貘      桐島上総 様


    


    空は電線が細切れにしてしまっているから
    月は上手に狩りが出来ないだろうから
    
    ・・・だから きっと
    月の手から逃れた貘は 君の元にも辿り着く
  


                 『貘』


 昼休みに学校を抜け出して彼を探し始めてから、もうかれこれ30分が過ぎた。彼の行動範囲の全てを知り尽くしている訳ではないが、活字中毒の彼はきっと本の近くに居るだろう。本の在る所に彼在りだ。だから近所の本屋全件を虱潰しに覘き、目ぼしい所は探したつもりでいたが迂闊にも本の倉庫・図書館の存在を忘れてた。その結果がこの様である。綺麗に整えたはずの髪はばさばさに解れているし、念入りに施したメイクはうっすらと浮かんだ汗で崩れつつある。翠は、外出直前とは遥かにかけ離れてしまった自身の姿を手鏡で確認すると、やり場の無い怒りがふつふつとこみ上げてくるのを感じた。
 
 ようやく目的地である図書館に到着すると、案の定本棚に寄り掛かったまま座りもせず本のページを繰る彼を見つけた。
 艶やかな黒髪が日に透けて茶色に輝いている。少し長めの前髪が彼の手元の本と、彼自身の白く肌理細やかな肌に影を落としている。本の精とはこのような姿なのだろうか。だがしかし。おそらくは猛烈なまでの残暑の中必死で走り回ったためだろう。美麗な姿で涼と静謐を纏っているのが気に入らない。もちろん八つ当たりなのだと頭では理解しているのだが、所在無く仕舞い込まれていた怒りが再燃するのを誰が止められよう。
 「甲斐!今までずっと此処に居たの?あちこち探し回ったんだよ。足が浮腫んだら君のせいだからね!」
 さすがに場所柄を弁えてボリュームを下げたものの、やはり声を荒らげてしまった。突然現れた翠の怒気を滲ませた声色に、甲斐はピクンと引き攣った様に顔をあげた。それでも本を閉じない甲斐の甲斐らしさに、翠の不機嫌さは何処かに溶ける。

「・・・翠、どうしたんだ?いきなり。何の用だ?」
 休日返上で連日連夜仕事漬けの甲斐が、珍しく取れた休日に読書を楽しんでいたのである。翠の先程の態度は如何なものか。沈静化された怒りの代わりに後悔と贖罪の念が浮かぶ。しかも今日は・・・
「今日は9月18日で、甲斐の・・・甲斐の誕生日だから今晩一緒に飲みに行けたらなと思って・・・」
 そう今日は甲斐の誕生日なのである。自身の先程の行動を申し訳なく思っている翠は目を伏せ、甲斐の爪先だけをじっと見つめる。
「じゃあ、20時にいつもの所でいい?」
本をパタンと閉じた甲斐は苦笑しながら自身より頭一つ分小さい翠を見遣る。
「一緒に行けるの!?わぁい!」
 甲斐は、キラキラとした目で自身を見上げ、約束をとりつけた安堵から小さな子どもの様にはしゃぐ翠の姿に笑みが零れる。
 「私はまだ講義があるから、また後でね!」
 来た時とは正反対に嬉しそうに手を振りながら走り去る翠を遠くに見つめ、甲斐は再び読みかけの本に視線を落とした。


