1990年3月5日〜3月7日
盛んにサハリンのママを恋しがるのが印象的・・・ | |
責任の一端はあるんじゃないの、そんなのんきに物見遊山気分でいいのか・・・ | |
日本人は私一人だけのようでした。なんだか複雑な気持ち・・・ |
2週間あまりにわたった東ドイツの旅もいよいよ最後に近づき、帰りは東ベルリンのシェーネフェルト(Schoenefeld)空港から飛び立ちますので、この町で2泊しました。ユースホステルには例によってかなり大きめの居酒屋があり、そこで飲んでいたらサハリン出身のロシア人と仲良くなりまして、ずいぶんコーラ・ウォッカをおごらされました。まあお互い極東出身のよしみということでしょうか。彼、盛んにサハリンのママを恋しがるのが印象的でした。マザコンか。
ベルリンといったら壁でしょう。この時点で半分くらい破壊されていましたが、まだ基礎部分はしっかり残っていましたので、ベルリンに着いたその日の晩に見に行きました。あわよくば壁のかけらくらい拾えるかとも期待して。
ブランデンブルク門すぐ近くの壁に来ていたのは数人で、ロシア人がハンマーをふるって壁を削り取っておみやげにしようとしていました。この壁ができたいきさつを考えると君らにだって責任の一端はあるんじゃないの、そんなのんきに物見遊山気分でいいのか・・・などとはいわず、私も壁のかけらを彼から分けてもらいました。
壁の上に立っているのがロシア人のおじさん。時々は警察官がパトロールしに来るので、そのときは下におります。ベトナム人の集団が運悪く見つかって、警官に追い散らされていました。 | ロシア人に記念撮影してもらいました。私もかなり怪しげなスタイルですね。 |
壁は落書きだらけ。落書きできること自体、自由のあらわれです。なにしろ以前は近づくことさえ不可能だったんですから。 | ピースマークが多い。 |
これもピースマーク。左にはペニスも。なんだか便所の落書きみたいですな。洋の東西関係なし。 | 妙に脱力した人の顔。やっぱりここはへのへのもへじを描きたいところでしたが、日本人の恥さらしになりたくないので自粛しました。 |
翌日は、ベルリン近郊のポツダムという町におもむきました。そう、あのポツダム。田中長野県知事がもじって使った「ポツダム宣言」が出されたところです。連合国首脳により、ここで日本の戦後処理問題が話し合われたのです。日本はまだ正式に降伏していなかったのですが。
宮殿近くをとぼとぼ歩いていたら、警察のパトカーが近づいてきて「そこは歩道じゃないから歩くな。反対側へ行け」とか何とか怒鳴られました。ますます鬱だ・・・。
(東ドイツへの旅 終わり)