投稿(妄想)小説の部屋・別館

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清緋揺籃

 
【5】

「李々、つけられている」
「誰が? わたしが? 桂花が?」
 足跡を慎重につけ、半日がかりで仕留めた獲物を片手に桂花がうかない顔で言った。
「多分、李々。吾が狩りに出かけた後、この野営地の周囲を足を引きずるようにしてぐるぐる回っている跡が残っていた。変だとおもって前の野営地にも行って 見たら、同じような跡が残っていた」
「・・・変ねえ・・・。気配には敏感なつもりだったけど。」
 魔界には定住という言葉は存在しない。ほとんどが野宿だ。そもそも『家』という概念すらない。李々と桂花も、あの洞窟を出て以来、広い魔界の一ヶ所に留 まることをせずに頻繁に野営地を移動させていた。最初は、単に住みやすいところを探しての移動が多かったのだが、最近はほぼ一日おきに野営地を移動させて いる。

 ここのところ、李々や桂花の美貌に目をつけ、良からぬ事をしよ うと襲ってくる連中が後をたたないのだ。
 ここ最近の桂花の成長ぶりはすさまじい。面差しにまだ幼さは残るものの、大人びた表情をよく見せるようになった切れ長の綺麗な紫色の瞳。出会った当初に 感じた可憐な花の印象は影をひそめ、見たこともない大輪の蕾の印象を思わせるようになってきた。 
 身長も李々の肩まで伸びている。すんなりと長く伸びた手足や首は相変わらず華奢だが、狩で鍛えられている敏捷な体はある種の緊張感を伴って煽情的ですら ある。
 見慣れている李々ですら時々どきりとさせられるのだから、桂花を始めて見る魔族が良からぬ心を抱いても無理はないとはいえ、襲われればその度に撃退する こちらの身にしてみれば、こうも続くと心も体も休まらないというものだ。
 桂花も剣の腕を上げているが、年齢から来る、力や体格差はどうしょうもなく力で押されて悔しい思いをする事が多い。それをまた李々にフォローされること にかなり負い目を感じているようだ。
 李々はそれを知っているからこそ、ことさらに明るく言い放った。
「・・・ま、大丈夫よ。剣さえあればどんな奴にだって負けない自信はあるしね。」
「頼もしいね」
「ついでに桂花も護ってあげるから安心なさい」
 桂花がいやぁな顔をした。その顔がかわいくて、李々は思わず笑った。とりあえずは、野営地を別の場所に移したほうがいい、ということで二人は早速荷物を まとめる事にした。

