投稿(妄想)小説の部屋・別館

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宝石旋律 〜嵐の雫〜

 
【1】

「『綺麗な宝石が手に入ったから、見においで』 ・・・って、俺は女じゃないっつの! 男の俺が宝石なんか見て、喜ぶと思ってんのか?」
 南領から、天主塔へ続く空の道を飛びながら、アシュレイはぶつぶつとごちていた。
 天主塔でティアが宝石商を呼んで祝い事に贈るものを選んでいるのを見たことがある。贈る者の事を考えながら、楽しんで選んだりしているティアを横目に見ながら、その時自分は離れたところでつまらなさそうに待っていたものだが・・・。
「・・・何なんだよ ティアの奴・・・」
 会えるのは嬉しいのだが、用件が用件なだけに気乗り薄なアシュレイはのろのろとスピードを落とすと、ついに空中で停止して腕を組んだ姿勢のまま下降して巨大な岩石の上に降り立ってため息をついた。
「宝石かよ・・」
 ・・・とはいえ、「好きな娘が出来たときに、その娘に似合う宝石の一つや二つ、その場で選んであげられなくてどうするの!」と 宝石商が来る時折に姉につきあわされているアシュレイは、それなりに見る目はあるつもりだ。
 呪文よりもややこしい宝石名や、材質は同じなのに、色によって名前が違う宝石やらで、混乱ばかりするアシュレイをしり目に、彼の姉は、彼女の友人を招いたり、華鳳宮で手の空いた女性陣を集めて、共に「以前仕立てたドレスにあいそう」とか、「細工は美しいけれど、石の色が・・・」などと、お互いに見立てあったり、意見しあったりして、楽しんでいる。
 宝石商が広げる 暗い色の絹の上に踊る様々な輝きに、魅了されるの女性達を見るのは それほど悪い眺めではない。とろけるようなまなざしで嬉しそうに宝石を見ている時の 女性というものはどこか あどけないほどかわいらしく、そんな姿を見ていると、もっと 喜ぶ顔が見たいがために、男が宝石をつい買わされてしまうという話も、なるほどな、と 頷けるというものだ。
 しかしだからといって、これとそれとは話が別問題だ。
 珍しいものは確かに好きだが、こんな天気のいい朝っぱらから、何が悲しくて健常な男 二人が顔を付き合わせて宝石を見ねばならないと言うのか・・・
「・・・あ〜あ、どっかに柢王かアウスレーゼか魔族か落ちてね〜かな」
 アシュレイは天主塔の方角を見た。ちょうど天主塔の領土と南領の領土の境目に位置する この場所は丈高い樹木に覆われた森林地帯だった。ところどころ木々を突き抜けるようにし て、今アシュレイが立っているのと同じような白い岩石がそびえている。少し先で木々が途 切れて地肌がむき出しになっているところには小さくもないが大きくもない川がキラキラ 光りながら流れている。
 ・・・平和な光景だった。
 それ以上でもそれ以下でもなかった。
 アシュレイはそれを不満に思う自分に気づいていた。
 おもいきり暴れたい、力と技を尽くして闘いたいと思う自分に気づいていた。
「・・・・・」
 恋人が築き上げ、彼の父親や友人が護るこの光景に身を置き、そして彼自身もその護りの 一人であるにもかかわらず、こんな事を思うのはどうかしていると自分でも思う。
 ・・・平和な光景の中で、なんだか自分一人だけが異質だ。
「・・・あーっ! だーっもーっ! ちくしょー! こんなことなら出がけに山の一つもぶっ壊して くんだったぜ!」
 苛立ちを発散するかのように、叫んだ彼の口から炎が吹き出し、大気を焦がした。 そう やってひとしきり叫び、炎を上空に巻き上げ、周囲に炎をまき散らし、周辺の空気の温度を 局地的に10℃ほど上昇させる頃には、さすがのアシュレイも叫ぶネタが尽きたのか、観念 したように深々とため息をついた。
「・・・しょーがねー、行くとするか。・・・なに見せるつもりか、しんねーけど ・・ん? うわっ!」
 突然眼下の森がざわめいた。とっさに両腕を上げて目と首をかばったアシュレイを黒いも のがいくつもかすめて行った。
「何だ?!」
 岩を蹴って矢のように上空に飛び上がって眼下の森を見おろしたアシュレイは黒いものの正体を知った。そこを住処にしている鳥の群が、警戒の声を上げて次々と飛び立ってきてアシュレイをかすめていったのだ。
「・・・・・!」
 警戒の声を上げる鳥たちの羽ばたきで周囲は騒然となった。飛び散る羽毛と羽ばたきのおこす乱気流によろけながら眼下を見おろしたアシュレイは目をむいた。
 先程まで自分が立っていた白い巨岩が激しく振動していた。
 妖気が噴き上げてくる。
「・・・まさか・・・・マジかよ! シュラム? ・・・いや、ちがう!」
 息を詰めて見つめるアシュレイの目先で、巨岩の中程から頂点に向かって亀裂がはしり、その亀裂から、黒いどろりとした・・・いや、生物的な蠕動を繰り返しながら、明らかに鉱石の質量と質感をもつ巨大な蛇に似た魔族が瓦礫を振り落としながら滑り出てくると、赤黒い6つの眼球をもつ頭をもたげて内臓を思わせる口腔を開き、アシュレイに向かって咆哮を上げたのだった。
「・・・ハ・・ッ・・」
 魔族の飢餓の咆哮にびりびりと震動する大気の中で、少女めいた美しい顔を荒々しい歓喜の形に歪め、アシュレイは牙をむいて笑った。
「ハハ・・・ッ!!」
 全身に闘気をまとい斬妖槍を呼び出したアシュレイは、三重に生えそろう牙列をむいて伸び上がってくる魔族を見据え、槍を一振りすると空を蹴って魔族に向かって跳躍した。
「 けっ! 行きがけの駄賃だ! 十秒でカタつけてやる! 喰らえ 裂燃波―――!」
 全身に炎をまとった南の太子は、りゅうと槍をしごくなり、魔族目がけて、必殺技を叩き込んだのだった。

 時過ぎて正午過ぎ。
 天主塔の回廊を足音高くアシュレイは歩いていた。
 すれ違う使い女達があわてて廊下の端に身を寄せて礼をするのにも目もくれず、アシュレイはただひたすら顔をまっすぐ上げて歩く。
 彼の表情をかいま見た使い女達は、嵐が早く通り過ぎる事を祈るように互いに身を寄せ合ってさらに頭を低くした。
「・・・・・」
 アシュレイの服はあちこち焦げて袖口や裾がぼろぼろになっており、不機嫌な表情の頬には、すすがついて黒くなっている。
(・・・ちくしょう またやりすぎた。)
 アシュレイはちらりと右手に視線を落とした。今は顕在化していない斬妖槍を持っていた右側の袖は肩口までぼろぼろに炭化している。
 アシュレイは拳を握りしめると同時に唇をきつく噛んだ。
 
