。
 ・・・商人トゥーリパン夫人の誕生であった。
 
 

【5】

「・・・その後も彼女は布だけじゃなく、南領の特産物や気風を盛り込んだ新しい製品を 次々と天界じゅうに送り出し続け、3年前に南領の知名度を上げたその功績を認められて、 彼女に子爵の位が贈られたの。・・・どう? これがあんたの欲しかった情報かい?」
 情報提供料(+出張料+α)として購われた、この酒舗で一番高価な、千の花の蜜を集 めて醸された酒をくーっとあおって女は笑い、酒杯の縁で突っ伏す柢王の頭を軽く小突く。 柢王はそれに低く呻って返した。
「・・・どうもそうじゃなさそうだねぇ。でも、あんたはトゥーリパン夫人について知って ることを教えてくれって言っただけだからね。これがあたしの知ってるトゥーリパン夫人 のお話さ。ま、もっとも花街の妓(こ)達なら誰でも知っている話だけどね」
 にぎわう酒舗の片隅で気むずかしい顔で卓子に突っ伏してしまった柢王を、酒杯を片手 に向かい側から覗き込みながら女はころころと笑った。
(トゥーリパン夫人ってのが、すげー人だってのは分かった! でもそんだけだ! 夫人の成 功譚聞いたところで、今俺が置かれてる状況に関係する事なんかひとっつもねーじゃねー か! ますますわけがわかんねーぞ! おい!)
 ・・・柢王は聞き方を間違えたのだ。
 いや、そもそも最初っから自分の聞きたかったことがハッキリしていなかったのだ。自 分が放り込まれたこの状況に関する何か手がかりがつかめれば、などという漠然とした思 いで、ろくに考えもせずに尋ねたこと自体が間違いだったのだ。
(・・・情けね―――っ! まるっきりバカじゃねーか 俺!)
 突っ伏したまま、柢王は自分の浅はかさに赤面した。
「・・・どうする? 他に何か聞きたいことがあったら、このお酒のおかわりと、松花茶食(松 の花粉に蜂蜜をくわえて木型で抜いた菓子)で手を打つけど?」
「・・・・・」
 女が笑って言うのに、柢王は起き直って給仕を呼び止め、酒と菓子、そして菓子の持ち 帰りも注文して代金を払ってから立ち上がった。
「時間を取って悪かった。ゆっくりしていってくれ」

 店を出ようとしたところで柢王は呆然と外を見た。
 外は土砂降りの雨だった。店の光に照らされた範囲は銀色にしぶいて何も見えない。
「・・・・・」
 泣きっ面に蜂とは(別に泣いてはないが)こういう事を言うんだろうな、と柢王は思い、 ため息一つ付いて柢王は走り出した。いくらも走らないうちに全身ずぶぬれになる。東国 の雨は温かいので凍えることはないが、叩き付けるような夜半の雨は一向に降り止む気配 はなく柢王を辟易させた。
 土砂降りの雨の中を行く気になれない客達は早々に店の中に避難し、囲いがしっかりし た灯籠以外は、雨の勢いで火が絶え、川遊びの船も早々に引き上げた川縁の道は暗く夜に 沈み、大門に通じる道を走っているのは柢王ただ一人だった。
「・・・待って!」
 大門に辿り着く前に、横道から飛び出してきた女に呼び止められて柢王は足を止めた。
 傘の柄を掴んで息を切らしているのは、さっきの女だった。足の速い柢王に追いつけたの は、裏道を知り尽くした花街の女ならではだろう。
「何を考えているの! 傘もささずにこんな雨の中に飛び出していくなんて! 傘は店で借 りることが出来るのよ!」
 見れば、女のもう片方の手にも傘が握られていた。
 柢王は笑って礼を言ったが受け取らなかった。既にずぶぬれなのに今さら傘をさすのは 滑稽を通り越して何だか間抜けな気がする。
 それに走っていた時は分からなかったが、土砂降りの雨にうたれるというのは意外に 気持ちがいい。このままゆっくり歩いて帰るのも悪くないな、と柢王は顔を上げて雨を 受け、笑った。
 そんな柢王を女は驚き半分呆れ半分で見やり、手に持つもう一つの傘を見てため息をつ き、そして小さく吹き出しながら言った。状況が許されるのなら、自分も傘を放り出して 雨の中に飛び出せたらいいのにと言うような、少し困った笑顔で。
「・・・仕方ないね。泊めたげる。泊めるだけ、だけどね」
 