 警戒を続けながらの数日は瞬く間に過ぎた。引きずるような足跡 の主はよほど鋭敏な嗅覚でも持っているのか、着実に二人の後を追ってきている。迎え撃とうにも気配に敏感な李々ですら相手を認識できないのだ。どうやら標 的は自分と思われるだけに、相手を見つけられない李々の苛立ちは日毎に募った。そんな折、桂花が珍しく息を弾ませて帰ってくるなりこう言った。
「李々とはじめて会った洞窟の事覚えてる? 今ちょうどその近くに来てるらしくて、狩をしてるときに見つけた。今のとこ誰も使ってなくて空いてるみたいだけ ど・・・」
 見上げてくる瞳がいたずらっぽい光を湛えている。
「いいわね」
 李々は桂花の提案にのる事にした。
 この殺伐とした日々に、ちょっと疲れてきたところだ。
 誰も使っていないのなら少しの間休ませてもらってもバチはあたるまい。もし、足跡の主が追ってきたとしても、あの狭い魔風窟の通路内なら一対一で闘う事 も可能だ。
「決まりだね。吾が先に荷物を運び込んでおくから李々は後からゆっくり来ていいよ」
 そうしてさっさと荷物を取り上げると、歩き出す。途中一度だけ振り返って目だけで笑った。
「・・・『三つ子の魂百まで』って言うけど、ホント、相変わらず笑うのヘタよね〜。昔みたいにこっちが笑うのを見て逃げ出さなくなっただけ進歩だけど」
 ぼやきながら、李々は微笑んだ。最近の桂花を見ていると、なんとなく嬉しくなる。例えば狩の合間に綺麗な花や石を見つけると、土産として李々にくれる。 荷物を運ぶときでも軽いのを李々に持たせ、自分は重いほうを持つ。さっきの洞窟の件にしても、苛立ちにより鬱屈している李々の気をほぐそうと思ってくれて の事だ。何気ないことや仕草に気働きが感じられて、李々は育て方を間違っていなかった、と嬉しくなるのだ。
(・・・でも)
 でも時々思うのだ。魔界には魔界の生き方がある。環境も生活習慣も言語も何もかも違う魔界の民。魔界で生まれた桂花に、生き延びるためとはいえ李々は自 分の常識と生き方を習わせた。吸収の早い桂花は、それら全てを体得してしまった。最近は教える事がなくて困っているくらいだ。
 魔界『以外』の言語や文字、歴史や事象を教える事は出来る。しかし、それは魔界で生きていくために必要な知識ではない。戯れに教えた知識が、原始的な魔 界では通じるはずもなく。
 李々はぞっとした。
 与えられる知識を吸収し更なる知識を得ようとする桂花は、おのれの知識と魔界とのギャップにいつか押しつぶされ、魔界では生きていけなくなるかもしれな い。
 それが恐ろしくて李々は桂花に魔界以外の世界の事を教えられずにいる。・・・だがそれももう限界だ。
「・・・・・・・・・」
 李々は空を見上げた。木々の枝の合間から、さまざまな色彩の稲妻が雲の合間で閃いている。遠くに高くそびえる嶺の中程を巨大な岩が地響きを立てながら移 動してゆく。魔獣や植物の魔族がざわめきながら逃げ惑うのがよく見えた。
 植物にも鉱物にも命が宿る混沌たる世界。・・・魔界。
 生命の密度の濃さに息切れしそうだ。
「・・・・・・」
 最初に創られた、世界。
 最初に創られた、生命。
 ・・・そして、最初に捨てられた、世界と、生命・・・。
(なぜだろう・・・)
 太古、ここは祝福された地であったのに。
 万物に生命が宿り、美しい人々が暮らす地であったはずなのに。
(なぜ、魔界は廃棄されたのか・・・)
 李々の記憶を探っても、それに関する知識はなかった。

