局前無人 局上無石
これは第11世井上玄庵因碩の遺した文字で、対局するときの心構えを訓えたもので、
我々にとって無二の教訓である。
局前人無しとは、碁盤の前に人がいると、相手が強ければ怖れて畏縮し、弱ければ
侮って無理を打ち、相手が悪口をいうと腹が立って一気に押しつぶしてやろうなどと
邪心が起きる。勝負を争うというよりは碁の真理と取組めという意味に解してよいと
思う。
大家の碁譜を並べて見ても時に心機が動揺したなと思われる手だなと感ずることが
ある。
局上人無し、というのは、これは難しいことで達人の境地である。心眼が透徹して、
どんな難しい所でも読みきれて、まちがいなく打てるところに達する境地をいうの
である。
盤上に石が並んでいるのは結果が出たのであって、打たない前に最善の手を打た
なければならぬと解してよいと思う。
玄玄碁経に「智者は未萌に見る」というのも、これに類しており、また囲碁九品の
第二の「座照」という語もこれに類している。
ここまでの境地に達することは名人といえども、なお、終生の修行を要するところ
であるが、局前人無しの修養は心掛け次第によっては、できないことはないと思う。
その境地に達すれば、碁を打ってよく人と調和して楽しむことができるであろう。
野次馬A:さすが大先生、すごい事をおっしゃるね。外国人の棋士でも、こんなこと
考えますかね。
野次馬B:さあ? でも、「局前人無し」といえば、なんといっても梶原武雄先生だね。
「オレの相手は碁盤だぁ」という名科白。
野次馬C:「石の心を思えば、ここに石が来る」とかね。
野次馬A:私の石の心は大事なときに居なくなってしまうんですよ。困ったものだ。
野次馬B:それは石の心に愛想をつかされたの!
それは兎も角、全盛期の梶原先生とイ・チャンホを持ち時間無制限で十番
くらい打たせて見たら、面白いだろうね。
野次馬C:そして、それを梶原、秀行、山部の戦後派三羽烏が酷評する。
野次馬A:言う事も発想も古いね。でも、それは一つの夢でもあるかな。
野次馬C:そうだなぁ。「浪花の事は夢の又夢」・・・・・か。