・・・・・
 あの時、斬妖槍から放たれた炎とエネルギーの奔流は、魔族を一瞬で蒸発させた。
・・・十秒どころの話ではなかったが、そこまでは、まあ、よかったのだ。
 だがしかし、その勢いは弱まることなく、魔族が巻き付いていた大岩を粉砕し、さらに 背後の森の木々を次々となぎ倒しながら、とうとうと平和に流れる川を垂直に分断し、そ のまま凄まじい勢いで大地を穿鑿しながら数百メートル突き進んだ所でようやく止まっ たのであった。
 ・・・もうもうと上がる水蒸気と土煙を ぼーぜんとアシュレイは空中で見つめた。
「・・・・やばい」
 ・・・まあ、そういうわけで大騒ぎになったのだった。(お約束だなぁ・・・)
 そこからは、南領、中央の兵士達、そして何故か(天界に戻っていた)東国の柢王まで 巻き込んで後始末をしている内にこんな時間になってしまった。
(けど、まだ現場には柢王達が残ってる・・・)
 一足先に天主塔に行って報告をしてこいと柢王に頭をはたかれ、天主塔の主人のティア からも召喚が来たのだ。俺のせいなんだから最後まで残ると言いかけたアシュレイに、柢 王は今までに見せたことがないような厳しい表情を見せて「早くティアのとこに行け」と 言ったきり彼に背を向け、決壊した川の部分を、雷霆と風を操って大岩を突き崩して堰き 止める作業に戻っていった。

「・・・・・」
 明るい午後の光が差し込む回廊は、気抜けがするくらい平和で美しかった。
 ここで働く者、ここを訪れる者達の精神を適度にリラックスさせる、そういう設計で建 てられている。
(けど、それだけじゃない)
 ここにはティアの結界がある。人界・天界を守護する守護守天の穏やかな気が隅々まで 満ちている。
 ・・・絶対の、守護。
 ティアの、穏やかで優しい笑みで護られた場所―――。
(逃げたい)
 唐突に思った。
 罰が怖いのではない。むしろその逆だ。正々堂々と裁判を受けて粛々と服したい。しかし 南領の太子たる彼を裁けるものは彼の父か守護守天しかいない。
 ・・・おそらく父は守護守天のティアにその決断をゆだねるだろう。
 結果は、考えなくても分かる。
「・・・・・」
 たしかに、今までにおいてもティアのとりなしや、フォローがなければ、とっくの昔に 地位剥奪や流刑にあっていたとしても、不思議ではない。
 ・・・わかっている。
やりすぎだということは。
 だが、魔族を追っているときだけが、全力で魔族を追い詰め、打ち倒し、焼き滅ぼす その瞬間だけが、自分の存在を許されるような そんな気がして。
「・・・・・」
 冠帽に手をやりかけ、それをこらえる。手を下ろす時に目に入った自分の腕と手は煤であ ちこち汚れている。
(逃げたい)
 もう一度思った。
 美しい優しい穏やかなこの天主塔の中で、自分一人だけが異質だ。
 ここにいるべきではない。そんな気がする。
 しかし逃げることは出来なかった。逃げることは、アシュレイが最も忌み嫌う行動だった。
 歩調はそのままに、しかし一歩ごとに気分が沈んでゆくのをアシュレイは感じていた。
 執務室にたどり着いた時にはアシュレイの自己嫌悪は最高潮に達していた。
 そんなアシュレイを迎えたのは、相変わらずの笑顔のティアランディアと、もはや殺気 とも言える怒気をはらんだ桂花だった。
 
 

