その4 2003.9〜

2003.9.5記
火星に土地を持つ
 6万年ぶりとかの火星の大接近で、望遠鏡が品薄状態とか。宇宙に関しては人類は本
能的にロマンを持ち、探求するものなのだろう。われわれの体を作る一つ一つの元素が、
宇宙で誕生したものであることを考えれば、自分のルーツを知りたいと言う欲求が、遺伝
子の中に組み込まれているのかも知れない。

 私も高校以来の天文ファンである。時報の短波放送を聞きながら、ストップウォッチ片手
に掩蔽観測〔星が月の後ろに隠れる〕をしていた頃が懐かしい。以来、自称星空おじさん
として、姫路市内の小学校などを回ったものだ。15年毎の土製の環の消滅も3回目撃した
キャリアもある。

 その私は、実は火星の土地を持っている。火星でも比較的温暖で、高等植物も茂ってい
ると言われる(当時はそう思われていた)ソリス・ラクス〔太陽の湖〕地方の東地区である。
面積は十万坪である。この土地は1956地球年に発足した「日本宇宙旅行協会」が分譲し
たもので、協会理事には随筆家の徳川夢声や小説家江戸川乱歩。糸川英夫・村山定男・
宮本正太郎・野尻抱影など、そうそうたるメンバーが並ぶ。

 科学尊重・芸術愛好・寛大・無欲・友愛・男女を超越・平和を守ることなどを心得とする会
員に分譲されるこの企画に、新しいもの好きな亡き父が当時5歳の私にと残してくれたも
のである。もちろん今となってはただの紙切れに過ぎないが、父は、はたしてこの土地で
私に何をさせたかったのだろうか。その私は今、群馬の土地でブドウを栽培している。こ
の姿を父は想像していたのだろうか。

 久しぶりに星の出た夜、愛用の20センチの望遠鏡で火星を見た。こんな大きな火星は
見た事が無い。何しろ6万年ぶりである。この小さな望遠鏡でも、その極冠まで良く見え
た。植物が茂ると言うソリス・ラクスはどこであろう。十万坪の土地に何を植えよう。火星を
見ながら父を思い出した。

2003.9.25記
ジレンマ
 9月も半ばになるとブドウのシーズンも最盛期を過ぎる。ぶどう狩りのお客様も彼岸を過
ぎるとグッと減る。ブドウを収穫し、売店へ運べば、販売を女性に任せて男どもはブドウの
追加や、ぶどう狩りのお客様が無い限り用が無い。
 
 ご理解いただけると思うが、農家は何人で営農しようと収入は同じである。ばあちゃんが
一人で店番をしていようと、売店に何人居ようと売り上げは変わらない。我々家族がこの
家に来ても、収入は同じである。逆に支出は確実に増えている。

 もちろん、品種の更新や販売力の強化策、また遊休農地の活用や新しい栽培方法の導
入、園の整備、設備の更新など、専業でやっていけるだけの方法も色々研究はしている。
しかし、初年度の今年は課題ばかりが山積みとなり、頭の中は「こうしなければ・・・」ばか
りで埋もれている。

 ぶどう棚の補修一つを取っても資金がいる。企業を早期退社し、退職金をもらったわけ
でもない。手持ちの資金にも限りがある。四人の子供たちを独立させるまでは、まだまだ
金もかかる。

 求人広告が目に止まる。調理をしていた関係で、仕事はありそうだ。必要な金は手に入
る。しかし、そうすればブドウ園の更新は出来ない。自分もいつまでも働きに出られる年で
もない。着実に安定収入を目指してこの仕事を続けられる準備を、今のうちにしておくべき
である。しかし、そうすれば外には出られない。

 何度も悩まされたジレンマではあるが、作業が一区切り付いた今、再びこれに襲われ
る。まだまだ農業人としては一年生である。

2003.9.27記
草生栽培
 読んで字の如く、草を生やしながら果樹を栽培する方法である。我が家のブドウ園には
草は無い。清耕栽培である。

 ばあちゃんは何十年と草を退治しながらブドウを作ってきた。除草剤を使わなくとも草は
無い。それ位、草退治をやってきた。それがばあちゃんのやり方である。しかし、今や果
樹園では草生栽培が主流。そのメリットは大きいが、ばあちゃんの耳には届かない。

 決してズボラで草を生やしているのではない。果樹にとっても有益な草と共に、果樹を共
生させて行く栽培方法なのだと、話では理解できても、それは話で終わってしまう。

 如何せん、我が家のブドウ園は緩やかな傾斜がある。緩やかとは言え、水は下へと流
れる。それと共に土も流れる。長さ80mの上は侵食され、下は堆積する。すでに厚い所は
20pは積もっている。それと共にぶどう棚も低くなり、頭がつかえる。