 間近で小枝を踏み折る音が物思いに沈んだ李々を現実に引き戻し た。侵入者用のトラップとして李々があちこちに仕掛けておいたものだ。飛び退り、侵入者が驚くほど近くに迫っていた事に李々は愕然とした。
(・・・気配に気づかなかった!? この私が?)
 侵入者は逃げるでもなく隠れるでもなく、また、跳び退った李々を追いかけようともせず、そこに立っていた。黒い肌の男で、全身枯れ枝のように痩せている のに腹が異様なまでに膨らんでいる。左の肩口に刃物で斬ったような傷口があり、青黒い肉が盛り上がっているのが見て取れた。
 男の顔と肩口の傷に李々は見覚えがあった。確か、魔界にきてすぐ、李々を襲った一団の中にいた黒い肌の男だ。
 あの時、確かに肩口を斬った。即死でないにしろ相当の深手を負わせたので、とうの昔に命を落としていると思っていた李々はその事をすっかり忘れていた。
 男が足を引きずるようにして近づいてくる。男の目は白く濁り焦点が合っていなかった。力なくぽかりと半開きになった口は唇が乾ききってめくれあがり、歯 列がむき出しになったその奥にからからに干涸らびた舌が見える。足を引きずるように踏み出すたびに、首が大きく左右にゆれた。
「・・・・・・」
 剣の柄に手をかける。首の後ろが、じっとりと汗で濡れているのがわかった。
 気配が分からなくて当然だ。この男はすでに死んでいる。命のないものに気配はない。
「言っても聞こえないかもしれないけど・・・それ以上近づけば、斬る。」
 男は十歩程はなれた所で足をとめた。がくがくと首を揺らしながら、力なく空いた男の口から言葉が流れ出た。
『・・・怖い怖い。殺気の塊のような女だ。知っているか? お前の放つ「気」を恐れて、植物や小さな魔族は逃げ出してしまうのを。・・・お前達をつけるのは 簡単だった。魔族の気配が少ない場所にいけばお前達が見つかるのだから』
「・・・・」
 多少くぐもった声だったが男の乾いた舌は動いていないことを李々は見ていた。言葉を発したのが黒い肌の男でないのだとするのなら、この男を操る他人がい るはずだった。だが、気配が感じられない。
『どこを見ている?』
 男の体が大きくふるえた。男の異様にせり出した腹がぐにゃりと動いた。・・・ちがう。男の腹に住む何かが身じろぎしたのだ。
 男の肩口にある傷がみしみしと音を立てて広がるのを李々は見た。その肩口の傷を押し広げるように青黒い肉塊が蠕動している。肩の傷はさらに大きく裂け、 青黒い色の傷口を肩から胸へ、胸から腹へと広げつつ、男の半身は生木が裂けるような音を立てながら李々の眼前で二つに裂けた。
 胸の肉が裂けて垂れ下がり、内側の青黒い肉隗が露出した肋骨の間を蛇のようにくぐって肩の上まで伸びあがった。
「・・・・・・!」
 悪夢のような光景だった。李々の脳裏で警鐘が鳴り続けている。にもかかわらず、剣の柄に手をかけたまま李々は凍りついたようにその場を動く事が出来な かった。
 青黒く蠕動する肉隗の表面が泡立ち、男の顔が浮かび上がる。  その顔が魔風窟の前で胸を刺し貫いた男の顔だと思い当たった時、李々の頭の中で鳴り続け ていた警鐘が一際高く鳴って記憶の一つをはじき出した。
『憑依』
 己の体の一部を媒体にして相手の体に侵入侵略し、相手を完全に己のものにするか、もしくは共生するという、魔族だけがもつ異形の技。
 ・・・桂花と始めて会った時の、あの森の惨状。
 あの爪あとや、何か大きいものが引きずられたような跡。
 直後に植物の魔族と遭遇したので、失念してしまっていたが、
 あの、のた打ち回り、地に刻まれた爪跡は、憑依されたときの男の断末魔の跡であったのだとすれば・・・
 男の肩の傷口から入り込み、侵略しながら、身を隠すために、森へと這いずってゆく異形の魔族の姿が目に浮かぶようだった。
『・・・この体は腐りかけてもう役に立たない。・・・新しい体を探して探して、ようやく見つけた・・・』
 眼球も歯もない、肉隗だけで形作られた面のようなその口から明確な言葉が放たれた。
「・・・な・・・?」
 言葉の意味を捉えかねてたじろいだ李々のその一瞬の隙を突いて肉隗は黒い男の体から抜け出、ぐうっと撓むなり李々目がけて十歩の距離を跳んだ。
「・・・・・・!」
 ぐにゃりとした青黒い肉隗が眼前で傘のように広がり、咄嗟に上げた李々の右腕に張り付いた。肉隗は生暖かく、蠕動を繰り返しながら明確な意思を持つもの のように李々の腕に巻きついた。
 引き剥がそうと肉隗を掴んだ左手が、途端ずぶりとめり込んで剥がれなくなった。
 己が『憑依』の標的にされた事をようやく悟り、李々は己の失態と嫌悪感に鳥肌を立てた。

 

