BGM of This page ♪AMAZING GRACE♪

奴

 「Blues」 木炭 1993年作品
  眠りそこねた夜に・・・  


れこれ 数年前になるだろうか。

 夜、草を燻らしながら 唯ぼんやり
そして無造作に TVのチャンネルを廻していたら
丸眼鏡のオッサンの弾き語り画像が
目の前に飛び込んできた。

 しかも、あろうことか隣でマイクを握っているのは
派手なサングラスをかけた 丸坊主男
松山千春 ではないか。

 “なぁ〜んや” という浅いため息 と同時に
再びチャンネルを変えようと リモコンに手をかけた
 そ の 時 ・・・
なんとも懐かしい旋律が 聴こえてきたのである。

 この、ほんの数秒のタイムラグが
実に微妙で 面白かった。

私の手にしたリモコンの指づかいで再現してみると、こうだ。

 まず、ギター爪弾く謎のオッサンの登場。
“おやっ” で指が止まる。
次にTVがとりたてて味のない、いや、どちらかというと
嫌いな丸坊主男をパンするや否や
“なぁ〜んや”で また指が動き出す。

 TVや映画といったメディアは、言うまでもなく
目と耳で同時に視聴する。
が、ここまでは 指の動きが示すとおり まるで片方、
つまり「」のスイッチが off になっていたかのように
完全に「」が優先してしまっていたのだった。

 そして、徐々に「」のレヴエルが fade  in するが如く
ゆっくり自分の中に入ってきたのである。

 この、光と影が微妙にまじり合う瞬間のような
明暗にも似たその対照は
実に不思議な効果をもって 私の右脳をチクリと刺した。
次の瞬間、もはや それは「」と同調することなく
」が私を支配していた。

 得も言えぬ あの独特のふしまわし。

 “あっ もしや !!!

 唄が 終わった。

 楽曲は「朝・踊り子」。

 その彼は、下田逸郎 だった。

 かつて、フォークといわれた その時代でさえ
お世辞にも光があたったシンガーだったとは言えない
その彼が、今、淡々と自分の古えの楽曲を爪弾き
しかも、TVがその姿を・・・。

 心地のいい 感動だった。

 その昔・・・私は彼の一曲に固執して、ファンだった。

 その楽曲の名は 『セクシィ』。


 二十一年前の就職当時
職場の『会報』に掲載する新人紹介のための
アンケート欄に“好きな曲は?”という
極めて月並な設問があったのだが
私は、迷わず この楽曲名を書いた。

そして数日後、その会報を読んだ先輩から
「そうか、君はロッドスチュワートが好きなのかァ。
今、流行ってるもんな、この曲。」の言葉が・・・

 無理もなかった。

 咄差に、言い返す台詞が用意できないほど。

 縦しんば“いえ、そうじゃなくて・・・”と
お言葉を返したところで
それがシラけた徒労に終わることは
書いた自分が一番よく分かっていたからだ。

 子供みたいに 笑うあなたが

 急に黙って セクシィ

旅に出るなら 夜のヒコーキ

つぶやくあなた セクシィ

 夜の探さに ふたり 溶けてゆくのね 


一体、何なんだろう。

初めてこれを聴いた その時代に
この曲に刻みこむほど 彩りのある
特別な一頁があったとは 思えないのだが…


 それは いつも きまって
 のほうから フラっ と現われ
まるで座敷童子のように 私の中に棲みつき
老いもせず・・・  かつ色褪せず・・・
しかも 呼びもしないのに
今でも時折、私に口づさませてしまう。


 かつて・・・

 素通りできない  風景が あった。

 繰り返し涙する シーンが あった。

忘れ得ぬ女の  色香が あった。


そして・・・そこには いつも

黙って見過ごせない・・・   

 が い た。


 そう、  はひっそりと

そして弛ゆやかに 酒齢を刻みこむ 葡萄酒樽に

べったりとくっついた 酒石酸のように

今も なお 私の中で

その芳しい香りを 放ち続けていてくれる。

 そ し て 今、

  の お か げ で ・・・

 私の中で屍となっていた  奴   までもが

“生 き”つく先 を求めて

健気なもがき をはじめたところだ。











このエッセイを書いた 一年後に
まさか ご本人に出逢えようとは・・・

まるで 夢のような ひととき だった。