【2】

「アシュレイ!」
 人払いをされた執務室に入った途端、恋人は駆け寄って半ば抱きつくようにして傷の有無 を確かめようとした。
「大丈夫?怪我はない?どこも痛くないかい?」
「わ! よせ! 服が汚れるぞ」
 煤だらけの自分に触られるのが嫌で、アシュレイはその手を巧みに避ける。
「そんなもの気にしないよ。怪我は?」
「ねえよ」
「本当に?」
「本当にねえよ」
「本当の本当に?」
「本当の本当だって!」
 逃げ回るアシュレイを結局捕まえる事が出来なかったが、ティアはそこでようやく安心し たように笑った。
「君が、無事で、よかった・・・」
「・・・・・」
 恋人はあいかわらずの笑顔だった。どうしてこんな大騒ぎをおこした自分にそんなふうに 笑顔を向けることが出来るんだろう。
 それでも、その笑顔は、自分にだけ向けられるものだということが、アシュレイの不機 嫌の炎をゆっくりと鎮めてゆく。
 その時だった。固い物がぶつかり合う音に、アシュレイは一瞬にして身を硬くして音源を たどった。
 視線の先に、桂花がいた。
 執務机の横で、分厚い書類を束ねたものを手にし、面と大きさを揃えるため、机に打ちつ けている。さっきの音はそれであるらしかった。
 桂花がこちらを見た。
 もともときついまなざしの魔族だったが、今日のそれは、今までに見たことのないくらい 激しい怒りを含んだものだった。
 ダン! と執務室にこもる音をたてて、アシュレイを見据えたまま桂花は新たな書類の束を 執務机に積み上げた。そして、ふいと視線をそらすと、何事もなかったように別の書類の束 を取り上げる。
「・・・何だよ! 何か言いたいことがあるのかよ!」
 あからさまな挑発に、アシュレイが牙をむいて怒鳴った。
 別に、と他の書類の束を音高く机の面に打ちつけて揃えながら、桂花はちらりとアシュレ イを見据えた。
「・・・吾は、まだ 一瞬で蒸発させられたくありませんので」
「・・・てめえ、何がいいたい」
 南の太子は桂花の正面に回りこむと、自分よりも高い位置にある、紫瞳をにらみつけた。
 桂花はその視線にびくともせず、逆に乗り出すようにして身を傾けると、低いが良く通る 声で言った。
「あの川は、数ヶ月前に治水工事を終えたばかりだった。・・・力の加減というものも知ら ないのか このバカザル」
 一瞬、桂花の視界が白いものに埋め尽くされた。予測が付いていた桂花は後ろに飛び退き、 飛び散る書類の向こうから突き出されてきた手を避けた。
 桂花の手から書類をはたき上げたアシュレイの全身から怒りの闘気が爆発したように吹 きあがる。
「こ・・の魔族野郎! 今日こそ てめぇを消滅させてやる!」
「力の加減が出来ないということは、その力を使いこなせていないということに等しい。 消滅させることなど出来るのか、お前に? ―――この吾を?」
「―――・・・細胞の一片たりとも残さず消してやる・・!」
 執務室じゅうに書類が舞い散る中、二人は対峙した。
「アシュレイ! だめ! ・・・桂花っ 行って!」
 この事態に慌てたのは執務室の主人だった。今しも激突しそうな二人の間にあわてて割 って入り、南の太子の体を抱きしめるようにして押さえつけながら、守天が叫ぶ。
 二人は、守天を間にはさんで 睨みあった。
 炎を吹き上げんばかりに怒り狂った真紅の瞳を、冴え冴えとした冬の月光をはじく刃の ような紫の瞳が見おろす
「何のための力だ。 何のために使う力だ」
「うるせぇ! だまれ!」
「アシュレイ!」
 猛然と暴れる南の太子を押さえ込めなくなった守天は、ついに自分ごと白繭の結界を張 った。
「ちくしょう! またこれか!」
 アシュレイの渾身の力で拳が白繭に叩きつけられるたび、表面はびくともしないものの 全体が びりびりと震えている。
 きついまなざしでそれを見据え、さらに口を開きかけた桂花の肩に、あたたかい手が置 かれた。振り向いた桂花の口元をもう一つの手が軽くふさぐ。
「それぐらいにしとけ 桂花。 アシュレイ、お前もだ」
「・・・柢王」
 桂花に笑いかけ、そのまま桂花を自分の背後に押しやると、白繭の結界の方を向いた。
「・・・おいおい、帰って来るなり修羅場かよ?」
 天の祐け、とばかりに守護主天が南の太子を牽制しながら叫ぶ。
「て・柢王っ! 桂花を連れて行って!」
「そいつを俺に殺させろ!!! ちくしょう! 魔族なんか全部殺してやる!」
 白繭の結界に叩き付けたアシュレイの拳からが白い火花が散る。くだけるほど握りしめた 拳に爪が食い込んでついに血が流れ始めたが、それに気づいて制止の声を上げたティアの声 もアシュレイには届かない。
 凄まじい怒りの形相で暴れるアシュレイを、柢王はしばらく見ていたが、やがてやれやれ とため息をついた。
「ティア、結界を解いてくれ」
「・・・柢王?」
「いいから」
 白繭の結界をといた瞬間、南の太子は守護守天を振り払って飛び出した。斬妖槍を呼び出 した右手が熱くなる。このまま顕在化した斬妖槍を振り下ろせば、桂花はあっけなく燃え尽 きる。 ・・・はずだった。柢王さえいなければ。
 同時に柢王も床を蹴っていた。一瞬にして距離を詰め、アシュレイの右手を強く払いのけ る。アシュレイが斬妖槍を呼び出すとき、数瞬のタイムラグが生じる。その隙を狙っての 攻撃だった。動きの早いアシュレイを止めるには、その隙をつくしか柢王には思いつかなか った。だから武器を手にすることなく、徒手空拳のままアシュレイの懐に飛び込んで斬妖槍 の出てくる右手をまず払ったのだ。
「!」
 払いのけられた衝撃で、アシュレイの体が揺れる。その隙を逃さず、柢王は何の躊躇もな く南の太子の顔面目がけて拳を振り下ろした。
「・・・!」
 思わず目をつぶる守護守天の耳に届いたのは、意外に小さな音だった。
「残念」
 顔に届く寸前で柢王の拳はアシュレイの手に止められていた。
 ぎりぎりと力の拮抗を繰り返しながら、アシュレイが柢王を睨み付ける。
「簡単に殴れると思ったか?」
 柢王が笑った。
「殴れるさ」
 不意に柢王の拳から力が抜けた。かろうじて保っていたバランスが一気に崩れる。
「頭に血が上っている、今のお前ならな」
「!」
 次の瞬間、みぞおちに打撃が来た。予測はついていたのでとっさに腹筋を締めて衝撃を殺 したアシュレイだったが、間髪入れずに首元に電撃を落とされ、全身を走った衝撃にアシュ レイはうめいて膝を折った。
「・・・っそぉ・・ 顔面と腹は最初から囮かよ・・ こんなことなら」
「こんなことなら、顔を殴られても斬妖槍を出しておくべきだった、か? ティアがいると ころでそんな物騒なものを振り回すつもりだったのか? アシュレイ」
 力を失い、ずるずると崩れ落ちる体を片腕で抱き止めながら柢王は冷ややかに言った。
「・・・」
 視界が、暗くなる。体の力が抜けていく。それなのに、柢王の声だけはやけにはっきりと 耳を打つ。
「アシュレイ。お前は、誰のために 元帥になったんだ?」
 うるさい、と言いたかったが、もはや声は出なかった。
「・・・お前が心配だよ。アシュレイ。その怒りのパワーが、年々増していくその力が、お前 すらも壊してしまいそうな気がして。 ・・・もし、その力をお前が制御しきれなかったとし たら・・・いつか、おまえの存在そのものを支えきれずに、世界は崩壊するのかもしれない、 そんな気がしてならない・・・」
 視界が真っ暗になった。
(・・・へ・・ あいつバカ言ってやがる。 俺にそんな力があるわけが・・・)
 しかし、そう思いながら、それを笑い飛ばすことの出来ない自分がいた。
(・・・・・)
 そうして、闇が訪れた・・・
  
  
 駆け寄ってきたティアにアシュレイを託した柢王に、入れ替わるようにして桂花が走り寄 った。
「手を見せてください」
 柢王が何かを言う前に桂花はすでに柢王の左手首を掴んで持ち上げていた。その手に視線 を落とした桂花が眉をつり上げてうめく。
「・・・たいしたもんだよ。あのタイミングで、炎の結界を張ろうとするとはな。感電させん のが一瞬でも遅かったら、俺の拳は炭になっていたかもな」
 真っ赤にただれた左掌を見おろして柢王が言うのに『感心している場合ですか!』と声を 荒げた桂花が問答無用で椅子に座らせると、薬箱の中から細工の美しいガラス瓶を取ってき て柢王の前に膝をついた。
 無色透明の液体が入ったそのガラス瓶の栓のつまみを掴んだ時、桂花は一瞬躊躇したが、 意を決したように一気に引き抜き、その中身を少しずつ傷口に垂らし始めた。なじみ深い甘 い香りの液体が垂らされた部分から、痛みが少しずつひいてゆく。
「全くあなたは無茶ばっかりして・・・!」
 聖水の甘い香りに頭の芯が揺さぶられるのを必死でこらえながら、桂花がうめくように言 った。それは泣き声にも似ていた。
 椅子に座る柢王からは、床に膝をついて傷を覗き込んで治療してくれている桂花の形の良 い小さな頭しか見えない。
「・・・何言ってんだ。無茶はお前のほうだろうが。俺が来るのがもう少し遅かったら桂花、 お前はアシュレイに殺されていたかも知れないんだぞ」
 一体どんな表情をして治療してくれているのか覗き込んでみたい衝動を抑え、柢王は怪我 のない右手で桂花の頭をそっと包むように撫でた。桂花はそれを五月蝿そうに頭を振って払 い、顔を上げた。
「・・・・あなたこそ何を言っているんです。喧嘩でも何でもしてていいから、とにかくサルを 執務室から出すなと冰玉に伝言を届けさせたのはあなたでしょうが」
 きついまなざしが柢王を見上げる。知らない者が見たら、確実に逃げ出すほどきついまな ざしだったが、桂花をよく知る柢王は肩をすくめて体を前に倒すと、桂花の肩に額をおとし た。桂花は動かない。手に持つ瓶の中身はすでに空だった。
「心配かけて悪かった。もう痛くねーよ」
 桂花と喧嘩をする柢王だからこそ知っている。よく怒りながら泣く桂花は(その内容のほ とんどは柢王の無茶に対する怒りであるのだが・・・)泣く寸前にそういう顔をする。心配す る感情の裏返しで怒る。怒りながら泣く。
「・・・それで? どうしてあなたはサルを執務室に留めておけと言ったんですか?」
 聞こえなかったふりをして、桂花は柢王からそっと離れた。柢王を見上げる瞳がいつもの 桂花に戻っている。それに柢王は「お前だってうすうす気づいて入るんだろ?」と笑いかけ、 それにいまいましげに桂花はうなずいた。
「アシュレイは執務室にいれば安心だ。ティアが全力で護るからな」
 
