投稿(妄想)小説の部屋・別館

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清緋揺籃


【1】

 銀光が空間をなぎ払った。閃光を追うようにして黒い血が噴きあ がり、 黒い肌を持つ魔族の男が肩口を割られて地に転がった。
 稲妻の走る薄暗い魔界の空の下、魔界のいたるところに口を開く 魔風窟の手前の草地で、小競り合いが行われていた。
 十人以上の男たちに対するのは、紅玉を溶かし込んだような見事な紅髪を持つ一人の女。
一見、多勢に無勢のようだが、戦いの主導権を握っているのは、襲われている女ほうだった。
突っ込んできた男をかわし、その背に切りつける。返す刃で、その一群の 頭領格と思える男めがけて女は跳躍した。
 小柄で華奢な体からは想像もつかないほどの強靭な肉体を持つこの女は、 彼らの頭上を高く飛び越えて、頭領格の男の前に降り立った。
 男が最後に見たものは、空の稲妻を映し、真紅に見開かれた女の瞳であった。
 ものすさまじい速さと重さをそなえた白刃が、核を深々と貫き、勢いあまって 男の体は胸に剣を残したまま、後ろに吹っ飛んだ。
 一瞬のことであった。男達は呆然として、倒れた男の傍らに立つ女に畏怖のまなざしを向けた。
「・・・まだやる?」
 胸に突き立った剣を死体の肩を踏みつけて引き抜きながら、女はきついまなざしを こちらに向けて問うた。青い血が噴きあがって、女の白い頬に散った。
 血振りをして剣を鞘に収め、傍に放りだしてあった荷物を肩に担ぐと、 女は歩き出した。動かない男たちを一瞥すると、男達は飛びのくようにして道をあけた。
女は悠々と歩を進め、ぽっかりと開いた魔風窟の入り口へと姿を消した。
追いかけようと言い出すものはいなかった。

「・・・完全に迷ったわね。これは・・・」
 暗い魔風窟の内部で、額にたれかかった真紅の髪をかきあげながら女はため息をついて 立ち尽くした。
 胸元が大きく開いた黒い上衣からのぞく白い胸には、真紅の刺青が 百花の王を思わせる絢爛さで咲いている。だが、きついが整った顔立ちや、 強い知性の宿る真紅の瞳、華奢とも言える四肢には、女の持つやわらかさはなく、 むしろ内に秘めたすさまじいエネルギーを硬い殻で幾重にも覆ったままの、 鋭く尖った春先の蕾の印象を思わせる女だった。
 女の名は、李々、といった。

 縦穴、横穴の入り組んだ魔風窟は、出口のない迷路のようだ。
 通路の岩盤に這う、光る地苔類はぼんやりと足元を照らしてはくれたが、 暗い行く先を照らしてはくれなかった。中途半端な明かりは、見えないところに 何かを潜ませているようで、逆に不安を掻き立てられる。
 どこからともなく風がひっきりなしに吹いてくるので、窒息の心配はない。
 だが、風が通り抜けるときに起こる擦過音が、悲鳴やうめきに聞こえないこともなく、 五感を研ぎ澄まそうとする李々の神経を逆撫でた。
(・・・まさに、魔風窟、ね)
 魔族がここをあまり住処としたがらない訳がわかったような気がした。
 神経が太い者でも、ここに一人でいれば、末は狂い死にだ。
「・・・まったく、魔界に抜けたと思った途端にあいつらに襲われたりさえしなければ、 こんなところに逆戻りをしなくてすんだのに・・・」
 追いかけてくることを警戒して、道を一本はずしたのが運のつきだった。
 ある程度のそなえはあるが、岩盤と地苔類がほとんどを占める魔風窟で、 このままさ迷い続ける事になれば、どういう結果を招くことになるかなど、 わかりきったことであった。
「冗談じゃないわ」
 行く当てもなく、引き寄せられるようにここに来てしまったが、死にに来たわけではない。
「冗談じゃないわ」
 自分に言い聞かせるように繰り返すと、李々は歩き出した。
 まず、探すべきものは、水であった。

