予定外に乾杯



「――お前に体はやれん」
「はぁ?!」

 今まさに押し倒し、大願成就も間近だと浮き立つ心をなるべく抑え、コトに及ぼうとしたその瞬間。
 真っ向からにらみつけられて、そんなセリフを言われた日には、恋人として、男として、どうすればいいのか見当もつかない。というより、まったくもって予定外の珍事だ。
 嫌がって抵抗するわけでもなく、この自分を好いてくれているというのも、自惚れなんかじゃないはず。
 なら、この言葉はどう受け取ればいいのか――。
 少女は手首を掴まれたまま――掴んでいるのは自分に他ならないが――切羽詰まった様子もなく、淡々と続けた。
「トオル、聞こえなかったか? 体はやれん」
「いや、やれんって……オイ」
 車と男は急には止まれない……そんな馬鹿らしい標語が脳を回る。
「やれんと言ったらやれん」
 強情に同じ言葉を繰り返す恋人に、トオルは息を吐く。
「今更……そーゆーこと言うわけ?」
「今だから言うんだ」
「自分の状況わかってるか?」
 片手で手首を掴んだまま、残されたもう片方で、輪郭をなぞった。くすぐったそうに体をよじる恋人に、知らず笑みが生まれる。
「なあ?」
「わかってるから、やめて欲しいって言ってるんだ」
「つーかよ、『やれん』としか言ってねえだろ、お前」
「……そうだったか?」
「そーだよ」
 いぶかしげに眉をひそめた少女に、自分でも、すねたような、責めるような口調になったのは気づいていた。
 人一倍鈍感で、それでいていらないところに敏感な少女が、それに気づかないはずもない。クスリと笑って、思い出すように目をさまよわす。
「じゃあ、改めて言おうか。私はお前に体はやれない。だから、やめて欲しい」
 ――やはり状況というものがわかっていないのではないかと、トオルは少なからずため息をついた。
「ここまできといて、今更『はい、そーですか』ってやめられるかよ」
 半ばヤケ気味に呟き、唇を奪った。少女はそれを素直に受け止める。何度も繰り返される行為に、少女に否の気配はない。
 ――諦めたか?
 そう思った瞬間、少女の目が開いた。
「体は、駄目だからな」
 ガクリと、体から力が抜ける。その隙を見て、少女はトオルの束縛から抜け出すと、わずか数センチまで顔を近づけてきた。
「嫌か?」
 くいっと首を斜めにかしげる動作に、悔しいけど目を奪われる。
「嫌かって……そりゃ男ならな……」
 半ば諦めとともに出した答えに、少女はしゅんとうなだれた。先程までの強気が、嘘のようだ。普段から予想もつかないような、捨てられた子犬のような目だ。
 ――ヤバイ。
 意識の奥底で、そう呟くもう一人の自分がいた。
「やはりそうか……。体を渡さぬ女など、つまらんか……」
「いや、そーゆーわけじゃ……」
「でも、そうなんだろう?」
 半分当たってて、半分ははずれてて……。でもやはり事実なのは変わりなく……。
 それでも、例え自分の意志を曲げてでも……と思ってしまうのは。
 焦ったような沈黙に、少女は悲しそうに呟いた。
「私はトオルが好きだ……でも、まだ体はやれない。私の義務だから」
 すまないと、声にならない言葉を聞いた気がして、それはきっと、はずれじゃない。
 トオルはどこかで、何かが崩れる音を聞いた。多分それは、意志ってやつが崩れる音だったんだろう。
「ったく……」
 舌打ちに、大きな溜息。
 それでも自分はこの一言を言ってしまうのだ。
「……しゃあねえなあ」
「トオル?」
 不思議そうに、自分を見つめる少女の瞳。
「負けだ。俺の」
 自分の負け。それも完敗だ。
 相手は心底惚れてる女だ。それに抵抗しようと言うのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
 最初はただ変な女だと思って興味を抱いただけだった。
 でも、気づくとひかれてた。
 髪は黒い方が好きだと言うから、茶だった髪を染め直した。
 だらしない格好が嫌いと聞いたから、きちんとした格好をするように心がけた。
 そこまでしてでも、自分の考えを曲げてでも、好きになって欲しいと望んだ女。
 ――その女の願いを、今更聞かないなんてことが出来るものか。
「お前の言う義務ってやつが、なんなのかは知らないが……いつか教えてくれるんだろう?」
「……ありがとう」
 嬉しそうなその微笑みに、全てがどうでも良くなった。
 ただ、確かめたいことが一つだけ。
「……まだって言ったな?」
「え?」
「さっき、『まだ』って」
「あ、ああ……」
 戸惑う瞳を見つめ、少女の左手を取る。
「それが……どうかしたのか?」
 左手の薬指。ただ見つめるだけの少女にニヤリと笑い、そこにそっと、口づけを落とした。
「お、おいっ……!?」
「それは……『いつか』を期待して良いってコトだよな?」
 カッと朱を昇らせた相手を見つめ、答えを待った。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
 あちこちを見回し、視線をあわさない少女のあごを掴み、こちらを向かせる。
「だよな?」
 きっと今の自分は、意地の悪い笑いをしているに違いないと確信を持てた。あごをトオルに掴まれたままの少女はやがて諦めたように、真っ赤な顔のまま頷いた。そして、意を決したように、口を開く。
「体はまだやれない……でも、心ならいくらでもやる。あずかっとけ」
 聞こえるか聞こえないかの声で「いつかまで」と囁かれた。にんまりと、口の端が上がるのをトオルは自覚していた。
 答えに納得しあごを離すと、少女はトオルと少し距離を置いた。
 やがて、いつもより上気した顔で、必死に平静を取り繕いながら言い放った。
「……トオル、目をつぶれ」
「目?」
「いいから、早くっ!!」
「へえへえ」
 言われたとおり目をつぶる。少女の緊張するような息づかいが、目をつぶっているからこそよく聞こえた。こくりという唾をのむ音の後、空気が動いた。
「………………………………………………」
 ふわりと。
 暖かい何かが自分の唇に押し当てられ、それが少女の同じものだと気づくのに、数秒かかった。
「…………………………へ?」
 慌てて目を開ければ、いつの間に離れたやら数メートル先に少女がいる。
「約束……だ」
 照れ屋な恋人からの、滅多にない贈り物にトオルは驚きつつも思っていた。
 たまにはこんな予定外の出来事もいいもんだ、と。
 だけど……。
「惚れた弱みか、これは……」
 確信を込めた呟きに、少女が顔を上げる。
「なんか言ったか、トオル」
「いえ、なんにも?」
 とりあえず。

 予定外の出来事に、乾杯。 


Fin



アトガキ
少女、身内では大人気でした(笑)
トオルは『情けない』という意見と『可哀相』が半々でしたね。
気の強い、照れ屋な女の子、大好きです(誰も聞いてないから)
いや、のんびり屋な女の子も好きだし、元気な子も好きっすよ!?
…………はい、女の子はみんな好きです(爆)


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