 

【3】

 アシュレイを長椅子に寝かせ、傷ついた手の治療を終えたティアが慌てて柢王の手の治療 を始めるのを見届けてから、地理院に書類を探しに桂花は執務室を出て行った。
 執務室に二人だけになると、柢王は低くうめいて身を折った。
「・・・痛ってぇ〜〜〜〜っ!」
 南の炎に灼かれた傷は、聖水くらいでは応急処置がせいぜいだ。痛み止めの効力もわずか なものである。真っ赤にただれた火傷の痛みを桂花の前では涼しい顔で我慢していた柢王は、 ようやくつめていた息を大きく吐き出した。
「・・・この意地っ張り!」
 手光の光を一段と強くして治療を急ぎながら、ティアは小声で叱った。それから小さく 頭を下げた。
「桂花を危険な目に遭わせてしまってすまない。私がアシュレイを眠らせられれば良かった んだけれど、どうしても額に触らせてくれなくて」
「・・・いや、俺があいつら二人をたきつけたようなもんだからな。だから俺が体を張らないことにはしょうがないだろ。・・・けど、ケンカでもしてろっての意味は、俺的には『口喧嘩』って事だったんだぜ? それがどうやったら殺し合い寸前に発展するんだよ?!」
「そこは、やっぱり、アシュレイと桂花だから・・・ね?」
 言いながら、ティアが苦笑した。
「『ね?』じゃねえだろ。・・・まーったく。どうしようもねえな、あいつらは」
 言い返す柢王も苦笑するしかしない。
 顔をつきあわせるたびに激突を繰り返すあの二人のことは、この二人にとって、頭の痛い 問題である。
 ティアも苦笑して、それから、ふとため息をついてしんみりと言った。
「・・・こんな時だけどね。柢王。今、私は、とても嬉しくて悲しいんだ」
「?」
「君とアシュレイが境界の所でシュラムを取り合って、君が桂花をかばって負傷した時の事をおぼえてる? 執務室でまた喧嘩になりかけて、今回みたいにわたしはアシュレイごと白繭の結界を張った。あの時、アシュレイは私に暴力をふるった。・・・けれど、あれでも十分彼は手加減していたんだなって、今、ようやく分かった。」
「ティア?」
「・・・考えなくても分かる事なんだけど、何としてでも白繭の結界から出たいのなら、私を殴って気絶させればすむことだもの。本当のところ、わたしは服を破かれてポカポカ殴られて悲鳴を上げているどころじゃなかったと思う。・・・今日の彼は本当に怒り狂っていた。暴れて暴れて、自分の拳を傷つけるぐらいに・・・。 ・・・でもね柢王、それほど怒っていても、アシュレイは一度も私にその怒りの力を振るおうとしなかった。」
「・・・それが嬉しいことか? じゃあ、悲しいってのは?」
 あいつはあーいう怒っている時は、ほとんど本能で動いてっから単に気づかなかっただけじゃねえの? ・・・という言葉を柢王はかろうじて飲み込んだ。
「だから嬉しくて悲しいって言っているじゃないか。アシュレイは私にあんな激しい感情も、怒りの力も向けない。そんなことになったら何もかも終わりだって知っているから。・・・アシュレイは、私を壊れ物のように扱う。全力でぶつかってくることは決してないんだ。・・・それが悲しくて嬉しい。嬉しくて悲しいんだ・・・・」
 手を握ったり開いたりして治り加減を確かめていた柢王がそのまま手をうつむいたティアの頭に乗せ、ぐしゃぐしゃとかき回す。
「・・・おい、ティア。俺はお前の恋愛お悩み相談係じゃないぞ。」
「いいじゃないか。・・・聞いてほしいだけなんだから」
 ぐしゃぐしゃとかき混ぜる手を払いのけないまま、ティアが言う。
「しかも聞きようによっては、アシュレイに殺意を向けられる桂花や、アシュレイとド突き合う俺に妬いているようにも聞こえるんだが・・・」
 ティアが吹き出した。
「それは気づかなかった。・・・あ、でもそうかも。それもいいかも。じゃあ、そう言うことにしておこうかな」
 ティアは顔を上げ、柢王を見てにこっと笑った。
 何を納得してんだよ、否定しろよ! と同じように笑って言いかけた柢王が言葉を止めた。書類を抱えた桂花が戻ってきて、室内の雰囲気にちょっと入りにくそうに戸口で立ち止まっている。
「さすが早いね。おかえり、桂花。」
「桂花、そんなトコ立ってないで早く入ってこいよ。」
 ティアと柢王が笑って桂花を差し招く。二つ並んだ屈託のない笑顔に、桂花は安心と不安が入り交じった何とも複雑な気分で執務室に足を踏み入れて扉を閉める。
 指の付け根がまだ突っ張る感じがするという柢王の治療に戻った守天の横顔を見て、ぎくりと桂花は足を止めた。
「守天殿・・・頬に、血が・・・」
 守天の耳に近い位置の左頬に紅い筋が流れるように付いている。
「ティア、おまえ怪我を・・?」
 女性よりも白い左頬に付いた血のあとを指した柢王に、ティアは首をかしげ、そして瞳を一瞬曇らせた。
「・・・私のじゃない。アシュレイのだよ」
 結界を叩き続けて傷ついた拳からとんだ血のひとしずくだった。
 すでに乾いた血は、柢王が袖口でこすっても、容易に頬からぬぐえなかった。
 水で湿らせた手巾を桂花が持ってきて、柢王の手を手光で癒すために両手を動かせない守天の頬をそっとぬぐう。
(いい光景だよな・・・)
 守天の頬をぬぐう桂花の横顔を見ながら、柢王はぼんやり思った。
 柢王とティアと桂花。この組み合わせで激突する心配はまずない。柢王とティアとアシュレイ。この組み合わせでも、幼なじみ同士だし、一部で激突はするが、所詮じゃれあいの喧嘩レベルだから心配ない。しかし、アシュレイと桂花を一緒にしてしまうと、どうしてああも修羅場になってしまうのだろう。なんで二人ともああもかたくななのだろうと柢王は心中でため息をついた。

