番外編 絶対

 迷い子のごとき万華鏡。
 鏡と揶揄される万華鏡。
 ひどく脆く、ひどく魅力的なその存在。
 俺にとっての絶対存在。
 ――では俺は?
 俺は、あいつにとってどんな存在なのか。


 目の前で静かに眠る少女がいる。パイプ椅子に座ったまま、自分の両腕を枕代わりに机に倒れ込むように寝ている。
 計算の途中だったのか、側には電卓と、彼女愛用のボールペン、そして記入途中の帳簿が、ひらいたまま置かれていた。
 生徒会室に入って早々見た光景に、生徒会長である東城真澄(とうじょう・ますみ)は微笑ましく思い、少女を起こさないよう気をつかいながらドアを閉めた。
 彼はいつもの場所――少女の前の席――に腰を下ろすと、鞄から読みかけの本を取りだした。彼女が起きるまで、待つつもりだった。
 ここ最近、生徒会はかなりの忙しさだった。それは会計である少女も例外ではない。このようなところで眠り込むなど、普段の彼女からは考えられない、よほどに疲れているに違いない。起きるまでそっとしてやりたかったのだ。
 眼鏡をかけ、本からしおりを取りだしぺらぺらとページをめくる。静かな室内に、少女の存在と紙の音がひどく心地よく感じられた。


 そのまま一時間以上。真澄は本を読み切り、顔を上げた。活字で疲れた目を細めながら窓の外を見れば、景色はすでに朱に染まり始めていた。
 ――さすがに、起こすべきだろうかとも考えた。だが同時に、またとない機会だとつぶやく自分もいる。
 今、生徒会室には真澄自身と、眠り続ける少女しかいない。
 いつもなら側にいる従兄弟は、職員室だか生徒指導室だかに呼び出されたまま帰ってこない。きっとまた、服装や髪型で難癖をつけられているのだろう。
 くだらない、というのが真澄の正直な感想だった。教師がというわけでも、従兄弟がというわけでもない。あえて言うなら両方と答えるが。
 真澄は他人がどうでも良かった。自分と……あとは目の前の少女だけに、関心があった。一応従兄弟も彼の思考範囲にあるが、それは『関心』というより『認識』に近い。
 まあ、それ以外の人間は『認識』すらしないことを考えれば、従兄弟もまた破格の地位にいると言っていいだろう。
 だから真澄は、従兄弟が茶髪であろうが、シルバーアクセサリーをつけていようが、制服をだらしなく着崩していようがほとんど気にしない。
 大体その格好自体、従兄弟のポーズ――『家』から逃れるための単なる演技だと知っているのだから。
 だが、教師はそんなことを知るはずもなく、きっと今日も教育的指導という名の愚痴と文句はたいそう長くかかるだろう。戻ってくるまで、まだしばらくかかるはずだ。
 そう思えば思うほど、少女の微かな寝息が耳元で聞こえるような気分がした。
 安心しきったその姿に、ほんの少しだけ悪戯心を刺激された。ふと思いついて、そっと音をたてないように隣りの席へ移動する。
 そして今度は真横から、先程よりずっと近い位置で少女を観察した。
 少女とも、少年ともつかない中性的な顔立ち。女性としては短い部類に入る髪の長さも、彼女を少年っぽく見せている要因かもしれない。
 また、真澄と同じ黒髪のはずだが、彼女のそれは自分のものとは違う艶を持っていて、見てるとついさわりたくなる。
 そう思う瞬間にも手は伸びて、真澄は一房だけ少女の髪を指先にからめとった。
 からめた途端、逃げるようにこぼれ落ちてゆく髪の毛一本一本を見つめながら、持ち主にそっくりだと、おかしく思った。
 いじれば色々な形になるのに、絶対真っ直ぐなそれに戻る。からめたと思ったら、いつの間にか手からすり抜けて、けしてとらわれようとしない。
 髪の毛ですら、どこまでも『彼女』で。
 他人を思う優しさと、自分を失わない気高さ。自分が持たないその二つを持つ少女に、代わりなどどこにもいない。
 そんな彼女だからこそ、真澄は『欲しい』と思ったのだ。


 何度も髪の毛をからめるうちに、ほんの数本だが指先に残るようになってきたのに気づき、真澄の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「これは予行練習……本番は、お前だよ」
 毒を含んだ甘い声でささやけば、少女が身じろぎしたのがわかった。
 名残惜しく思いながらも、からめとっていた黒絹から手を離す。それと少女の覚醒はほぼ同時だった。
 うっすらと、少女の瞳がひらいてゆく。
「ま、すみ……?」
 まだ半分寝ぼけたままらしい少女の口調は、平時からは考えられないほど甘く、その表情はどこまでも無防備で、背筋がゾクリと粟立った。
 その変化を読み取られないよう、極上の笑みを浮かべて言った。
「おはよう、樹(いつき)。よく眠れたか?」
「ぅん…………いま、なんじ……?」
「今か? 六時……少し前だな」
 少しずつ目が覚めてきたのか、樹がいつもの表情に戻ってゆく。残念だという気持ちと、もうすぐ従兄弟が帰ってくるだろうことを考え、安心する気持ちが半分。
 結局、他人にあの表情を見せるぐらいなら元に戻る方がましだと結論づけた。
「……僕を、待っててくれたのか?」
 ほぼ普通に戻った樹が、それでも親しい者だけにしか見せない本来の顔をする。
「気にするな、本を読むついでだったから」
「ありがとう、真澄」
「いいや」
 寝起きの表情を見られただけでお釣りが来ると、心の中だけで呟く。
 そんなふうに考えて、「ああやはり」ともらせば、樹が不思議そうにこちらを見た。
「どうかしたの?」
「いや、気にするな」
「そうか……ならいいけど」


 ああやはり。と思う。
 迷い子のごとき万華鏡。
 鏡と揶揄される万華鏡。
 ひどく脆く、ひどく魅力的なその存在。
 俺にとっての絶対存在。
 ――では俺は?
 俺は、あいつにとってどんな存在なのか。

 自己に質問を投げかけ、そして俺は結論を見つける。
 俺は、自分が『万華鏡の絶対存在』でなくては我慢ならないのだ。
 あいつの中で、俺の存在が『破格』であることは、自惚れでなく判断出来ること。
 だが、それでは我慢出来ない。
 俺はあいつの『絶対』でなくてはならない。
 今はまだ『破格』でいいだろう。
 だが。
 だがいつか。
 俺はあいつの『絶対』になってみせる。
 何があっても忘れられない、そんな存在になってみせる。
 そう。

 ――どんな手を使っても。


――終――

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