 あと10年もすれば・・・と考えると恐ろしくなる。ここは実力行使である。仕事の合間を見
て、堆積した土を上へと運ぶ。スコップですくい上げ、ネコで運ぶ。溝を丁寧に埋めていく。
延々と作業は続く。「いつかは終えらいのー・・・」ばあちゃんの台詞ではないが一週間は
かかるであろう。

 何年か前の姿に戻した後は、芝生のように刈り揃えられた草と、ワイヤーを張りなおし、
まっすぐになったぶどう棚。そして、あちこちにぶどう狩りのお客様のためのペンチ。その
姿を想像しながら、延々と土を運ぶ。

 筋肉痛・・・よりも先に膝が痛む。これは年か・・・。しかし、こんな事よりも一番の難関
は、ばあちゃんの説得であろう。

2003.10.19記
百姓と農業
 百姓と言う言葉が何時から存在し、本来何を意味するのかその辺は定かでない。しか
し、農家自身が使うこの言葉には、何なら何まで自分たちでやってきたと言う自負のような
ものが感じられる。本来、ある意味で身分を示し、終生変えようの無い人生そのものを指
す言葉でもあったのだろうが。

 農家の中に飛び込み、戦前までの「開墾」や、「ほったて小屋」が普通の事として語られ
る生活の様子を聞き、当時の生活に思いをはせると、「百姓」とは、「自給自足で生活でき
る術を持った人間の集団」を指すのではないかと思えてきた。

 百の仕事が出来て「百姓」と言う。食料の生産から住まいまで、衣食住のほとんどを個
人、あるいはその集団の中でまかなってきた村。中には得意な才能を生かし、職人として
通用する人もいただろう。家を建てる等の大掛かりな作業には「ゆい」とか「講」とか言う組
織がものをいったのだろう。

 「百姓」の時代には、ほとんど「金」と言うものは必要ではなかった。自分の家にないもの
は、おおかた物々交換と言う形でも手に入った。これだけの土地があり、これだけの作物
が出来るということがすべてであり、勤めに行って「金」を貰って来る等という事は頭に無
かったのである。

 それが今や世の中「金」である。それも、自分たちで作ったものは、自分たちで売り、
「金」にしなければならない時代になった。これは商売である。「農」を「業」としてやってい
かねばならない。「農業」である。自分で作った作物を売る食品の製造販売業なのである。

 消費者がどんな品種を要求し、また、どんなお客様が、何を求めてこのブドウ園にいらっ
しゃるのかを考え、そのためには米は作らず買ってでも、良いブドウを作ると言う企業家と
しての考え方が必要なのだ。

 ばあちゃんの世代は正に「百姓」をしてきた世代でも有る。ブドウ園の隅にインゲンを植
え、直売所の裏にその豆を干す。その背中に「ばあちゃん、これからは・・・」と言えない自
分がいる。

2003.11.21記
アルバイト
 専業での農業経営を目指す自分にとっては、それ以外の道で金を稼いでくると言うのは
邪道である。しかし、現実は厳しい。まだ金のかかる子供たちを抱え、専業での農業経営
をするための整備にも金はかかる。

 ブドウで食って行けると言っても、自分たちは何とか食って行けるという話であり、まだま
だ金のかかる子供を抱え、その上、後を継ぐ者も無いと思われていたブドウ園を引き継
ぎ、そのブドウ園の整備にも金はかかる。

 ハローワークで職をさがす。幸い、近くで飲食店の募集もあった。これなら経験を生かし
て安定した収入も期待できる。しかし、通年と言う勤務は難しい。あくまで自分は農業人で
有りたいと、これは見送った。これも自分の生き方である。

 群馬はこんにゃくの大産地でもある。周辺にはこんにゃく農家も多い。11月は収穫の最
盛期である。「急募」と言うハローワークの掲示が目に止まった。これならやれる。

 農業一年生の自分にとっては、農業経験を積み重ねることも必要である。百姓の体にな
るには三年掛かる、と言われている。まだまだ農業経験の不足している自分にはこれ以外
に無い。

 電話一本、即決。ブドウ園で上ばかり見上げていた自分には、トラクターで掘り起こした
芋を拾う作業はきついが、それも慣れの問題。幸い良い人たちに恵まれ、青天井の下で
の作業はストレスとは縁が無い。

 しかし、兼業農家という言葉が気に掛かる。商売をしていた自分にとって、本業で食えな
いからと言って稼ぎに行くのは、居酒屋の奥さんがパートに行くようなものである。はっきり
言って、恥である。それが商売人の常識であると思う。

 それが農業では当たり前の事として通用していることに違和感を感じるのである。農業だ
けで、食って行くのは難しい現状を実感しながらも、「今や農業と言えども商売」などと言い
ながら、兼業で行く姿勢の甘さを感じずにはいられない。

 使える農地をいかに生すか。全てはそれに掛かっている。

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