【6】

「・・・・・・!」
 万力のように締め付けてくる肉塊に完全に両腕を封じられ、李々 は己の失態を悔いた。
 完全に己の失態だった。
 目前で繰り広げられた光景のあまりの異様さに、体がすくみあが ってしまっていたのだ。
 あまりにも異質な光景だった。
 李々の持つ常識を凌駕し、紛れもない恐怖となって、李々の体を 拘束して動けなくさせたその隙をつかれたのだ。
 その一瞬の隙が、命取りとなった。
 肉隗の一部が蛇のように長くのびて腕を伝い、首まで這い上がっ てきた。生暖かい肉塊が首筋を這う感触に李々は総毛だった。
「冗談じゃないわ!」
 李々は必死に顔をそむけ、手近の木に腕ごと肉塊を何度も叩き付 ける。枝が折れ飛び、ささくれだった樹皮や小枝の破片が肉塊に突 き立って青い血をしぶかせたが、這い上がってくる動きが弱まった のは叩き付けた一瞬だけだった。
 宿主から離れて長くは生きていられない肉隗は顎の下まで迫って いた。おそらく顔を覆い、窒息させて失神させた後、口腔より入っ てくるつもりなのだろう。
(・・・冗談じゃ・・・!)
「李々!」
 彼女の養い児がこちらに走ってくるのが見えた。
「来てはだめ!」
 叫んだ瞬間を狙って肉隗が伸び、顔全体を覆おうと一気に広がる。
「ぐ・・・っ!」
「李々!」
 走りよった桂花が肉隗を引き剥がそうとして、右手を捕えられた。
 かろうじて首をひねり、顔の左半分を覆われるだけで防いだが、 肉隗は徐々に広がりつつある。顔全体を覆われるのは時間の問題だ った。
 頑強に抵抗する李々より子供のほうが憑きやすいと見たのか、肉 隗は桂花にも巻きつきかけている。
(このままじゃ、共倒れになる!)
 ・・・こんなときはどうしたらいいのか、李々は必死で記憶を探った。
(血と、血とを、闘わせるしかない・・・!)
 覚悟を決めた。
 李々は養い児を見下ろした。
 せめて、桂花だけは逃がさなければならなかった。
「・・・桂花、時間がないからよく聞いて。こいつを引き剥がすには血 が大量に必要なの。だから桂花の持ってる短剣で、私の首を突きな さい」
「・・・・・李々!」
「即死にいたる急所は教えたはずよ。・・・うまく外してね」
「そんなこと出来ない! 他に方法は?!」
 首を振り、半狂乱になって叫ぶ桂花の首にも肉隗は巻きつきかけ ている。
「ないわ。血で戦わせても勝てないかもしれない。でも何もせずに あきらめるのは絶対にいや。失敗したとしても、憑依され・・・」
 肉隗が口や鼻まで覆って、李々は息がつげなくなった。
 なんとか侵食を免れている右目と白い頬が、息苦しさに引きつる のを見て、桂花は意を決したように唯一自由な左手で短剣を抜くと 刺突用の短剣の先を李々の首筋に押し当てた。手が微かにふるえて いる。
 息苦しさの底で、李々は桂花を見返した。ためらうな、と目で促 す。
 先に力が込められ、その後に来る苦痛を李々が覚悟した瞬間、唐 突に刃の感触が消えた。
 驚く李々の目線の先で、桂花は握った短剣を逆手に持ち替えると、 捕えられた己の右腕に幾度も突きたてた。
「李々から離れろ! 憑くなら吾に憑け!」
 白い血が迸り、青黒い肉隗に滝のように滴り落ちた。
 目を見開いた李々の頬にも、血は跳ねた。