 半日歩き回った末、李々の並外れた感覚が水の気配を捉えた。
 気配をたどり、更に奥へと踏み込みながら、風の音が絶えたことに気づいた。
神経を逆撫でする、あの擦過音が聞こえないだけでも、気分が落ち着く。
 奥に行くにつれて、通路の幅は狭く、細くなり、小柄な李々が腰を折って 進まねばならないほどになった。
 引き返すことを本気で考え始めて、通路を曲がった李々の前に、いきなり光があふれた。
 通路の途中に、くりぬいた様に開けた空洞は、柔らかな白い光に包まれていた。
 空洞を覆う岩盤は、発光する石の成分が多量に含まれているのか、 空間そのものが、白く発光しているように見える。
 水源は、地面の中央にあった。大人二人が腕をまわしたくらいの小さな水場は、 満々と水をたたえ、岩盤の光を映した水面は、きらきらと輝いている。
「きれい・・・」
 魔風窟にも、こんな場所があるのかと李々が感嘆の声をあげた時、突如として 人の気配がこの空間に入ってきた。
「誰っ!?」
 鋭い声に、驚いたように立ち尽くしているのは、灰色の髪と、黒い肌の幼い魔族の子供だった。
 安心させようと、李々が笑いかけた途端、子供は目に見えて怯えた顔をして、 傍の横穴に逃げ込んでしまった。
「あ、ちょっと!」
 横穴は狭く、奥が見えなかった。どこに繋がっているのかもわからないので、 追いかけるのはあきらめた。
 大きな紫色の瞳がやけに印象的な子供だった。
 しかし、笑いかけた途端、逃げるとは。
「失礼しちゃうわ・・・」
 いささか憮然として、李々はぼやいた。

 

【2】

「・・・なに、あの水場からここって、こんなに近かったの?」
 李々は、数人がかりで襲われたあの魔風窟の入り口に立っていた。
 あの水場で休息をとった後、李々は子供が消えた横穴を通ってここに辿りついたのだった。
横穴は、李々が閉口するぐらい狭かったが、分岐点に目印のように小石が置いてあったため、 迷わずここまで来れた。
(あの子が置いたのかしら?)

