命拍


 
 音が聞こえる。
 胸の奥から。
 とくりとくりと。
 命の音が。
 そして、時たまずれる。
 それが僕の音。
 僕の、人と違うリズム。

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「――いつっ……!」
 キュッと左胸に走る痛み。思わず僕は胸を押さえた。
「……旭(あきら)? またか?」
 顔を上げれば、心配そうにのぞきこむ友人、翠(みどり)。
 湧き上がる気持ちを押し隠し、へらりと笑って、僕は身を起こす。
「大丈夫。ちょっと狂っただけだ。いつものことだよ」
「……最近、多くないか?」
「気のせい、だろ」
 もう一度笑って、何事もなかったかのようにシャープペンシルを手に取った。
 目の前の友人は、納得いかなそうに僕を見つめている。それでも何も言わないのは、僕の素直じゃない性格を熟知してのことだろう。
「……無理すんなよ」
「そんなに無理してるつもりはないよ」
 嘘はつけないから、それだけ呟く。
「それが信用出来ないって言うんだ……」
 半ば吐き捨てるような一言は、一応心配から来てるものだとわかっている。
 それに、その言葉の意味が痛いほどわかってしまっている身としては、反論のしようもない。曖昧に笑ってごまかすしかなかった。

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 最近、よく胸が痛む。その痛みにも二種類あって、正確には痛いというのとは違うのかもしれないが……。
 一つは不整脈とでも言えばいいのだろうか?心臓の拍動が、時たまずれるのだ。
 普通に「とくり、とくり」と動いていたかと思うと、唐突に「と……くり」と、一拍によくわからない間が空く。
 その瞬間のいごごちの悪さと言ったらもう……体験した人にしかわからない。
 心臓が微妙に動きを止める瞬間が感じられ、次にたまった血液を押し出すように、力強く心臓が動き始める。
 その妙な動きが、僕の息を詰まらせる。痛みを感じる原因だ。
 もう一つは、本当に締め上げられるような感覚をもたらすもの。
 きゅっ……と瞬間的に、誰かに胸の中を掴まれたような気分。不整脈(仮)よりも、鋭い痛みが走る。
 ただしこれが本当に心臓の痛みなのか、それとも肺とか別の器官が痛んでいるのかの判断は、僕にはつかない。
「いったいなんなんだか……なあ?」
 自嘲げに呟いて、自分の胸に手を当てる。
 今はまだ、普通にリズムを刻む僕の左胸。
 人と違う、僕の心臓がそこにある。
 なにが違うって、生まれた時に穴が空いてたって言うんだから洒落にもならない。心室中核欠損症という。我ながら長ったらしい名前だ。
 しかも穴の空いた僕の心臓は、もう一つ病を併発した。それが今も僕を悩ませている、大動脈弁閉鎖不全。
 詳しい説明ははぶくが、要するに、血液の流れを制御する弁に異常があるため、心臓に負担がかかる病気だ。一つ間違えば、血液逆流、なんてこともあるらしい。
 ――本当に……洒落にもならない。
 僕は、はっきり言ってこのことにコンプレックスがある。
 むしろ、『なんで自分が』という八つ当たりにも似た、自分勝手なもどかしさ。
 強いふりをして隠してきた、僕の醜い感情。