「走り書きしたメモをくわえて冰玉が窓に体当たりをかけようとしているのを桂花が見つ けた時にはどうしようかと思ったよ。窓には結界が張ってあるから」
 執務机の豪奢な椅子に腰をかけ、書類の一枚を読みとりながらティアが言った。
「悪かったよ、緊急事態だったからさ。」
 執務机の端に直接腰を下ろして書類の束をめくりながら柢王が返す。その柢王に、行儀が悪いから机に座るのはやめて下さいと、椅子を運んできて柢王を机から引きずりおろして座 らせながら、桂花が言った。
「・・・柢王、貴方の直感が侮れないことは認めます。・・・しかしそのことを考慮した上で言いたくはありませんが、―――吾にはどうしてもあれがサル個人を狙ったものとは思えないのですが。」
 桂花が地理院から探し出してきた、魔族が出現した現場周辺の膨大な量の資料を執務机の上に広げ、三人それぞれ手分けして書類を覗き込み、何かおかしいところはなかったのかと検討していた。
「・・・そう言われても、直感としか言いようがないんだからしょうがないだろ。何だかいやな感じがする。確証も何もないけどな。 ・・・どちらにしろ、あんだけの騒ぎをおこしたんだ。現場周辺に妖気はギンギンに残っちゃいるから魔族が出たって事は分かるんだが、まずいことに証拠となるモンが全く残っちゃいねえんだ。証拠となるモンが見つからなかったら、あいつは何の理由もなくあのあたりをぶっ壊したって事になるからな。警邏の奴らに連行されるよりは、あいつの足で出頭させた方が少しはマシだと思ったのさ」
 魔族が出没するのは、そう珍しいことではない。たしかに、結界石が壊れ、大半が人界に 落ちていき、ここ最近、天界では大がかりな魔族騒動はない。しかし、全くないわけでもな いのだ。虜石のように、得体の知れない力を秘めた、今まで知られることのなかった魔族も 発見されている。
「ただ、場所が場所なだけに、隠れていたモノがモノだけに、何か引っかかるのさ」
 治水工事に伴い、あの周辺一体は一時期通行が禁止されており、しかも川と森しかない場所であるため、通行禁止令が解けた後でも、空を飛べないパンピーも空を飛べる兵士も、他のルートを使っており、人通りの少ない場所であった。そこを使おうとするのは、そこを飛び抜けるのが一番人目に付きにくく天守塔への行けるとわかっている者だけだ。
 そして、天守塔と南領の境界で出現した魔族は、巨大な岩石の中から現れたと言うことだ ったが、もともとあの岩は、川の治水工事が行われたおりに、ついでに周辺も整備しようということになり、境界の結界を強化するよう特殊な布陣で配置された岩石の一つだったのである。
「・・・他の岩はどうでした?」
 巨岩を仕入れるさいに作成された北領の資料を覗き込みながら、椅子に座った柢王の傍らに立つ桂花が柢王に問う。
「一応全部に霊気を叩き込んでみたが反応はなかった。念のため冰玉に上空から見張らせているから何かあったら飛んでくるだろうさ」
 柢王が言い、桂花の持つ北の書類を覗き込んで言い添えた。
「北の石切場から出荷される岩石は、全部熱処理済みのハズだぜ。」
「一概にそう言いきれないと思います。虜石の件がいい例です。」
 桂花が言うのに、ティアも賛同する。
「人界にも冬眠状態なら熱湯の中に入れても、絶対零度近くの低温下でも生き延びる生物もいるしね。魔界の生物にもそう言う条件下で生き延びる生物がいないとは言い切れない。」
 アシュレイが遭遇した魔族のカケラの一つでも残っていれば、桂花を通じてある程度の情報が得られるのだが、いかんせん、アシュレイは目撃者なしのたった一人で闘い、倒すのではなく、跡形もなく蒸発させてしまったのだ。
 南領と中央の兵士達が残骸の中から捜索をしているが、とてもではないが見つけ出せるとは誰も思っていない。
「・・・・・」(×3)
 三人は深々とため息をついた。
 柢王がさらにもう一つため息をついて、桂花の持つ書類を指ではじいた。
「・・・確かに北から入荷したこの岩が一番あやしい。となると、普通に考えれば北が一番あやしいことになるんだが」
 三人は顔を見合わせた。
「・・・しかし何しろ北だぜ。あのガッチガチに真面目で堅くて強えぇ山凍の国だ。しかも山凍のそばにはあいつがいて、山凍の領土に目を光らせている」
 ―――『魔石の審判』こと 神獣・黒麒麟の孔明が。
「事故だとしてもありえねえ。」
 気むずかしい顔で、柢王は口をつぐんだ。
 執務室に、沈黙が落ちた。
「柢王」
 柢王の隣の桂花が低い声で名を呼び、肩に触れる。
「一人で抱え込まないで、あなたの考えを聞かせて下さい」
「・・・・・」
「柢王・・・?」
 ティアも彼の名を呼ぶ。
 柢王は応えない。黒に近い深青の瞳は手に持つ書類に注がれていたが、そのじつ、その目には何も映っていないことを二人は知っていた。
 やがて柢王は、ゆっくりと顔を上げると、肩に置かれた桂花の手にそっと触れて、そのまま握りしめる。
 あくまでこれは推測なんだけどな、と前置きしてから、柢王は言った。
「・・・もしかしたら、あれは魔界から持ち込まれた岩石じゃないのか、と思ってな。あんな巨大な岩石を切り出す作業には、天界人が大勢関わっていたはずなんだ。そして魔族は天界人の霊気に反応する。・・・魔族が出現するとしたら、むしろ北の石切場である確率の方が高いはず・・・・。それからもう一つに、ああいった白っぽい岩は、魔界でもよく見かけられるものだ。似たような形に切り出して、本物と並べても、そう見分けはつかないと思うぜ」
「・・・周辺の森林を整備した業者が利益をかすめ取るために北領から購入した岩石のいくつ かを、それとよく似た魔界の岩石とすり替えた、ということ?」
「そして、その一つが魔族入りだったって訳ですか?」
 ティアと桂花が硬い表情でかえす。
「・・・やっぱ、馬鹿馬鹿しい考えだったな」
 出来れば笑い飛ばしてくれ、と柢王が苦々しげに言った。
「笑えません」
 桂花が硬い表情で言い、柢王の肩を掴む手に力を込めた。
「魔界からとなると、魔風窟がらみで、東の問題にも関わってくるじゃありませんか」
「・・・森を整備した、南の業者と商人達もだ」
 ティアが執務机の上でうめいた。
 
 