 草地に歩を進めて、李々はぎくりと足をとめた。ここは、先ほど 李々が一人を殺し、 三人に傷を負わせた場所だ。だが、おびただしい血痕はともかくとして、 この、滅茶苦茶に暴れ回ったようなあとは? 土の上に残された、いくつもの爪痕は?
そして、眼前の森に続く、何か大きなものが這いずっていったような跡は?
 巨大な蛇が、暴れ回った後のようだった。
・・・この場に残された死体を喰らいに出てきたのだろうか?
「・・・・・・」
 ちがう、と李々の直感が告げていた。蛇は元来臆病な性質だ。
魔界の人型以外の魔族がどのような性質をもっているかは知らないが、 身を隠すところのない草地に、 堂々と単体で蛇が姿をあらわすとは思えなかった。
 ・・・だとしたら、これは何なのだ?
 何か薄ら寒いものを感じ、李々はゆっくりとあとずさった。
「・・・そこ、よくない」
 ふいに、声をかけられて、李々は目を上げた。眼前の森の木々の合間に、黒い小さな影が立っていた。
さっきの子供だ。
 紫色の瞳が李々を見ている。子供はためらうように、李々に向かって言った。
「そこ、よくない」
 まだ言葉に慣れていない、舌足らずな発音だった。
 だが、李々にとっては、初めて聞くまともな魔界の言語だった。
 子供はその一言を残すと、くるりと背を向けて、駆け出した。
「・・・待って!」
 李々は慌てて追いかけた。
 生れ落ちてから3年とたっていないだろうに、その魔族の子供は恐ろしく敏捷だった。
(・・・記憶にあるわ。授乳期が終わると、すぐ親から捨てられる魔族の子供は、 魔力を持たない代わりに恐ろしいほど丈夫な体と強い血をもってて、獣のように敏捷に動くことができ、 怪我をしても、すぐに治るとかって・・・)
 だが、強い血を持つがゆえに、その血肉を喰らって力を得ようとする、 魔界でも大多数を占める食肉獣に狙われやすく、子供はあまり育たないのだということも聞いた。
 そうすると、あの子供はこの苛酷な世界を今まで生き延びてきたということになる。
(・・・天界なら、あの年代って、親がつきっきりで面倒みなきゃいけないくらい、 弱弱しくて、危なっかしいのにね・・・)
 ツキンと鼻の奥が痛んだ。
 ・・・あの子は元気だろうか・・・
 天界に置いてきてしまった、小さな赤子。
 ・・・ぬくもりを憶えている。
 小さな手足が動くさまを憶えている。
 ちいさな重みを憶えている。
 その小さな重みを腕に抱え、そして、肩に回されたあたたかくたくましい腕を憶えている・・・
 授乳期がすんだあの赤子を、あの男の手にわたして、自分はその足でここへ来た。
「・・・っ!」
 歯を食いしばった。
 泣くわけにはいかなかった。
 自分で決めた別れだった。
 泣けば、全部嘘にしてしまいそうだった。 
 悲しいわけではない。・・・ただ、胸が苦しいだけだ。
 ぬくもりをなくした胸が寒いだけだ。
「・・・冗談じゃないわ」
 目頭をぬぐうと、李々はぐいと顔を上げた。
 前を走る子供が、一瞬だけ振り向いた。紫色の瞳が暗い木立の中で、ともしびのように光った。
 水音が李々の耳に飛び込んできた。
「・・・川?」
 森はすぐにきれた。幅はさほどないが、深い水量を湛えた川が目に飛び込んできた。
子供は河原に立っていた。李々が近づいても、今度は逃げなかった。
「・・・ひょっとして、ここに案内してくれたの?」
 子供は一定の距離をおいて李々に対しながら、こくんと頷いた。
「あそこ、こどもの、ばしょ。おおきいの、いけない」
 たどたどしい言葉で、子供は言った。
「おおきくなる、あそこ、いられない。つぎのこども、あげる」
「・・・・・・」
 魔風窟のあの水場は、一種の聖域だったのだ。
 生きにくい魔界で、あの狭い横穴を通り抜けられる小さな子供だけが逃げ込める場所。
それがあの場所だったのだ。
 あの場所は子供の聖域。そこで育つ子供は、大きくなれば、つぎの子供のために 開け渡さなければいけない。そんな暗黙の了解がある場所なのだ。
だから大人は立ち入ってはいけない。子供はそう言いたいらしいのだ。
「・・・・・・」
 だからといって、はいそうですかとは言えない李々だった。
 ここは魔界なのだ。
 李々の頭の中には、魔界のことや、魔族に関する知識はある。
 ただし、『知識』だけだ。
 経験に基づいて蓄積され、応用の出来る『知恵』ではない。
 襲われても、撃退する自信はある。しかし、昨日の今日まで天界にいた李々が、 知識があるとはいえ、いきなり魔界で暮らせるかといえばそうではない。
 しばらく様子を見ながら、徐々に慣れていくつもりだった。
それには、やはり帰ってくるところが必要だった。言うなれば、『家』のようなものが。
李々にとってあの場所はうってつけだと思われたのだが・・・。
 考え込んだ李々を、子供はしばらく見ていたが、脇をすり抜けると、今来た森へと引き返し始めた。
「あ、ちょっと待って!」
 振り向いた子供の背後の森がいきなり膨れ上がった。
 李々の目には、木々の間から延び出た、緑灰色の細いツタが何百本と絡み合いながら、子供めがけて襲い掛かったように見えた。
「・・・!」
 李々は全速力で駆け寄るなり、子供を抱え上げて後ろに飛んだ。
飛びながら、絡み合って一本の巨大な綱のようになってなだれ落ちてくるツタを、李々は剣で切った。
切り口から青黒い液が噴出し、ツタの群れは痙攣しながらばらばらに解けると、 出てきたときと同じような唐突さで森の中に消えた。
「・・・な」
 李々に切り落とされたツタが、地面で蛇のようにのたくっている。
「・・・なんなの、あれ」
 子供を抱えたまま、李々は呆然と呟いた。魔界では、どこにでもあるような植物のツタが、人を襲うのか?
「・・・まぞく」
 腕の中の子供が身じろぎして、李々の腕の中から抜け出した。
「あれ、まぞく。みどりいろ、まぞく、たくさん、もり、いる。 まかい、まぞく、みんな、しる」
 子供はいぶかしむように李々を見上げた。なぜ知らないのか? というようなまなざしだった。
 李々は一瞬返答に窮した。
「・・・魔界は、初めてなの。ずっと、別の所に住んでいたの。 だから、魔界のことはよく分からないの。 そうね、ここではわたしは何も知らない子供と同じなのかも・・・」
 子供は首をひねっていた。この子供は、たどたどしい口調の割に、李々の話す言葉はすべて理解しているように見える。この子供の賢さに賭けてみようと思った。
「あの水場を見つけたとき、すごく嬉しかった。魔界のことを何も知らないから。 あの場所から魔界を見て、魔界の暮らしに慣れるまでの間、暮らすにはとてもいいと思ったの。」
 子供は李々を見上げている。
「だからお願い。きみの邪魔になるようなことはしないから、 魔界に慣れるまで、しばらくあの水場にいることをゆるして。」
 子供は一瞬ためらったあと、こくんとうなづいた。
「ありがとう」
 李々は笑った。
 途端、子供は怯えた顔をし、背を向けて逃げようとした。
「ちょっと! 何で逃げるの?」
 暴れる小さな肩をむんずと掴み、ふと気づいた。腕が真っ黒に染まっている。 よくよく見れば、服も、あちこち黒くなっている。
 この子供を抱えて飛んだときに、ついたものだと気がついた瞬間、李々は子供を 傍に流れていた川に放り込んだ。水が一瞬黒くなった。子供が浮いてきたところを再び捕まえ、自分も川に飛び込むと猛然と子供を洗いにかかった。
「何たって、こんなもの体に塗ってんのよ!」
 川に放り込まれたときに逃意喪失したのか、子供は李々のされるがままに大人しくしていた。
「・・・あ・・・あら?」
 荷物の中に入れていた石鹸も使って洗い上げられた子供に、李々は目を丸くした。
 前髪に一筋紅い尾髪のある、柔らかな光を放つ白い髪に、紫微色の肌。知性の宿る大きな紫色の瞳。
 派手な美貌ではないが、誰からも愛されるような、野に咲く可憐な花の印象を思わせる、綺麗な子供だった。
 あっけにとられた李々の驚きをよそに、当の本人は、石鹸のにおいに不思議そうな顔をしていた。

