去る昭和四十三年は明治維新百年の記念すべき年。全国各地で奉祝祭が盛大に挙行されました。 
この年の秋九月、畏くも天皇皇后両陛下はおそろいで遠く北海道の果まで御車をお進め遊ばしました。
 九月三日、旭川市の北海道護国神社にご参拝。
北海道護国神社ではご到着前に臨時大祭を厳かに斎行されました。藤枝弘文官司以下衣冠の祭員が多数ご奉仕され、まごころこもる臨時大祭。
 不肖私は招かれましてはるばると参上。大祭の直後、ご到着十五分前まで貴重な時間を頂戴して記念講演をいたしました。みずがき内に招き入れられたご遺族の方がたは六千名。手に手に日の丸の小旗を持ってござの上に正座。
みずがきの外には一般の奉迎者があふれるばかり、万を数える方がたがご到着を今か今かとお待ち申し上げました。
 両陛下にはご神門前でお下車。御徒歩(おかち)でみずがき内の正中をお進み遊ばされます。
その間、左右のご遺族にねんごろにおいたわりのご会釈。やがて拝殿に近い庭上の白砂で清められたご座所にお立ち遊ばされました。
両陛下はしばらくのあいだ、ねんごろにご拝礼。そのおやさしく神々しいお姿−遺族をはじめ奉迎者一同感涙にむせびました。
 いよいよ門外にご退出、お召車がすべり出しました。
 その直後です。
遺族の方がたが両陛下のお靴の跡がハッキリと残っておりますご座所を目ざして、だれするともなく駆けよりました。手に手に白砂をすくいとり、感激のなみだにぬれたハンカチにいっぱいつつんでおしいただきました。
 一人のおばあさんが「講師先生」と語りかけられました。
「私はこのたびの戦争で一人息子を亡くしました。もうあきらめたい、あきらめねばならないと、くりかえし自分にいいきかせましたが、ことある毎に思い出されて、またしても愚痴のなみだを流してきました。
本日、天皇皇后両陛下が北国のはての−この護国神社にまでおまいり下さいました。このお社には私のようなしがない者の息子も祀られております。両陛下のお姿を間近くおろがみして、もったいなくて、もったいなくて、思わず− 「息子よよくぞお国の為に命をささげてくれました。お母さんはもう泣かないよ、日本一の孝行息子だ」とほめてやりました。
 このお砂はわが家の宝、息子の霊前に供えてよろこばせてやります」 
 ほほを流れる涙を黒紋付羽織の袖口でぬぐわれました。 「先生、私はもう今日かぎり泣きません。これからは元気を出して、亡くなった息子の分まで長生きをして、お国のため、天子様のために働きます。」 

 神垣に涙たむけて 

 戦後三十五年、わが国はようやく虚脱状態を脱して、本来の清明な光が差しそめました。私たちは日本国民として、この際深く考えねばなりませぬ。
 時代、制度、世情がいかに変りましょうとも、天皇様はご英霊を″靖国の神″とご崇敬遊ばされ、天下万民の幸福をひたすら祈りつづけられます。この大御心の深さ、尊とさ。
私たちはひとたびは占領の屈辱をなめましたが、日本の国はこんにち世界の先進国として独立の栄光と繁栄を誇ります。
 上には歴代天皇様の万民安堵の大み祈り、下には大御心に答え奉る”すめらみこと弥栄“の祈念、両者がしっかりとむすばれて幾多の天祐神助に恵まれ、奇蹟とも賛えたい数かずの歴史を積み重ねて来たればこそであります。
終戦時のご聖断、玉音放送にこたえる承詔必謹のみごとさ、日本歴史未曽有の悲劇のなかに、皇国日本の伝統美は見事に発揮されました。
 大君の御楯としてお国のために華と散られました二四六万のご英霊を、一億一千万の全国民が、老いも若きも、おのこもおみなも、一斉妄にひれ伏してあがめまつる日の、一日も早からむことを、ひたすらにお祈りしたいと存じます。

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