 僕は現実から逃げ、虚勢を張ることしか出来ない弱い人間だった。自分の本心を認めることも、受け入れることも出来ずにいたのだ。
 それに気づいたのは数ヶ月前。母親と進路について派手に喧嘩した時のことだった。
 母との口論の最中、それまで自分でも知らないうちに隠していた本音がぽろりと出た。それで、自分の気持ちに気づいたのだ。
 それまでの僕は、必死に自分の病などどうってことないと思うようにしてきていた。これが自分の普通なんだから平気なんだと、一種の自己暗示をかけていた。
 まあ、そうでなければやってられなかったというのもある。自己防衛本能でもあったんだろう。気づかぬうちに、自分の精神的弱さと、現実の厳しさを感じていたんだ。
 だからわざと、全てを『どうってことないこと』の一言で片付け、『心臓病だから仕方がない』という姑息な言葉を操り、なにも知ろうとしなかったのだ。
 しかし母は大喧嘩のあと、少しずつだが昔のこと、病気のことを話してくれるようになった。
 僕には欠片すら覚えのない出来事が、次々と母の口から語られる。
 もちろん、今までにも話されて、聞いてきたものも中には混ざっていた。だが、そんなものが比較にならないぐらい、重い話も混ざっていた。
 なるほど、と僕は納得した。
 今まで言わないはずだ。自分を受け入れる覚悟もなにもなかった僕が、ただ自分に目隠しをしていただけの僕が、それらを聞く資格はなかったと言える。母の判断は正しい。
 だが今、母は語り出した。
 僕に資格があると認めてくれたのだ。今まで聞いたこともない話の数々に、気のないフリをしながらも一つも聞き逃さぬよう耳を傾けた。
 「大変だったのよ」と茶化したように言う母の瞳が潤んでいることに気づいてしまい、あまりに弱すぎる自分に情けないと思う。
 両親。祖父母。病院の仲間。担当の先生と看護婦さん。周りがこんなに想ってくれてるのをいいことに、なぜ自分はこんなにどうしようもないのだろう。
 だからせめて努力を、と望んだ。
 自分の本心を認め、受け入れることの出来る強い人間になる努力を。
 ――かといって、今そんな出来た人間になれたかと聞かれると……困る。第一そんな簡単になれていたら悩んじゃいない。
 認めようとは思うし、受け止めようとも思う。
 けれど僕はやはり弱いから、背を向け逃げ去りそうになる。そこをなんとか踏みとどまって、目をそらしそうになりながら、一応睨み合っているのが今の状態と言えよう。

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「おい、旭」
 突如隣から声をかけられ、驚く。
「なに、翠」
 横を見れば、声をかけてきた当人は画面から目を離さず、声だけを返してきた。
「捜し物、見つかったか?」
「んー……あまりにもヒットが多すぎてね」
 画面の『該当件数千五百件』の文字にめまいを感じながら答えた。
 今僕と翠は学校のコンピュータールームにいる。
 うちの学校は、放課後コンピュータールームのパソコンを使ってインターネットをしてもいいことになっている。家でネットが出来ない僕と翠は、常連と言っても良いほどここに通っているのだ。
「そんなにあったのか……もう少し詳しくアタリをつければ良いんじゃないか?」
「それもなんかなあ……まあ、適当にみてくさ」
 今日の僕の目的は『自分の病気を知ること』。
 至極基本的かつ必須の要素な気もするが、はっきり言って僕は自分の病気について詳しく知らない。
 怠慢と言われても仕方がないが、詳しく知ったら弱くなってしまいそうで怖かった。これもまた、長い間自分をごまかしてきたことの一つだ。
 だが、知ろうとしないことこそが自分から逃げているのだと気づいた以上、見過ごすわけにもいかないだろう。大体、これ以上弱くなりようがない気もするし。
「あ。『心臓病についての概要、手術にかかる費用』か。これなら一挙に見られてお得な感じだね」
 マウスを移動させ、コンテンツをクリックさせた。
 しかし、千五百件(全部読むわけではないが)もあるのでゆっくりここで読んでいる時間はない。学校には下校時間が存在するのだ。
 仕方ないのでフロッピーにどんどんおとしていく。
「うわー、大変だね、旭クン」
「そう思うなら手伝ってよ、翠サン」
 軽口を叩きながらもマウスの動きは止まらない。
「やーなこった……あ、そうだ」
 にっこりと、爽やかな、しかしどこか意地の悪い笑みを翠が浮かべた。
 嫌な予感。椅子に座ったまま思わず後ずさりする僕の進路をさりげなく奪い、翠はそれは丁寧に聞いてきた。
「ちょいと先生、新作はどーなってるんでしょうねえ?」
 ――慇懃無礼とはこれを言うに違いない。
「ノ、ノーコメント」
 苦し紛れの言い訳に、翠は「ほお」と低く笑った。
「ノーコメントねえ……? それは今までのお前の作品全てを、学校中にばらまくということへの了承と取っていいのか?」
 す、全て!?
「――申し訳ございません、お代官様、翠様」
 究極の脅しに屈した僕に、翠が大層機嫌良く笑った。
「最初から正直な態度に出ればいいものを……はやく書けよ、新作」
 「楽しみにしてるんだから」というその願いは社交辞令であっても、嬉しいものだ。そして同時にプレッシャーでもある。翠自身、それをわかっててはっぱをかけているのだろう。全く……ありがたい友人だ。
「わ、わかった……善処する」
「大体、せっかくの作品が賞に入って、ご丁寧に賞金までもらったんだから、俺になんかおごるのが正しい行いだろうよ、なあおい」
「そ、それはちょっと……」
 翠の言う『作品』『新作』というのは、僕の書くオリジナル小説をさす。
 僕の一番の趣味であり、夢でもある物書き。暇さえあれば書かれる物語の一番の読者は、目の前にいる翠だった。
 自分の弱さゆえに、一度は失いかけた夢とその道。自分自身と言っていい夢がもしかしたら『逃げ』なのではないかと悩み、自身の本質すら失った。
 それを取り戻させてくれたのは他でもない翠の一言だった。
 他人が聞いたら「なんだこんなもの」と思うに違いない、しかし僕にとって何より嬉しく誇らしい言葉。その一言をきっかけに、僕は夢の始まりを思い出した。
 そしてその後に翠に勧められて出した作品二つが、どちらとも賞に入ったのだ。
 偶然、幸運とはいえその出来事は、『回復』どころか『新たな』自信へとつながり、今の僕を支える大きな柱になっている。
 つまり、もしこの友人がいなければ、僕は大切なものを永遠になくしていたかもしれないのだ。
 そういう意味でも、僕は翠に頭が上がらない。
「まあ、『おごり』はともかく『新作』の方、期待して待ってるからな。俺が作品ばらまかなくてすむように」
「ぐう……」
 完璧に念押しされ、僕は小さくうめいた。