 

【3】

 水場のある空間に二人して戻り、子供の髪をくしけずってやりな がら、 李々は、なぜ、体に炭など塗っていたのか、と問うた。
 この子供は、野営の後などに残る、木を燃やした後の木炭などを、体や髪に塗って黒くしていたのだ。
「…しろい、けもの、ころされやすい」
 確かに、暗い魔界や魔風窟で、この色はよく目立つ。
「けものの、はなから、にげられる…」
 炭の脱臭・浄化作用は、昨今周知の事実である。
 魔界や魔風窟で、子供を襲うのは、魔族だけではない。獰猛な魔獣も横行するここで、 大型の獣に襲われたら、子供などひとたまりもない。
(この子、すごく賢い…)
 李々は、この子供の観察眼と、実践力に驚嘆した。
 この子供は、必死で生き延びるすべを考え、今まで、命を永らえてきたのだ。
「・・・ねえ、名前はなんていうの? 私は李々っていうの」
 子供は小さく首を振った。
「名前・・・ないの?」
 子供は小さくうなづいて、おずおずと言った。
「はは、いった。・・・さいしょ、ころす、なまえ、もらう・・・」
 つまり、最初に戦って殺した相手の名前を、自分の名前にしろ、ということだった。
「・・・・・・」
 李々は天井を仰いだ。こともあろうに、母親はこんな小さな子供にとんでもない事を教え込んだ挙句、 捨てたというのか。
 自立をうながすとか、そういう以前の問題だった。それとも、魔族というのは、 皆そういう風に育てられているのだろうか?
 視線を子供に戻す。大きな紫色の瞳が、李々を見上げている。
 李々は膝をおとして、子供の瞳を覗き込むようにして言った。
「・・・名前というのはね、奪えるものではないの。名前というのは、その人そのものなの。 その人の生きてきた歴史そのものをあらわすものなの。 だから、たとえ、奪ったって思ってても、それは違うの。 きみはその人にはなれないの。だって、きみは、きみにしかなれないのだから。」
 ・・・こんな小さな子供に何を言っているのだろう、と李々は思った。
 昔、とある赤子の傍で、その影に潜むようにして、護り育てながら、その子供の望むままに 行動をおこしたことは、数え切れないほどあった。
だが、話し掛けたことなどなかったから、今、この場に到って、この子供にどう言ったら 理解してもらえるのかすらわからなかった。
 李々にとって幸運なことに、この聡明な子供は、言葉の意味を理解した。
つまり、悲しい顔を見せたのだった。
「悲しまないで。そうじゃないの、名前ってのは、奪うんじゃなくて、貰うものだって、言いたかったの」
 李々は更に、子供の瞳を覗き込んだ。
「私が、きみに名前をあげるから」
 
