脱線空間
第12回 リベラル/スローであるためのレッスン


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  • 前回は、自分らがなぜ居場所を他の仕事と「兼業」しているのかについて述べた。繰り返すがそれは、「兼業」しているスタッフの姿、すなわち複数の「仮面」を状況に応じ使い分けるという私たちの生のありようを、利用者の子ども・若者たちに具体的に示すことで、文脈や背景についての想像力(これが「社会を生きる力」を構成する)を喚起するという戦略的な意図に基づいている。だが「兼業」の利点はそれにとどまらない。スタッフ側にとってもメリットがある。どういうことか。
  • 居場所スタッフの要件として私たちは、その思想や思考における「リベラルさ」を重視している。「リベラルさ」とは、特定の前提や文脈からの自由、ということではない。そんなものは端的に言って不可能である。そうではなく「リベラルさ」とは、自らを縛る文脈や前提を自覚した上で、それらへの安易な迎合=性急な価値判断を拒否し、できる限りスローにさまざまな可能性やケースを想定し、想像力を働かせつつ思考するという、不自由への抵抗の身振りを意味する。
  • もちろん上記の要件は私たちが目指すべき理想像であって、実現は容易ではない。支援現場での日常実践のただ中にあっては、そうしたリベラル/スローな配慮はどうしても抜け落ちてしまいがちだ。先述した通り、私たちは誰もが特定の文脈や前提から自由ではありえない。どんなにそれを自覚しているつもりでも、ふと気付けば私たちは、どこかの誰かが敷いた思考のレールに乗って、どこかの誰かの創りだした言葉で語ってしまう。それが「自分の意志」だと錯覚したままで。
  • ではどうするか。思うに、「兼業」という方法がここでメリットを発揮する。「兼業」とは、複数の共同体=価値や前提に同時に並行して所属することを意味する。複数の文脈や前提に同時に接することで、諸価値の間の差異や落差を絶えず意識させられること。これこそ、特定の前提や価値を相対化する「メタ・レヴェルの視点」を育む最適の環境であると言える。これは、単一の価値共同体への専属が、それへの従属(視野狭窄)へと私たちを容易に導いてしまうのと対照的だ。
  • 当然のことだが、私たちは万能でも完全でもない。「自分たちの意志」を自分たち自身でチェックすることは不可能だ(誰だって自分のことはかわいい)。だからこそ、「自分たちの意志」を可能な限りチェックできる仕組みや環境を構築し、そこに身を置いて自らの前提を絶えず意識化することで、特定の価値共同体への専属を回避し続ける必要がある。前提や文脈、背景の異なるさまざまな人たちに開かれた居場所づくりにとって、それは欠かせない条件なのである。
  • (たきぐち)

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