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 ――夜。むしろ真夜中。小説を書くならその時間が一番筆が進む。……パソコンだから筆は使ってないけど。
 学校で翠に念押しされたせいもあり、僕はパソコンに向かっていた。
 いや、もしかしたらさっき見た恐ろしい数字を、頭からどうにかして追い出すためかもしれない。
 真っ暗な部屋に、パソコンだけが光っている。
 目に悪いことこの上ない環境だが、集中するにはこれが一番だ。まあ、暗闇で、部屋に一人という環境だからこそのデメリットも存在するわけだが。
「二百万……」
 学生には途方もない、想像出来ない数字。インターネットからおとした資料から判断するに、僕の手術代にはそれだけかかるらしい。
「保険使って二百万……」
 ちなみに使わない場合は五百万と載っていた。
 しかも母に聞いたら「あら、どこで聞いたの?懐かしい数字ねえ」と微笑まれた。つまり、前回の手術もそれだけかかってるってことか。
「成功確率三分の一から二分の一、よくて五分の三……」
 手術の成功率は、壊滅的ではないが常識的にかなり低い。
 二度目の手術は約十年後。
 逆に言えば、その時僕は半分の確率でこの世から消える。
「……いつ……っ」
 また、胸に痛みが走る。
 人と違うリズムが刻まれる。
「なんなんだよ、ホントに……」
 腹立たしいと呟いて、胸をきつく押さえる。そうすると少し、痛みがひく錯覚におちいれるから。