 とはいえ、李々は、迷っていた。
(この子は、男の子なの? 女の子なの?)
 子供の性別がさっぱり分からないのだ。
(『魔族の子供は、性別も自由自在に変えられる』って記憶の中にはあるけど・・・。
体を洗ったときの感じからして、この子はそのどっちでもないみたいだし)
 李々は更に記憶を探った。
(・・・ええと、『生まれてしばらくの魔族の子供は、両性の形態が未分化のままで体内にあって、 一定時期まで外見も本質も、男性でもなく女性でもない。』
・・・つまり、今は『無性』の状態で、この子が性別を獲得するのは、もう少し成長してからってこと?)
 李々は、記憶を探るのを止めた。知識は得てして、必要時に役に立たない事が多い。
性別云々で名前を決めるのはやめたほうがよさそうだった。
 李々は、考えるようにあたりを見渡した。
 白く淡い光の満ちる、子供の聖域。
 この光は、何かに似ている、と考え、すぐに思い当たった。
(・・・そう、月光よ。夜の安息を約束してくれる月の光に似ている)
 月の光のような空間で出会った、綺麗な子供。
 ・・・月には大きな桂の木があって、香りたつ淡い金色や銀色の花が 咲きこぼれているという・・・
 ふとそんな話を思い出した。
「・・・桂、花。・・・ケイカ」
 声に出してみた。音の感じも悪くない。
「桂花、がいいわ」
 李々は子供の目を覗き込んで言った。
「きみの名前は『桂花』よ」
「・・・けいか」
 子供は不思議そうに慣れない舌で発音した。
「そう、桂花」
 子供はうつむいて、慣れない舌で何度か繰り返していたが、
やがて顔を上げて、こっくりと頷いた。
 大きな紫の瞳が、嬉しそうに輝いている。
 桂花は李々を見上げ、何かを言いかけ、困惑したように口をつぐんだ。
 己の言葉の少なさを、もどかしがっているようだった。
 李々は、桂花が何の言葉を伝えようとしているのかを、理解した。
 李々の記憶では、魔族の使う言語で、その言葉は抜け落ちている。 ・・・魔族には必要のない言語・・・。
「・・・『ありがとう』よ。」
 天界語なのは承知の上で李々は言った。
「こういうときの、言葉は、『ありがとう』って言うの」
「・・・ありが、と。」
 たどたどしく、桂花は言った。
「なまえ、ありがと。・・・みどりいろ、まぞく、にげる、ありがと」
 植物の魔族から助けたときのことを言っているのだ。
 桂花のかわいらしさと妙な律儀さに李々は思わず笑った。
 途端、桂花は目に見えて怯えた顔をし、李々に背を向けて逃げようとした。
「ちょっと! 三度目じゃない!」
 李々はがっきと桂花の肩を掴んで自分のほうに向きなおした。
 桂花は李々を見上げ、おそるおそるといった風に言った。
「・・・おこる、ない?」
「怒ってないわよ。でも逃げたら怒るかもね。何で笑ってるのを見て、逃げようとするの?」
 桂花は首を傾げた。
 ・・・ひょっとしたら、この子は『笑う』ということを知らないのでは・・・と、
(そういえば、不思議そうな顔はしても、笑顔は一度も見ていない。初対面の警戒心からと思っていたが・・・)
李々が不安になった瞬間、桂花は不思議そうに言った。
「けもの、おこる。は、みせる」
 李々は天井を仰いだ。
 ・・・確かに、『笑う』という行為は、人間だけのものだ。
 獣は笑わない。『歯を見せる』というのは、『威嚇行為』なのだ。
(・・・確かに、逃げ出すわね)
 安心させるための行為のはずが、威嚇していると思われていたのだ。
 ・・・桂花は賢い。でも、と李々は思った。
(でも、何かが違う…)
 