【4】

「落ち着けよ 二人とも。俺は“もしかしたら”という前提で話をしているんだぜ?」
「しかし 柢王」
「でも 柢王」
 まあ待てよ、と同時に言い返した二人に手をあげて柢王は押しとどめる。
「言い出した俺が言うのも何だが、決めつけるには不十分すぎる。第一、いくらウチ(東)の連中が腐りきっていたとしても、あんなでかい岩をあのクソ狭い魔風窟を通ってどうやって運び出したのかも分からねえしな。誰も知らない新しい広大な通路が見つかったとは聞いていないしな」
 岩盤をくり抜いて道を通すにも、労力がかかりすぎるし、危険だ。何より、そんな大工事をしていれば、どれほど規制しようと、どこかから必ず情報が漏れて、柢王の知るところとなっていたはずだった。
「でも柢王、それ以前に魔界から岩石を切り出すにも人手は必要になる。それに運び出すにも。その時点で霊気に反応して出現していた可能性もあるはずなのに・・・」
「・・・それについては、うちントコにはしっかり前科がある。」
 ティアの問いに柢王はさらに苦々しい顔つきになった。
「―――魔族を奴隷として使ったということですか」
 桂花までが、苦々しい顔つきになった。
「考えられるとしたら、そういうことなる・・・が」
 しかし以前のように、捕らえてきた魔族を個々に天界につないでおくのとは、わけが違ってくる。魔界は彼らのテリトリーだ。力づくで捕らえることが出来たとしても、彼らがおとなしく労役として働くかどうかすらも分からない・・・
 利にさとい東国だけに、そんなリスクを背負ってまで魔界に固執する価値があるのかと問われれば、柢王は即座に「否」と答える。ならば、柢王よりもさらに利にさとく奸智に長けた二人の兄たちがそう思わないはずがない。
「・・・だめだ。ウチ(東)の問題から考え始めたら、どれもこれも手詰まりになっちまう。」
 柢王は苦り切った顔でため息をつき、額を押さえて天井を仰いだ。
「魔界説は、やっぱ間違っていたか」
「でも柢王、魔族が岩から出現したのは事実なんだよ?」
 あわてて守天が言い添えるのに、書類を見直していた桂花が顔を上げた。
「・・・・先に南の業者を締め上げた方が早くありませんか?」
 柢王と守天が顔を上げる。
「そうか、岩石を直接取り扱ったのは南の業者だもんな。取引か何らかの痕跡は残っているはずだ」
「これだけの騒ぎになると、もう天界中に知れ渡っていますね。その業者の倉庫と書類を急いで差し押さえなければ、書類をかいざんする時間を与えてしまう可能性もあります」
「急いだほうがいいってことだね。―――南領の元帥のどなたかに強制立ち入り捜査の権限を発令してもらえるよう遣い羽を出さないと」
 あわてて書状をしたため始めた守天の邪魔にならないよう桂花は別室に下がった。茶の支度を始めようと茶壺を取り上げた手が止まる。
「・・・・・柢王 邪魔をしないで下さい」
「まだ怒っているのか?」
 背中から回した両腕に桂花を閉じこめ、すっかり完治した左手で桂花の髪をかき上げながら柢王が笑った。執務室で桂花が着用している白い長衣は、足首から首元まで桂花の美しい肌をすっかり隠してしまうもので、ストイックな色気があってそれはそれで見ていて楽しいのだが、こうして抱きしめた時に桂花のなめらかな肌を感じられない柢王には少々物足りなかった。
「・・・あなたに怒っても、意味がありません」
 まっすぐ前を見据えたまま、低く桂花は言い放った。
 なにしろ、言っても聞かないからだ。
 柢王は笑った。そして、頑なにまっすぐ立つ桂花の唯一露出している肌、つまり桂花の顔のラインを指でなぞり、それからそっと覆い被さるようにして体を前に倒し、自分の頬を桂花の頬にそわせた。
「お前は怒ってても綺麗だから確かに怖くないな。・・・おまえときたら。怒ってても、肌は冷たいままなのな」
「―――」
 茶壺の中身を顔面目がけてぶちまけてやろうかと思ったが、後ろから体を密着されている自分にも被害が及ぶのでやめた。何よりもこの茶壺の中身は南領と西領の境の高山で今年初めてつみ取られた、極上の新茶だ。もったいなさすぎる。
「・・・吾の肌が冷たいと感じるのは」
 ため息を一つ付いて茶壺を慎重に卓の上に戻すと、桂花はまっすぐに立ったまま低い声で言った。
「あなたに熱があるせいです」
 人界警護で気を張り続けていた疲れが今になって一気に出たのか、昨日(今日か)真夜中に帰ってきた柢王は天守塔の一室で眠っていた桂花の寝台に朦朧とした状態で倒れ込んだのだ。いきなりの帰還にはすでに慣れきっていた桂花も、力の抜けた体の重みとその熱さに飛び起きた。
 寝台を明け渡し、夜通しの看護で、熱はある程度下がったものの、安静第一には違いなく、 朝になって守天に訳を話して看護で一日休みたいという旨を伝えると、その日の午前中に南 の太子との面会があると言うことで、快く承諾をもらい、(それなら書類の一枚たりとも動 くことはないな)と安心していた矢先に南の太子が魔族と遭遇したと言う一報が入り、その 瞬間、飛び出していったのだ。この男は。
 自分は必死になって止めた。それを笑って引き留める腕をすり抜けていったのだ。振り向きもせずに。
 ついさっきまで高熱でぐったりしていたというのに。それでも友人(サル!)の危機には飛んでいって手を貸そうとする。のみならず後始末までしてのけようとする。
 ・・・時々胸ぐらを掴んで引き寄せ聞きたい衝動に駆られる。
 一体あなたの『一番』は誰なんですか―――と。
 プライドもあるので面と向かって聞いたことはないし、おそらく答えなどないのだろう。
 この人の『一番』の領域はあいまいで、きっと場合により、順位が入れ替わったりするのではないのかと桂花は考えている。
 ・・・なぜ自分はこんな男が好きなのだろう。
 自分でも馬鹿だと思う。
 けれど
「・・・あのな、桂花」
「あなたときたら」
 視線をまっすぐに据えたまま、低い声で桂花は柢王の言葉をさえぎった。
「自己管理はしないし、無茶ばっかりしてすぐ怪我をするし、人の話は全然聞く耳持たないし、わがまま言って人を困らせるし、余計なことに頭を突っ込みたがるし」
「桂花」
「結構簡単に約束を破ってくれるし、言ったことには責任持っていないし、というか良く忘れてくれているし、」
「桂花!」
「人が稼いだ金で女遊びはしてくれるし、黙って出かけて一晩帰ってこないことはざらだし、酒グセは結構悪いし、それで人が怒ってもすぐ茶化してしまうし、あきれ果てていったい何度魔界へ帰ってやろうかと思ったことか。」
「おい桂花!」
「でもあなたがあの兄二人と全面衝突することになって、たとえ東国全てが敵に回ったとしても吾は貴方のそばにいますよ」
「おい桂花! 言いたい放題・・――― あ?」
 桂花に絡んでいた腕の力がゆるまった。それを利用して腕から抜け出すことなく桂花は体を横にずらすと体をねじってゆっくり柢王の顔を見た。
 抗議の声を上げかけたまま、柢王はあっけにとられて言葉を失っている。
 紫色の瞳で柢王を見上げ、桂花は薄く笑った。
「それが聞きたかったんでしょう?」
 柢王がこんな風に甘えてくるのは、心の内に何かを隠している時が多いのだ。少なくとも桂花はそのことを知っている。
 まだあっけにとられている柢王に体ごと向き直り、両手で柢王の頬に触れた。指先に触れる頬は熱かった。
 髪を撫で、桂花はそのまま柢王の頭を肩口に引き寄せた。されるがままに桂花におとなしく頭を撫でられていた柢王が、やがてため息のようにつぶやいた。
「そんな大事なことを、文句を言うついでみたいにしてさらっと言ってくれるなよ・・・」
「文句のついでくらいに言わないと、ちゃんと聞いてくれそうになかったから」
 とくに、打ちのめされている柢王を見ている今ならなおさらだ。
 それにこの言葉は、聞かれて応えるようなものではない。
 桂花自身の言葉でなくては、意味がないのだ。
 柢王を寄りかからせ、桂花は髪を撫でる。
「・・・あの二人と本当はやり合いたくはないんでしょう?」
 柢王の肩が揺れた。
(やっぱり・・・)
 柢王は、あの二人を惜しんでいる。
 でなければこれほどに打ちのめされてはいないだろう。
「・・・東(ウチ)が本当は関与していないことを願ってるのは確かだ。ティアや親父への叛逆だからな」
「・・・それだけ?」
 桂花の肩に顔を埋めたまま柢王は力なく笑った。
「・・・・・何でかな。ガキの頃から仲が悪くて、一緒に遊んだとか、助けてもらったとかそういうの全然ないし、・・・今だって、大嫌いだ。」
 桂花の体に回っていた腕に力がこもる。
「・・・・―――でも、殺してやるとか、死んでしまったらいいとか、・・・そういうことは、考えたことがなかった・・・・」
「―――――」
 あの二人(陰謀などは主には一人だが)とのいざこざは今までに数限りなくあったが、柢王は裏から手を回して相手の戦力を削いでいく方法で、露見したとしてもそれはあくまでも水面下での、それも東国内での出来事として片づけられるよう仕向けていた。
 だが今回は違う。この事が表面化すれば、もはや東国内だけで片づけられる問題ではなくなってくる。
 柢王は身内と正面から衝突せざるをえなくなる―――――
 柢王はその事実に打ちのめされ、迷っているのだ。
「・・・こわい?」
 髪を撫でる手を止め、桂花はささやく。
 血の繋がった相手と闘う事が。
 血族を失うことが。
「・・・・・いいさ。俺はお前がいてくれれば、それで充分だ」
(うそつき)
 その言葉を語る瞬間でさえ迷っているくせに。
 桂花は柢王を突き飛ばしたい衝動に駆られた。しかし打ちのめされ、桂花にもたれかかっている彼を押しのけることは出来なかった。いつも自信と強気に満ちあふれている(そう見せている)彼が弱さを桂花にさらした。
「・・・・・」
 全てを望んでも手に入らないのなら、今はそれに満足するべきなのだろう。
(吾なら、迷うことはないのにね・・・)
 頭を抱いた手を体に回し、桂花は不実な恋人を力一杯抱きしめてやった。
 