 肉隗がいきなりふるえた。桂花の血が滴った場所から白煙が立ち 上り、強酸を浴びたかのように溶け崩れ始めた。
 肉隗は声なき絶叫を上げ、痙攣しながら収縮をはじめた。
 魔力を持たない魔族の子供を生かすための、唯一の武器である強 い力を内在した血が、今、猛毒となって、肉隗を蝕み始めたのだ。
 腕を捕らえた力が弱まった瞬間、李々は顔面を覆った肉隗を引き 剥ぐと、息を継ぐのも忘れて叫んだ。
「桂花!」
 養い児はその場に崩おれていた。
 投げ出された腕に何箇所も開いた傷口から血が流れ出している。
 肉隗は白煙を上げながらさらに収縮し、李々から離れて地に落ち た。溶け崩れながら、なおも桂花に向かってにじり始めた肉隗に、 吐き気をこらえつつ李々は剣を振り下ろした。
 
 「桂花!」
 剣を地に突き立てたまま、李々はまろぶように走りよって桂花の 半身を抱き上げる。
 養い児は薄く瞳を開き、李々を認めてかすかに微笑した。
 体が冷たい。どんどん冷たくなってゆく。 
「なぜこんな無茶をしたの! ・・・どうして私を刺さなかったの!」
 桂花を巻き込んだのは私なのに・・・!
 声にならなかった。
 己を見下ろしたまま声も出せずに震える養い親を見上げ、桂花は 左腕を上げると、李々の頬に散った血を指で拭い取った。
「・・・憑依されて李々が李々じゃなくなるのは嫌だった。だけど李々 を傷つけることなんて吾には絶対に出来ない。・・・李々だけだ。この 魔界で吾を見つけてくれたのは。名前を付けて、いろんなことを教 えてくれて、ずっと傍にいてくれた。・・・吾には李々がすべてだもの。 李々がいなければ、吾はいなかった。・・・李々を傷つけるくらいなら、 吾が傷つくほうがいい・・・」
 ことりと腕が地に落ちて、養い児はその紫瞳を閉じた。
「・・・・・!」
 冷え切った体を抱きしめて、李々は天を仰いだ。
 猛々しい感情を内に秘めた真紅の瞳が雷光を移して獣のように煌 いた。
 その瞳は、雷光の閃く暗い魔界の空を貫いて、その先に存在する 青く美しい宙に浮かぶ宮に住まう天上人のことをおもった。
「・・・なぜです」
 とどかないのはわかっている。それでも問いかけずにはいられな かった。 

 …天のはるか高みにおわします偉大なる御方よ、なぜこの世界を お捨てになられたのですか!

 こんな暗い寂しいところで、
 魔族として生れ落ちたがために疎まれ、
 慈しまれることもなく、
 やさしさも、
 生まれてきた意味も知らぬまま、
 ただ生き延びるためだけに人生を費やし、
 やがて朽ちていく。
 ・・・こんな哀しい宿命を持つ世界と生命をなぜ創られたのですか!

 ・・・李々の胸中に渦巻くのは、悲しみでなく、怒りであった。
 これが魔族の宿命だと言うのか。
 桂花が、魔族が何をしたというのだ。
 廃棄され、呪われたこの世界でなおも生き延びようとするこの種 族を誰が責められると言うのか。
 宿命などではない。
 そんなもの認めない。
「・・・冗談じゃないわ」
 着衣を引き裂いて腕を止血し、急激な失血でショック症状をおこ して呼吸と鼓動のとまった桂花の体を蘇生にかかる。
「冗談じゃないわ! 今、ここで、全部終わりにしてしまうつもり!?  ・・・笑い方もろくに知らないくせに、心の底から幸せだって思えたこ ともないくせに、逃げ場を探せないくらい人から愛されたこともな いくせに!  ・・・生きなさいよ! 死ぬために生きるんじゃなく、命なんかいらない って思える瞬間のために生きてみなさいよ!」
 横たえられて仰向いた桂花の目元に、頬に、透明な水滴が降り落 ちる。思わず天を仰いだ頬に熱いものが伝って、李々は自分が泣い ていることを知った。
 かろうじて息を吹き返した桂花を両腕に抱き、李々は勢いよく立 ち上がった。
「・・・死なせるものですか!」

