その6 2004.3〜
2004.3.1記
面積と収入
 農家の財産は土地である。それが全てと言っても過言ではあるまい。我が家も決して規
模の大きな農家ではないが、遊休農地を含めれば一丁ほどの土地がある。ブドウ園はそ
の約半分である。

 農家の収入はその耕作面積と、反収である。これだけの面積に、この作物を作っていれ
ば、ほぼこれだけの収入になる・・・と言う計算である。単純明快に思えるこの計算式も、な
かなかそうは行かない。

 食糧不足で作ったものは片っ端から売れる、と言うような時代ではない。特に嗜好食品で
ある果物にあってはなおさらである。消費者が求める品質のものを生産しないと、「売る」
と言う事が出来ない。求められるだけの「品質」を提供できるものだけが、「金」に換えるこ
とが出来る・・・と言う時代である。

 同じ村の、同じブドウ園の、そして同じ面積のブドウ園でも歴然とした収入の差が有る。
その違いの根本は、ブドウ栽培に賭ける意識の差である。シーズンオフとも言える冬場の
管理から、芽が出、花が咲き、収穫を迎え、来年の種枝を作り、選ぶまでのそれぞれの時
期において、どれだけブドウを見て管理をして行くかである。

 「足跡はブドウの肥やし」と言う。手間をかけるほど良いものが出来るとも聞く。必要最低
限の世話で済ませるものと、十分な管理の行き届いた園では品質の差があるのは当然で
も有る。そうでなくては寒風の吹きすさぶ中、ブドウ園には誰も居ないはずである。

 ブドウ園にどれだけ足を運び、どれだけの世話、管理をしているか。ブドウは正直に答え
ているのだ。良くしたもので、農家はいくら面積があろうと、それに携わっている人間以上
の者が十分に食って行けるものではないようだ。それが自然の、そして経済の真理であろ
う。

 しかし、であるからこそ、本気で取り組めば十分に収入を上げられる産業であることを示
さなくては、後を継ぐ者が無くなる。職業人としての農業、その自覚が必要だ。
 

2004.4.18記
農産物直売所
 郊外を車で走っていると、道の駅や農産物の直売所が結構ある。覗いてみるとなるほど
地元で収穫された新鮮や野菜や、懐かしい手作りのものが並べられ、その地域性も感じ
られて大いに勉強にもなったりもする。売られている値段も町のスーパーなどよりも安く、
見るからに新鮮であると言う印象から、結構売れているようである。

 都会からの観光客などの利用も多いのであるが、結構地元の主婦にも人気があり、野
菜はスーパーではなく直売所で買うと言う人も結構居るようだ。地元で取れる野菜である
から、スーパーのように種類は多くは無いが、それでも大方の物はそろう。

 農家にとっても、大規模に出荷をしている農家は別として、農協への出荷が少なくなり、
作ったものを自分で現金に換えなければならない農家にとっても、魅力的な場所となって
いる。

 いきなり農業へ飛び込み、その世界で稼がなければならなくなった自分にとっても、何か
を植え付け、収穫し、そこに持ってゆけば多少なりとも現金になる、と言うのはまことにあり
がたい。自分なりに栽培も難しくなく、商品的にも魅力があり、話題性もあり、・・・などと自
分なりに考え、作物を選び、耕し、水をやり・・・収穫した。

 これを売れば子供の給食代くらいにはなるだろう、自転車くらいは買ってやれるだろう、
などと考え、勇んで登録を済ませ、持って行ったのではあるが・・・余りにも安い!苗代、肥
料代プラスαである。自分の労働の対価などはどこへ行ったのか?

 値段をつけるのは自分である。協定などはない。それこそ自由競争の世界である。いく
らに値段を設定するのも自由なのではあるが、そこでの相場と言うものがある。同じもの
を持って行ったら、すでに同じものが並んでいた、とすれば・・・それよりも安い値段をつけ
て売ろうとする。何しろ残った物は持って帰らなくてはならない。直売所は鮮度が命!

 結局は周りよりも安く値段を設定し、値下げの競争となる・・・。この競争に勝つのは、他
に収入が有り、ここでの売り上げはこずかい稼ぎと言う、おばさんや年寄り連中である。ど
うしても農業で食べて行かねば、などと言う人間が勝てる相手ではない。

 直売所とはそういうものなのだ。農業で食って生きたい人間が直売所を当てにする事自
体が間違いである。自分で作ったものは、自分なりの販路を開拓しなければならないの
だ。作ったものは自分で売る。自分で売るためには、よそに負けない自信のあるものを作
る。そう悟ったしだいである。

2004.4.21記
多角化
 専業農家。今の私には魅力的な言葉である。農業でやるからには、その収入だけで食っ
ていく。そうありたいと思う。いつぞやも書いたが、兼業で行くのは居酒屋の女将さんが、
パートに行っている様なもの・・・とも思う。

 専業ではあっても、農家はどうも集約化して行くようだ。同じものを作れば効率も上がる。
機械化が進む今日の農業では、設備投資の面からもその方が効率が良い。又、産地化と
いう意味からも、特に観光の色彩が強いぶどうなどは、地域でまとまって同じものを作った
ほうが世間にも認められる。

 しかし、昔の農家はもっと多角化していたようにも思う。あれがダメでもこれがある。天候
の影響をまともに受ける産業であれば、ある程度の多角化、二元性もあっても良いのでは
とも考えている。その方向を模索中でもある。

 ここで言う多角化は農業以外での収入の多角化である。専業・・・には反するのではある
が、現実を見てみると、これが現在の現状かとも思える。あれこれ作るのは、あれこれで
稼ぐのと同じなのだろう。それこそが農家の生き方なのかも知れないと思うようになって来
た。

 もちろん、これ一本で行く!と言うものが出来ればそれに越したことはない。しかし、それ
に固執する余り、今の時代、鍋の底をつつく様な生活も出来まい。目標は目標。理想は理
想として、あれこれで稼ぐ、と言う事も必要なことであろう。

 出稼ぎと言う言葉に象徴されるように、そうやって農家が生きて来た事を考えると、その
事を多角化という言葉で受け入れようとしている自分と、専業をあくまで目指す自分とがい
る。

 しかし、おそらく数年後にはこの文章を懐かしく読み返す、ぶどう屋としての自分が居る
事を信じたい。
 

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