 

【5】

 舞い上がる土埃に兵士はむせた。
「おい、大丈夫か?」
 空中で身をかがめ、激しく咳き込む天主塔の兵士に、近くにいた南領の兵士が声をかけた。
 それに手を振り、ひとしきり咳を繰りかえした後、兵士は額の汗をぬぐいながら体勢を立て直した。
「むせただけだ。・・・しっかし、この熱気と土埃はたまらん。現場からあれだけ離れててもこれとはな・・・」
「ああ、全くすげえよな。―――見ろよ、アシュレイ様の技が直撃したあのあたりなんか、まだ熱くて近寄れない」
 兵士が指す方向の地は、未だ土煙と蒸気を高々とあげ続けている。
「・・・アシュレイ様は5分で山一つ壊す事が出来るって噂を聞いたことがあって、そん時は眉唾もんだと思ってたけど、本当だったんだ。―――すさまじい力だな・・・」
「・・・・・」
 本当も何も南領では周知の事実である。
 普通なら鼻高々もので自国の王子の強さをここぞとばかり吹聴するべき所だが、その破壊行為が南領の地場産業に深刻な打撃を与えているなどという余計な事実もセットになっているため、南領の兵士は賢明にも沈黙を選んだ。
 蒸気と土煙の上がる場所をまだ見続けている兵士の肩を叩き、作業の続行を促す。
「とりあえず、周囲の探索が先だろ」
「そうだな」
 ・・・高々と上がる蒸気と土煙の中に小さな青い鳥が滑り込んでいったのを、視線をもとに戻した兵士は見ることはなかった。
 