 
 頭から湯を浴びせかけられ、猫足の狭いバスタブに膝を抱えるようにして湯につかって いた柢王は止めていた息を吐き出した。
「汗が出てくるまで入っているのよ」
 深い藍色の貫衣の裾を膝上までたくし上げて括った姿で湯桶を片手に女が言った。
 柢王は体を拭くための布を貸してくれと頼んだはずだったのだが、女はそれに耳を貸さ ず、下女に湯を運んでくるようにいいつけ、柢王をバスタブに追い立てたのだ。
「・・・・・」
 煌々と光の灯る大店の裏口から入って、雨音に負けないくらい派手な音楽と喧噪を聞き ながら階段を上った。小さな部屋がいくつも並ぶ廊下を突っ切った奥にこの部屋はあった。 途中通った部屋やここを見る限りでは、置いてある物は高価だが華美ではなく、どう見て も客商売用の部屋には見えず、下女達の彼女に対する物慣れた感じからしても、どうやら ここは彼女の私室のようだった。花街で広い私室を持てるということは、かなり上位の妓 女か、店(たな)の経営者かどちらかなんだろうな、と花街のことはまだよく知らないな りに柢王は思った。
「まったく・・・あんたのような年の子があんな所をあんな時間に歩くもんじゃないよ。 せめて元服式を済ませてからにおし」
 西領産の海綿で背中を撫でるようにこすられ、そのくすぐったさに身をよじりながら柢 王は苦笑した。
「よくわかるな〜。年齢どうりの年に見られたことはあんまりないんだけどな」
 12歳を過ぎたばかりの柢王だが、同年の少年達と比べると頭一つ分は確実に抜きん出 ている伸び盛りの体格の良さと奇妙に世慣れた(ように見える)まなざしと口調で、たい がい三歳は年上に見られていた。この上に人なつっこさと愛嬌が乗っかっていなかったら、 さらに年上に見られているかもしれない。
「腰つきを見ればわかるよ」
「・・・・・」
 ズバリと言われ、その言葉の内に女の怖さを知ったような気がして、柢王は黙って肩を すくめた。

 体が温まると急に眠気が襲ってきた。よく考えたら、いつもなら既に寝ている時間だ。
 風呂から上がり、着替えを借りて隣室の寝台に倒れ込んだのまでは憶えている。
 いったん深く眠り、それからとろとろとまどろんでいたところで寝台の片側が沈んで柢 王は目を覚ました。見れば女が布団の中に入って枕元の灯心を絞って小さくしているとこ ろだった。
「ああ ごめん、起こしちゃったね」
「・・・あんたもつくづく変わってるよな、こんな見ず知らずの奴を泊めるなんてさ。せっ かくの休みって言ってたのに、こんな時ぐらい一人で寝たいもんじゃないのか?」
 子供のくせにまたそういうことを言う、と女は片眉をつり上げて見せたが、特に怒った 様子もなく柢王と並んで横になると、ぽつりと言った。
「独り寝はさみしいものさ。・・・特に周りが賑やかだとね」
 柢王が首だけ傾けて女の方を見ると、女もこちらを見ていて、目が合うとにこっと 笑った。
「先に寝た方が勝ちだからね」
 なんだそりゃ、と言おうとしたが、女は笑ってさっさと目を閉じてしまった。
 程なく静かな深い寝息が聞こえてくる。
 室内がシンとなると、部屋の外から音楽と笑い声と嬌声が聞こえてきた。
(・・・なるほど)
 一つの布団にくるまって女の寝息をききながら、何故か閉じられた箱の中に置き去りに されたような寂しさを柢王はおぼえた。
(たしかに、さみしいのかも)

続く。


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