脱線空間
第11回 私たちが居場所を「兼業」する理由
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- 総会も無事終了し(会員の皆さまありがとうございました)、ホッとしてやや気が抜けているところである。自分たちの生計をNPO事業だけで支えていくだけの財政基盤/能力は現在の「ぷらっとほーむ」には備わっていないので、例年どおりの「2(n)足のわらじ」生活がまた始まる、ということになる。一応説明しておくと、私は現在、@教師派遣会社の派遣スタッフ、A予備校の非常勤講師、B某新聞社の原稿書きなどの仕事で生計を立てている。
- 当初は、こうした活動スタイルのありかたを疑問視して苦悶したこともあった。複数の仕事に同時に関わっていては、フリースペースの組織運営や居場所での子ども/若者たちとの関わりに集中できないし、責任がもてないのではないか。そんな批判を受けたこともある(当然それは他の賃労働に関しても同じだろう)。だが、今は明らかに違う。私たちは「やむをえず」兼業ではなく、「好き好んで/あえて」兼業というスタイルを採用している。なぜか。
- 人はみな複数の顔をもって生きている。自分をとりまく人間関係や共同体のそれぞれに応じて、その場に最適な仮面(ペルソナ)を無意識に使い分けながら。例えば、職場では「責任ある社員」の仮面を、両親の前では「頼りない子ども」の仮面を、恋人の前では「魅力ある異性/同性」の仮面を、そして友人の前では「素のままの自分」という仮面を。どれが「本当の自分」かなんてことはさして重要ではない。大事なのは、仮面の複数性そのものである。
- 私たちが複数性のただ中にあるという事実は、私たちをとりまく社会のありように連関している。私たちは、価値(とそれに基づく共同体)が多様化した成熟社会に生きている。そうした社会では、人は「単一の共同体」のみに「専属」することは不可能。誰であれ「複数の共同体」にタコ足状に多元的に所属せざるを得ない。すると「仮面」とは、共同体の複数性/流動性という社会的なリスクに対応した、個人の側の、無意識の適応戦略ということになる。
- したがって、「社会を生きる力」とはそうした適応戦略の意識的洗練であると私たちは考える。言い換えるならそれは、目の前に示された「仮面」の背後に、その仮面とは異なる「現実」や「文脈」が存在するかもしれないという想像力を働かせ続けること。そうした想像力を喚起し養成するには、個人の複数性=複数の「仮面」を目に見える形で絶えず現前させ続けるしかない。兼業とは、そうした複数性/流動性可視化のための戦略なのだ。
- (たきぐち)
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