たまたま昭和62年、伊那谷においては上伊那の「春日街道」といわれる棒道(直線道)が律令制の東山道の遺構であろうと、国学院大学の木下良先生、県文化財保護協会長の黒坂先生が推定され、そのコースの延長として阿智村東北端の七久里と飯田市山本の境界直線道1qがそれに結びつくのではないか、というご指摘をいただきました。これはおそらく地図や航空写真による推定と思われますが、これは今まで聞いたことのない新説で、半信半疑ながら以前から不思議に思っていた直線的な境界道なので、小字を調べて字界図等を作り検討しました。

  この七久里という集落は阿智村の東北端へサイの角のように突出した段丘上の集落で、その境界線約一qが直線的で、しかも七久里台地の縁となる所を旧伊那街道が通っていて、その街道が現在の阿智村と飯田市の行政界となっています。(探46
 通常、村境というものは山の尾根とか谷の水流になっていますが、ここでは40〜50m西方に村境にふさわしい谷川(湯川の支流)が流れているにもかかわらず、それを無視して台地の端を通る道路を境界としています。

  なぜなのかと判断に苦しんでいたところ、たまたま信濃毎日新聞に木下良先生の寄稿で「古代国家の官道\\東山道を中心にして\\」という記事が3回にわたって連載されました。
  その中で「そこで、現在直線道や直線の行政界も古代の道筋を基準にしたと解される場合がかなりある。すなわち、古代官道が古代の国・郷の境界となり、それが近世・現代の町村界に踏襲されているものである。\\」というのを読んで、広く他県にもその例があるとすれば、これはやはり東山道の道筋であるかもしれない、との思いが次第に深まってきました。

 また、村境が先か、道路が先にあったかという疑問についても、このような不安定な台地の端を村境に決めるわけがないところから、初めに道があって、その道を村境にしたと解されます。それもただの田舎道ではなく、境とするのに適切な容易に改変されることのない道であったと考えられます。このようにみてくると、阿智村と飯田市の行政界約1qの直線道路は、国家的な必要によって策定された東山道の遺構である可能性がますます濃くなってくるのでした。
2 七久里の境界道