「……最近、多くないか?」

 翠の言葉が脳裏をよぎった。
 ――確かに、胸の痛みが増えたと思う。
 しかし原因はわかっているのだ。これ以外ないという原因が。
 昔と今が違うというならば、痛み以外に変わったこと。変わった環境を思えばいい。 
 昔それほど痛まなかった胸が、現状維持のまま悪化していない今痛むなんて、思いつく理由は一つだけだ。
「薬……だよなあ」
 小さい頃から飲んできた薬が、この年になって止められた。
 幸運なことに病状は悪化してないし、薬の効力がかなりきついので、このまま飲み続けるのはかえって体に悪いと判断された結果だった。
 喜ぶべきことだし、実際喜んだのだが……薬がいかに自分の体を助けてきたのかを知るのに、長い時間はかからなかった。
 まず、体力がかなり減った。持久力も減った。階段の上り下り程度で息が上がる。心拍数も上がる。
 ――やはり自分は病人だったのだと、苦々しく思った。
 かと言って止められた薬を勝手に飲むわけにもいかない。薬はそのまま、飲むことが無くなった。
「……仕方ないけどさ」
 薬が止められてから、胸の痛みが増えた。この心臓が、助け無しに一人で動くのはやはり難しいのだろう。簡単なことで、当然のこと。
 完璧に重なる符号に一人うなずき、そして、舌打ち。
「それでも怖いっていうのか……」
 手が、震えていた。
 せっかく、自身と向き合おうと思えたのに。
 やっと夢を、無心に追いかけようと思ったのに。
「一つ問題が片づいたらまた一つ……厄介だな」
 それが人間なのかと、もっともらしく考えてはみるが、手の震えは止まらない。
 カタカタと小刻みに、目の前で震える手。

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 もう逃げてばかりではいられないと、自分の病について調べるようになり、見せつけられた不安材料の数々。高額な手術代、手術成功の低確率、何より消えない自分の弱さ。
 ようやく、自分が今までいかに無知だったかを知った。
 胸の痛みが起きるたび、同じ所で湧き上がるものがある。
 恐怖と。人はそれを呼ぶのだろう。
 胸の痛みが薬のせいだとわかっているし、体に異常がないのもわかっている。
 それでも怖くて怖くて仕方がないのだ。
 目の前に広がる暗闇。
 先が見えないことへの戸惑い。
 そして見える先への不安。
 そう、僕は『死』の欠片を感じている。まるですぐ隣りにそれがあるような錯覚。
 一人部屋にいれば、そんな感情ばかり渦を巻く。恐怖で頭が一色に塗りつぶされる。
「負けるもんか……たかが可能性に、想像なんかに負けるものか……」
 これは自分との戦いだと、言い聞かせる。
 まだ起きてもいないことに恐怖してどうするのだと。
「痛いのは生きてる証拠だし、動いているのは助けてもらったからこそ」
 気をしっかり持って。
 真っ直ぐ前を見て。
 自分から逃げ出しちゃいけない。
「前と比べればましなんだから……」
 以前の僕は、恐怖すら感じなかった。
 だけどそれはけしていいことじゃない。
 単に以前の僕が、恐怖を感じないほどに無知だったというだけだ。
 今の僕は、恐怖を感じられるぐらい、自分と向き合えている。
 そう考えれば、多少気分が違う。
「……続き、書くか」
 やっと落ち着いた自分の感情を前に、僕は息を吐き出した。
「ちゃんとやらないと、翠に怒られる」
 小説と、友人と、支えてくれる人々。そして僕自身の負けん気。
 これだけそろえておいて逃げたなら、面子に関わる。
 恐怖は消えないけど、まだ僕は頑張れる。
 僕の戦いは、まだ始まったばかりだ。
 人生は、カーブにもさしかかっちゃいない。
 人と違うリズム抱えて、目の前の闇見つめて。 
 僕は負けない。
 絶対に。
 ……たまに、弱音を吐くかもしれないけど。それは、ご愛敬と言うことで。

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 僕は戦う。
 闇の中で。
 おずおずと。
 助けられながら。
 そして夢見る。
 闇の先の光を。
 僕の、愛おしい未来。
 僕自身が望む夢物語。
 音が聞こえる。
 胸の奥から。
 とくりとくりと。
 命の音が。
 そして、時たまずれる。
 それが僕の音。
 僕の、人と違うリズム。
 僕自身が生きてる証。




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