 

【7】

 白い光の満ちる洞窟内で、水と増血作用のある薬を調合して飲ま せる時以外、李々は意識を失ったまま血を失って冷え切った桂花の 体を温めるためにずっと寄り添っていた。
 細い息の下、桂花の体がゆっくりと変化していくのを李々は目の 当たりにした。
 ・・・少年の体から、少女の体へ。
 男よりも、耐久力、生命力の強い女の体へ・・・
 意識のない桂花の、魔族としての本能が、おのれの命を護るため に肉体をつくりかえてゆく。
 もともと華奢な首や手足がますます華奢になり、かわりに丸みを おびてゆく胸元や腰を、李々は不思議な思いで見つめた。
「・・・あきらめていないのね」
 桂花は生きようとしている。生きようとしているのだ。
 それだけでよかった。
「よかった・・・」
 目頭が熱くなって、李々は流れおちた涙をぬぐった。
「・・・ダメね。一度泣いちゃったら、もう止まらないわ・・・」
 泣けば全部嘘にしてしまう。そう思って耐えてきた涙だった。
 けれど泣いても何も変わらない。
 生きるために手足を動かし、生きるために伝える言葉は口から流 れ出す。・・・そのどれにも涙は当てはまらない。
 ・・・だから泣いても何も変わらないのだ。
「・・・がんばって。・・・生きるのよ・・・」
 冷たい体を抱きしめ、李々はあやすように囁いた。

 数日後。意識を取り戻した桂花は己の変化した体を見て、李々が 首を傾げるほど頑強に嫌がった。
(・・・かわいいのに・・・)
 桂花が不機嫌になるのは分かっているので(不機嫌な顔も、これ また可愛いのだが)李々はあえて口には出さないが、成熟と呼ぶに は程遠いかたさの残る細い肢体と相まって、神秘的ともいえる美少 女ぶりなだけにはっきりいって男性体に戻すのは惜しい。
ものすごく惜しい・・・気がする。
 魔族は、子供の時期なら性別を簡単に変えることが出来るという のは知識として知っていたが、今まで李々がどんなに女性体の利便 性を説いても、桂花は一度として李々の前で女性体になろうとはし なかったのだ。
「・・・・・・」
天界人などと比べようもなく弱いこの存在の持つ、この、生命力。
 美しい肉体を躊躇なく切り捨て、肉隗と成り果てながらもなおも 命に取りすがり、生き延びようとする、あの、強さ。
 創造主の思惑など、あまりにも柔軟に創られた肉体ゆえに、本能 のおもむくまま、やすやすと乗り越えていってしまう。
 美しさや醜さなどはすでに意識の範疇の外だ。
(・・・だから魔族は廃棄されたのだろうか・・・)
 美醜などとうに超越してしまった、この、存在を。
 
 体力の回復に従い、桂花の体は元に戻った。そうして、うっすら と全身を彩る魔族特有の刺青が紫微色の肌に浮かんで来た。
 子供の時期が終わりをつげ、子供の時期に血に潜む力が妖力とし て顕在化し、これから桂花は徐々に大人へと成長してゆくという証 だ。
 