【4】

 銀光が一閃して、魔獣の鼻面を切り飛ばした。
 横合いから飛び掛ってきた獣の横腹に李々は容赦ない一刀を叩き込んだ。
内臓と黒い血が辺り一面にぶちまけられたが、李々にそれを構う余裕はなかった。
「桂花!」
 身を隠す場所とてない平原で、姿だけは狼に似た、体長は李々の倍ほどもある魔獣の群れに襲われた。
桂花を背に護りながらの善戦だったが、数の多さはどうしょうもなく、 気づいたときには彼女の養い児の姿が消えていた。
「桂花! 返事しなさい!」
 李々の声は魔獣の唸りと牙を鳴らす音にかき消された。
「・・・桂花」
 見渡しても、白い子供の姿はなかった。
 李々は唇をかんだ。
 正面から飛び掛ってきたものを横様に蹴り上げ、仰向けに地に落ちた所を逃さずに 李々はその魔獣の喉首に勢いよく足を落とした。
 陥没した喉首をさらし、断末魔の痙攣を繰り返す魔獣を踏み越えて、 李々は臆することなく、周囲を取り囲んだ魔獣を睨みつけた。
 自責の念は怒りへと転化し、その矛先は眼前の魔獣へと向けられる。
血で滑る柄をきつく握りしめると、嵐のような激しさで李々は群がる牙の中にその身を踊らせた。

 数十頭の獣の半数を斬り殺し、残りの半数が文字通り尻尾を巻い て逃げさってゆくのを横目に見ながら、 獣の死骸が折り重なる場所を、李々は歩いた。せめて、髪の一筋でも見つけたかった。
(・・・ごめんね)
 目の前の死骸の山が動いた。
 まだ生きてるのがいたか、と、李々が剣を抜きかけたとき、 重なった死骸の腹のあたりから、黒い小さなものが這い出した。
「つぶされるかと思った・・・」
 李々はぽかんと血で真っ黒に汚れた頭をぷるぷると振る子供を見た。
「・・・桂花?」
 子供は李々を見、それから死骸の腹あたりを探り、短剣を取り出した。
李々がいつも剣帯につけている短剣だ。
「黙って借りてごめん。・・・3頭しか手伝えなかった」
「・・・・・・・」
「・・・李々?」
 李々は走りよって、ものも言わずに子供を抱きしめた。
 魔獣の巨体に押しつぶされかけた子供は、今度は李々に抱きつぶされることとなり、小さな悲鳴をあげた。
 養い児に傷一つないことを確認して、血で汚れた髪をかき上げてやりながら李々は笑った。
「・・・こんな風に真っ黒だと、出会ったときのことを思い出しちゃうわね」
「また、川に投げ込む?」
 二人は顔を見合わせた。最初に李々が笑い、桂花も小さく笑った。
「ばかね、そんなこともうしないわよ。・・・でも、体は洗いたいかもね。」

 水辺で体を洗っている養い児のおこした火に枝をくべながら、李 々はしみじみと思った。
(時間って、ほんとに経つの早いわよね・・・)
 桂花と李々の共同生活が始まって、数年が経とうとしていた。
 李々が持っている、魔界の『知識』が『知恵』に変わるまでにたいした時間はかからなかった。
 李々の庇護の下、桂花はすくすくと成長した。
 ただ生き延びるためだけの生活から、護られ、学びとってゆく生活は、桂花の表情を明るくさせた。
 桂花は、一度教えたことは二度と忘れなかった。また、李々のすることをそばで見ていて、 教えなくても次には同じように動いた。
桂花の記憶力と集中力と器用さに内心舌を巻きながら、優秀な生徒を持って李々は幸せだった。
(とはいっても、この魔界で教えられることといったら、ほとんどサバイバル方法ばっかりだけどね・・・)
 火の起こし方や、籠の編み方、食べられる木の実の見つけ方、また、木の実の渋抜きや、貯蔵方法。
 仕掛け罠や、狩猟道具の作り方、その使い方、そして狩の仕方。獲物の捌きかたや、毛皮や筋の利用方法等々。
 すべて、生き延びるための方法だ。
だが、効率よくこなす方法さえ知っていれば、費やす時間が大幅に短縮される。
 手のすいた時間に、李々は言葉や、さまざまな物語を桂花に教えた。
 李々とうまくコミュニケーションが取れるようになりたかったのか、
桂花は、いつにもました熱心さで李々の言葉を習った。

