越中一国観音霊場巡拝

宮永 正運について

 「越の下草」の著者 宮永正運は、江戸時代中頃の享保17年(1732)1月25日砺波郡下川崎村(現小矢部市下川崎)宮永正長の長男として生まれ。32歳で家督を嗣ぎ、49歳で砺波・射水両郡の蔭聞横目役かげききよこめやく山廻役やままわりやくを命じられ、越中3郡の産物裁許役をも兼役し、享和3年(1803)6月18日、72歳で世を去った。通称は十左衛門と云った。下川崎史跡公園内に墓所が在る。

 著書としては、「荒年救食誌こうねんきゅうしょくし」「養蚕私記ようさんしき」「私家農業談」「春の山路」「越の下草」「桃岳句集」がある。
 「私家農業談」は、寛政元年(1789)に書かれた。稲、綿、桑、茶、多くの蔬菜類の栽培の仕方を分かりやすく解説したものである。それ以前の数々の農書の研究を踏まえ、それを砺波の地で実践し、砺波の風土を生かしいると今も高く評価され、「日本農書全集」の一部として復刻されている。6巻本からなる。
 「越の下草」は、天明6年(1786)頃書かれた。内容は、正運がその役目がら領内を広く廻り、その折りの見聞を書き留めたもので、越中各地の地名由来・名所旧跡・神社仏閣の来歴・産物・山川湖池のようす・伝説・奇談など多岐多彩。流布本は3巻であるが、正運が編纂した稿本は6巻からなる。東大資料編纂所で所蔵している稿本は、解読され北国新聞社から昭和55年に刊行されたが、今は絶版となっている。この稿本の冒頭に『越中国観音霊場巡礼始まり』の記載がある。

下川崎史跡公園

下川崎史跡公園


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