阿智村の東山道について、本格的な調査研究が行われたのは昭和30年頃からで、市村咸人先生が多くの先生方の協力を得て、実地調査をはじめとして、地名の総ざらい、古文献の探究と考察、伝承の聞きとり等、積極的かつ綿密な検討をされました。
  そしてそれらの成果は『下伊那史』第四巻に記述され、以後30余年間これが東山道の定説として多くの人に認められてきました。
 市村先生がとくに阿智村に重点をおいたのは、古代において「信濃坂」といわれた神坂峠が全国の官道の中でも最も標高の高い1576mという険難な峠であることと、その峠の東西におかれた阿知駅と 美濃の坂本駅との距離が、当時の唐里で74里(約40q)という長丁場で、両駅ともに駅馬30匹を備えた屈指の大規模な駅であったことによるものでした。

 その次に東山道の調査研究の気運が高まったのは昭和62年でした。この時は長野県文化財保護協会の提唱により、県下の東山道に関係すると思われる市町村に東山道研究調査会が組織されました。
  黒坂周平先生の指導により各町村の多くの研究者が、この東山道の究明に傾けた努力は少なからぬものがありましたが、結局、地名による洗い出しにも限界があり、考古学的にみた遺跡・遺物からの探究も経路の確定には至りませんでした。

 しかしこの間に、東山道の経路にあたる7県または1都12県合同による「東山道サミット」が3回にわたって上田市に開催され、私たちは東山道全線にわたっての状況を広い視野から知ることができ、地元の東山道と対照して考察することができました。
  最も私たちの目を開かせてくれたことは、東山道が想像以上に直線的なことと、その道路幅が最大12mと広いことでした。道幅の広いことは長野県のように地形の起伏の多い場所では受け入れられないとしても、直進性については信濃国だけが別格の方策で設定されたとは考えられません。

  道といえば人家の多い集落を通り、神社や寺院がその近辺にあると思いがちですが、東山道は当時まだ民情の不安定な東北地方への直結路として中央政府が造った政治的な大動脈です。中央と地方との連絡、徴発人馬の移動、税物の輸送、それに何より現地の情報をいち早く知る、という大きな目的のための道だったのです。
  このことを基本的要件として、多くの研究者の意見がほぼ一致している「阿知駅跡」(阿智村木戸脇)から、北東に向かういわゆる上・中・下の三路線のうち、最近の研究成果による上手線について述べてみます。

1 東山道調査のあゆみ