「・・・わからないわね。女の体も悪くないわよ?」
 魔風窟を出、野営地となる場所を探しながら、李々は前を歩く養 い児の背中に幾度となく言った言葉をまた繰り返す。
 あっさりと男性体に戻ってしまった挙句、子供の時期も終わって しまい、二度とあの美少女を見ることが出来ないのかと思うと、残 念で残念で仕方がない。
 こんなことなら脅しつけてでも、女性体のままいさせればよかっ た、などと考えている。
(・・・そうしたら、女同士。桂花を思いっきり飾り立てて(遊んで) あげることも出来たのにっ!)
 娯楽の少ない魔界のことであるから、思わず握りこぶしを作って 悔しがる李々の気持ちも判らないではないが、あやうく着せ替え人 形扱いされかけた桂花にしてみれば、勘弁してほしいといったとこ ろだ。
 まだ言うか。とうんざりした顔で桂花が振り向く。
 病み上がりの体はまだふらついているが、それでも重いほうの荷 物を肩に担いでいる。
「・・・女の体は、つよいよ。 でも、剛くはない。 ・・・たしかに李々は女性体なのに、例外的に剛いよ。大の大人の男が 束になっても李々にはかなわないのだから。 吾がこのまま大人になっても、多分李々にはかなわないと思う。 でも、吾はいつまでも護られるだけという存在は嫌だ。 吾は・・・強くなりたい。せめて李々の背中をを護れるほどに。 ・・・だから、吾は男性体のほうがいい」
「・・・・・・」
 ・・・男の子はつまらない。いつだってその瞳を外の世界に向け、庇 護者の下を飛び出していってしまおうとする。
 けれど。
 それがまた、愛しくもあるのだ。
 精一杯背伸びをして、自分の力の及ぶ限り強くなろうとするその 姿は、痛々しくもあり、頼もしくもあり、そしてたまらなく愛しく もあるのだ。
 李々は近づくと、その背をぽんと叩いた。
「・・・まずは、妖力を使いこなす事からはじめましょ。教えることは いっぱいあるのよ。だから早く元気になりなさい」

 

【8】

 ・・・魔界の空を覆い尽くす雷雲はなお暗く厚くわだかまり、頭 上を 覆い尽くす木々の影をなおいっそう黒く見せる。
「・・・・・・」
 わずかに残る空き地に立ち尽くし李々は空を見上げる。
 最初に創られた、世界。
 最初に創られた、生命。
 ・・・そして、最初に捨てられた、世界と、生命・・・。
 この世界は生きようとするものに苛酷な宿命を負わす。
 けれど。祝福の手を離れ、見捨てられたこの世界で、・・・それでも 命は続いていく。
 生きることについて本能的に貪欲な魔族は、本当は人間よりも、 天界人よりも、強いのかもしれない。