 
「・・・まさかサルと激突寸前のあの場面であなたが帰ってくるとは思いませんでした」
 柢王の左手をためすがめつ見ながら、桂花がため息をついた。完璧に癒された手には傷どころか赤み一つ残っていない。元の傷を知っているだけに、桂花は改めて守天の持つ癒しの力に感謝した。
「ろくでもない役を押しつけてごめんな。怖かったろ」
 当初、ティアがアシュレイの額に触れて眠らせるという穏便きわまりない方法をとる予定だったのだ。しかし当のアシュレイが逃げ回ってティアは触れることも出来なかったのだ、桂花はアシュレイの気をそらせるためと足を止めさせるため、わざと挑発したのだ。
「・・・あそこまで怒り狂うとは思っていませんでしたので」
 あの程度の罵言は日常茶飯事レベルだ。あれで南の太子がぶち切れたということは、ここに来るまでに何かあったか、日頃蓄積していた何かを桂花が絶妙のタイミングで突いたということになる。
「・・・でも、吾は謝りませんよ。間違ったことは言っていません。けれど、あなたを巻き込むつもりもありませんでした」
「―――おいおい。桂花おまえ、本気でアシュレイと殴り合いの喧嘩をするつもりだったのかよ?」
 まさか。と桂花は首を振った。
「殴り合いはごめんですが。・・・南の太子が大技を繰り出した直後は、スキだらけなんです。そこを狙えばあるいは」
「・・・その前にお前が確実にケシ炭になってんぞ」
 柢王が言うのに、桂花はふっと笑うと低い声で言った。
「天主塔の物のことごとくは、守天殿が燃えたり壊れたりしないよう防護の呪をかけていらっしゃるんです。」
 一度など、使い女達がティアが執務に就く前に執務室の模様替えをしたのはいいのだが、しばらくしてからその使い女達が困りきった顔で「カーテンやテーブルクロスを洗おうと水につけたのだが、生地に水がしみこまないので洗うことが出来ない」と戻ってきた時があっ た。
 洗い桶に張った水の上にぷかぷか浮いていたカーテンやテーブルクロスの山は、ティアが 術を解いた途端、たちまち水が染み込んで洗い桶の中に沈んでいった。
 術がかかっている間は、その質感や性質はそのままに、ありとあらゆる攻撃や衝撃、外的 刺激を無効化してしまう呪をティアはかけていたのだ。外からの風に柔らかく揺らいでいて も、ほこりが付いて汚れることもないし、日焼けもしないので「洗わなくてもいいのに」と ティアは笑ったが、使い女達に断固たる態度で却下されていた。
「特に執務室の調度品には強力な術がかけられています。・・・それこそ炎を防ぐ盾になりそ うな衝立や、目くらましに使えそうなあの多量の書類一枚一枚に及ぶまでも。」
「おい桂花・・・」
「問題は」
 呆れ半分焦り半分で柢王が桂花を見るのに、桂花は真面目くさった面持ちで手をあごにや って考え込んでいる。
「あの凄まじいエネルギーが室内で炸裂した場合、そのエネルギーをどの方向に流すかとい うことなんです。・・・まあ、窓に流すしかないのですが」
 屋外なら、火や、それに伴う熱せられた空気は上に吹き上がるので、螺旋状の竜巻を周囲 に興してやれば、炎の広がりを防ぐことがおそらくは出来るだろうが、あの狭い室内となる と話が変わってくる。
「もっと日数があったのならば、天井に細工することも出来たかもしれないけれど・・・」
 いかにも残念、という風に桂花は大きくため息をついた。
 その隣で柢王があっけにとられている。
「おいおいおい・・・・。それじゃあ何か。喧嘩の仲裁に入って痛い目を見た俺って、何だか馬 鹿みたいじゃねーか」
 柢王が頭を抱えてうめくのに、そんなことはありません、と桂花は真剣な面持ちで柢王を 覗き込んだ。
「今のはあくまで情報を総合して試算した上での、ただの予測です。いくら守天殿の防御が 万全と分かっていても、実際、あの凄まじいエネルギーが室内に炸裂することを想像するだ けでぞっとする。ただでは済まないでしょう。だから、サルの技を未然に防いだあなたの行 動が本当は一番正しいんです」
 柢王が桂花を見おろした。
「・・・誉めてるんだよな?」
「もちろんです。強くて柔軟なあなただからこそ、サルを止めることが出来た。」
 桂花は柢王をまっすぐ見上げ、そして笑った。
「・・・誉められるってのはいいもんだな」
 柢王も笑った。そして向き合っているのをいいことに、さっさと桂花の腰に手を回して引 き寄せようとする。桂花はにっこり笑って自分から進み出ると見せかけ、さっと横合いから 手を伸ばして柢王の額にその冷たい掌を押しつけた。
「・・・柢王、今がどういう状況か分かっています?」
 布越しでもわかる額の熱さに桂花の紫瞳が剣呑な色を帯びる。
「・・・力づくは難しそうだな」
 後が怖い。
「病人相手に負けてやる気はありませんね」
「普通は逆だろ」
「自業自得でしょう?」
「・・・・・ええと 柢王、桂花、そろそろいい?」
 書類を書き上げたティアがおそるおそるといったふうに別室の前で声をかけてきた。
 それを期に桂花は柢王をそっと押しのけた。
「後のことは南の方々に任せて、とりあえずあなたは寝台に戻りなさい。・・・東の審議はあ なたの体調が戻ってからです」
 断固たる桂花の口調に柢王は苦笑しつつ頷いた。たしかにこの体調で動き回っても、ろく な成果は上がらないだろう。なごり惜しげに桂花の腰から手を離すと、桂花はさっさと柢王 の横をすり抜けて執務室に戻ってゆく。ただし、すれ違いざまに「後で様子を見に行きます から」と言い残していった。柢王はくすぐったそうに笑って執務室に戻り、部屋を横切って 桂花の部屋に行こうとしながら言った。
「・・・まったく、アシュレイも1/19の確率とはいえ、魔族入りの岩を引き当ててんだか ら、ある意味すげークジ運いいよな」
 からからと笑う柢王の言葉に、桂花とティアが顔を上げた。
「・・・柢王、今、なんて言った?」
 おそるおそると言った風に聞き返すティアの声音が堅い。
「? だから、クジ運いいなって」
 執務室の扉の前に立った柢王が首をかしげながら言い直す。
「―――じゃなくて その前! 何の確率って?!」
「1/19の確率のことか?」
 ティアが大きく目を見開いた。
「・・・! ―――桂花!」
「捜しています!」
 振り返って叫ぶティアに、すでに慌ただしげに資料の束をかき回して捜している桂花が叫 び返す。
「・・・ありました! 完成後の俯瞰図です!」
 執務机の上に広げられた一枚の書類を、ティアと桂花、そして足早に戻ってきた柢王が覗 き込んで顔をしかめた。
「・・・どういうことだ? この図が正しいとすると、岩は18個しかないぞ」
「魔族入りの岩があったと思われる場所はどこですか?」
「南領側の川向こうだ」
 俯瞰図に書き込まれている18個の岩は、川を隔てた両側に配置されていた。川よりこち ら側の天主塔寄りに9個配置、そして川向こうの南領寄りに9個配置されている。
「川をせき止めるために俺が両側の岩を一個ずつ砕いたから残りは16個だ。念のため一つ 一つ数えながら霊気を叩き込んだから憶えている。間違いなく16個だ。けど、あいつは岩 ごと魔族を滅ぼしたって証言―――おい、ティア! アシュレイ起こせ! いや、いい俺がや る!」
「あああ! ストーップ! 柢王! 待った! 駄目! 暴力厳禁!」
 当事者に聞くのが一番だ、と柢王が長椅子に眠っているアシュレイを叩き起こそうと、 指をぼきぼき鳴らしながら大股に歩み寄るのを見てティアが悲鳴を上げた。

「・・・一撃で倒すとは、な―――。」
 低い声のつぶやきに、ぱちりと軽く堅い音が重なった。
 暗い色の水に囲まれた寝殿造りの館の一室で、声の主人はゆったりと脇息にもたれかかり、 壁に光の道を通して映し出された天界の光景を見つめていた。片手に持った扇を開いたかと 思うとすぐ閉じるという手慰みのような事を繰り返している。先ほどの音は扇を閉じた音で あるらしかった。
 暗い湖面を揺らす風はひんやりとした水気を含み、暗がりに沈んで果ての見えない冥界に 吹きわたる。
 その風は、室内にいる声の主人の長い金の髪をゆらし、その背後にひっそりと控える女の 見事な赤毛をもゆらした。
「予定外もいいところだ。・・・あの赤毛の力を見くびりすぎていたと言うことか」
 その低い声は、むしろ予定外になったことを楽しんでいるようだった。
 壁には、中央と南の境、南の太子が魔族を破壊した場所を背景に飛び回る兵士達が映し出 されている。
 ふいに画面が切り替わり、未だ土煙と水蒸気をあげる場所を、熱い蒸気や土煙の層の合間 を縫って飛ぶ青い小鳥の姿が映し出された。
「・・・あの竜鳥、先ほど天守塔の結界内に一度入っていたな」
 ぱちりと扇をならして、声の主人は低い声で笑った。
「ちょうどいい。今一度使者として天守塔に入ってもらおうか。」
「・・・・・」
 彼の背後に控える女は、主人の意に応じるようにただ深々と頭を下げた。

 

続く。


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