 体を洗い終え、腰に布を巻きつけながら近づいてくる養い児を李 々は見た。
人型の魔族特有のすらりと華奢な体つきから来る『無性』の印象は出会った当初からあまり変わっていない。
だがしかし。
(正直、桂花が男性体を選ぶとは思わなかった・・・)
 出会った当初、李々の腰のあたりまでしかなかった桂花の身長が、 今や、胸下まで伸びている。
背を追い越されるのはそう遠い事ではなさそうだった。
 綺麗に血糊を落とした短剣を李々に返しながら、桂花が訊ねてくる。
「李々、その剣の事だけど。刃をつぶしてあるの?李々みたいに斬る事が出来なくて、突く事しか出来なかった」
「そりゃそうよ。だってこれは刺突用の剣だもの。」
 養い児が首を傾げた。そんな仕草に李々は思わず頭を撫でてやりたい衝動を抑えた。
最近の桂花はそういった子ども扱い(李々から見ればまだまだ膝の上で抱いていてやりたい 小さな子供なのだが)される事を嫌うようになっている。元々、独立心が旺盛な子供だったが、 最近それがますます顕著になっている。それが李々にはなんとなく寂しい。
(・・・第一次反抗期なのかもしれないけど、男の子って、なんかつまんない・・・)
 いつだってその瞳を外の世界に向け、庇護者の下を飛び出していってしまおうとする。
(・・・あの子も、もう少し経ったらこんな風になるのかしら?)
 置いてきてしまった子供の事を李々は想った。
 自分の目で世界を見、肌で感じ、言葉を学び取ってゆくのが一番楽しい年頃だろう。
 自分の足で立ち、興味の対象を見つければ庇護者の手を無邪気に振り払って、 気の向くまま、風を巻いて走っているのかもしれない。 
・・・李々が憶えているのは、小さなあの重みだけだ・・・。
 胸元が寒くなった気がして、李々は想いを振り払った。
「桂花、これをあげるわ」
 鞘にはいった短剣を投げてよこす。
「刺突用の小さいやつだけどね。斬りつけるより、刺す方がダメージが大きいのよ。力も少なくてすむしね。・・・どう使えばいいのか、どこを刺せばいいのかは、おいおい教えるわ。 まあ、急所なんて、動物も、魔族も天界人も人間も、似たり寄ったりだけどね」
 彼女の養い児は短剣をしばらく眺めていたが、どうせなら李々のように、長剣を使って闘う方法を 教えてほしいと言った。
「桂花。『斬る』って言うのはね、ちゃんと刃を押しあてて強く引かないと斬れないのよ?  ただ振り回せばズバズバ斬れるってものじゃないの。そうするには相当の力が要るの。 今の桂花の体じゃちょっと無理ね。もっと大きくなって、体がちゃんと出来上がってきたら教えてあげる」
「・・・今から体を鍛えちゃだめ?」
「だめよ。体もまだ出来上がってないうちから鍛えたら、背が伸びなくなるもの。 それでもいいって言うなら教えるけど?」
 この一言が効いた。
 桂花は体を鍛えることについて言わなくなった。

 李々は桂花の良き師匠であり、母であり、姉であった。
 桂花は彼女の優秀な弟子であり、息子であり、弟であった。
 李々と桂花の共同生活は平穏のうちに過ぎてゆく。
 
 その平穏の上に、災難が降りかかろうとしている事など、二人は知る由もなかった。

続く。


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