「李々!」
 己の妖力をもって風を生み出すことに初めて成功した子供が、風 に髪をなぶらせながら、振り返って李々を見て嬉しそうに笑う。
(あら・・・?)
 養い児の、思いがけないほどあざやかな、微笑み。
 両手を広げ、自身を風になぞらえるかのように、くるりくるりと 踊るように体をひるがえす。
 子供のようだ、と思い、そして実際に桂花はまだ子供なのだとい う事に思い当たる。
 『笑う』ということを、威嚇行為に置き換え、怯えてさえ見せた 子供が、今、楽しげに笑っている。
 無邪気に喜ぶ子供が見せる表情。
 李々もつられるようにして笑った。
 のばされた手をつなぎ、李々も桂花の動きにあわせてくるりくる りと身をひるがえす。
 妖力の使い方を学ぶと共に、薬草の知識を習い始めた桂花の髪か ら、やわらかな草の香りがする。
 桂花が声を立てて笑った。
 桂花の風に己が生みだした風を相乗させると、体をひるがえす勢 いはそのままに、いきなり桂花の体を抱きしめて李々は大地を強く 蹴った。
 二人の体は螺旋を描いて、高く高く空へと浮かび上がった。
 小さな悲鳴をあげて李々の首にしがみつきながらも、桂花は高み から見降ろす魔界の姿に息を呑む。
「・・・李々! もっと!・・・もっと高く飛んで!」
 養い児の願いを聞き入れ、体を抱く腕に力を込めると、李々は一 気に上昇した。
 樹海が見る見るうちに遠ざかる。
 頭上の暗雲が李々の興す風に渦巻くように分かたれ、空の色をの ぞかせる。
 雲の上高く、二人は浮かび上がった。
「・・・これが、魔界・・・?」
 桂花が、微かに震える声で李々に問いかける。
 李々も同じように魔界を見下ろし、心の中で賛嘆の声をあげた。
 楽園の面影を残す、どこまでも続く、原初の緑と、岩石の、世界。
「・・・そう。桂花はここで生まれたのよ。魔族はここから生まれ、生 きてゆくの・・・」
 ・・・そうして、生き延びるために命をすり減らし、生きる意味を知 らないまま朽ちてゆくのだ・・・
「・・・ここが、吾の、生きる世界・・・・・・?」
 魔界を見下ろす桂花の瞳が、揺れた。泣き出すのではないのかと 李々が感じるほど、激しく揺れた。だが、桂花はその瞳のままゆっ くりと李々に向き直ると、いきなり問うた。
「・・・魔族とは違う赤い血の流れる天界人は、どんな生き方をしてい るの? ・・・人界の人間たちはどんな生き方をしているの?」
 李々は返答につまった。
 李々の首を桂花はしっかりと抱いているために、吐息の触れ合う ほど近い位置にある桂花の瞳から顔をそらす事は不可能に思えた。
 ・・・桂花には、ほとんど魔界で生きる知識しか教えていない。
 けれどこの子供は、李々から学ぶ言葉や物語、行動の端々に、魔 界とは違う世界の存在を、実存するものとして理解していたのだ。
「・・・李々、吾は知りたい。魔界の事、魔族のこと。・・・吾が、魔族 であるために。
そして、自分が何なのかを知るためには、魔界だけでなく、吾を取 り巻く世界、世界を取りまく世界の物事をもっと知りたい。 ・・・李々はあまり話したがらないけど、・・・知っているんでしょう? 人 界や、天界のことを」
 暗い魔界には存在しない、黄昏と暁の色の瞳・・・
 そこに宿る、桂花本人ですら理解する事が出来ないであろう狂お しいまでの激情に李々は魅入られたように言葉を失った。

 ・・・これは、叛逆なのかもしれない・・・
 永遠とも呼べる時をかけ、やがては淘汰され消えてゆくこの世界 に、知識を持ち込むことは許されない行為であるのかもしれない。

 けれど。
 祈る言葉もなく
 還る場所もなく
 護るべきものを亡くし
 命の半分を託し
 力の半分を無くし

 ・・・それでもまだ死に場所が見つからない。死の意味もわからない。
 ・・・ならば、この身が動き続ける限り生き続けたいと思う。
 そう思って赴いた魔界で桂花に出会った。

 楽園を遠く離れた地で生まれた子供・・・
 ただ、生き延び、ただ、朽ちてゆく宿命の魔界の子供・・・

(・・・宿命などではない。そんなもの認めない)

 けれど桂花は李々に出会った。
 天界・人界・魔界。・・・多層に進化し、ある一点で交わる以外、互 いに(一部を除いて)知られざる世界としてあり続けるその三界の 知識を持つ、神に等しい女に出会ってしまった。
 魔界の底で、獣のように暮らしていた子供が名前を貰い、知識を 得、笑う事を学んだ。
 そして今、更なる知識を望もうとしている。

(・・・宿命などではない。そんなもの認めない)
 
「・・・・・・」
 李々は桂花の瞳をのぞき込み、そして、ゆっくりと頷いた。
「・・・桂花が、望むのなら・・・」

 ・・・やがて、この叡知の女が己のすべてを与えて育て上げた魔 界の 子供は、人界にて天界の貴人と運命的な恋におちることとなる。

 ・・・そして、その恋情ゆえに、望まないながらも己の持つ知識 と知 略、才覚のみをもって、天界・人界を震撼させる存在へと台頭して ゆくのを、李々は魔王の傍らに座して見守り続ける事となる。

   ・・・けれど、
           それは、
                 もう少し先の、
                           話になる・・・

終。


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