――――20時17分。路地裏にひっそりと佇むバー。やや遅れ気味で到着した甲斐はカウンターの奥の方で一人グラスを揺らす翠を見つけた。
「翠っ!!悪い遅れた。」
「嫌だなあ。今日の主役は甲斐君ですよ?そんなに慌てなくてもいいのに。・・・まずは乾杯しよう。注文したけど飲まずに待ってたからさ。」
 呑気な調子で、息をきらす甲斐に汗をかいたカクテルグラスを見せる。
「あー、じゃあ俺にも彼女と同じものを・・・」
「かしこまりました。」
 息を整えてマスターに注文すると、マスターは皺が多くとも整った手でシェイカーを振り始める。程無くして苺の添えられた赤に近いピンク色のカクテルが目の前に出された。
「・・・なあ、翠。お前は何を頼んだんだ?」
 甘いにおいを立ち昇らせるピンク色のアルコールを前に、翠はにっこりと微笑む。
「ん?知りたい?実はね、『私に似合うカクテルを』って頼んだらストロベリーのカクテルが出てきたの。」
 一度言ってみたかったんだよねと笑う彼女に、甘いものが苦手な甲斐だが一杯位ならと翠と揃いのグラスを掲げる。

「じゃあ乾杯!お誕生日おめでとう、甲斐。」
「さんきゅ」


 しばらくの間、互いに近況を語り合って過ごしていたが、ふいに翠がおとなしくなった。薄暗い店内で翠の栗色の長い髪と、甲斐の何杯目かのグラスに注がれた琥珀色の液体が揺れる。
「・・・翠?」
「んー?」
ひどく曖昧な返事と共に、全身を真っ赤に染めた翠が甲斐に虚ろな目を向けた。


 今日は結局誰の誕生日だったのか。第三者がこの光景を見かけたら、そう洩らしたに違いない。完全に酔いの回った翠が甲斐の背中でクタリとのびているのだから。
 甲斐はひやりとした外気にふるりと体を震わせた。
 
 今この瞬間、私は誰よりも君の傍に居て。それを拒まない君が居て。
 恥ずかしくて、とてもじゃないけど素面では愛シテルなんて言えないから。
 きっと君は知らないんだろうね。気付いてさえいないんだろうね。でも悔しいから。ほら、先に惚れた方が負けって言うでしょ。だから少しだけ回りくどい言い方で君を困らせてみようと思った。
 ねえ、お月様。今だけ。今晩だけは見逃してよ。彼への小さな悪戯を。
 「・・・上弦の月は狩に出かけるんだって。それで下限の月は貘を料理するんだって。」
 昼間とは打って変わった肌寒い裏路地に翠の声が響く。翠と翠の背後に浮かぶ月――僅かばかりに欠けた下弦の月、その両方を背負う甲斐が柔らかに笑う。
 「・・・貘?貘って悪夢を喰らう想像上の生き物の?」
 唐突に何の脈絡もなく語り始めた私に、甲斐は一瞬戸惑ったようだ。それでも会話を繋げてくれる甲斐が愛しくて彼の肩に頬を摺り寄せた。
「そう、その貘を。・・・不味そうだよね。貘も悪夢も。」
「ああ、旨くはないだろうな。食中りおこしそう。」
 甲斐の笑いを含んだ低くて心地よい声が、彼の肩を通して直に私の頭に響く。この声も体温も全てが愛おしい。だから―――
 

「・・・不味くても、どんなに不味くても・・・たとえ食中りおこすって食べる前から分かるような夢でも、私が全部食べてあげる。甲斐の悪夢を一滴残さずたいらげてあげる。」
「全く話が読めないんだけど?」
「だから、甲斐の今年一年が去年よりもずっと幸せな・・・そう!幸せ最上級な年になるように、私が甲斐の悪夢を食べてあげるって言ってるの。」
 お酒の勢いを借りて、甲斐の肩に顔を埋めて。甲斐の顔なんか見えないのに。それでも恥ずかしくて。きっと私は耳まで赤く染めていることだろう。
「なんだよそれ。幸せ最上級って。じゃあ、俺の来年は適度に幸せな年とかなの?しかも貘の仕事を取り上げちゃ駄目でしょ。だいたい翠が腹壊したら看病するの俺じゃん。」
 甲斐が肩を震わせて笑うものだから、私は勢いよく顔をあげた。
 ・・・いちいちまともなツッコミをありがとう。
「幸せの最上値を年々更新するの。年に比例して増加するように。それから、貘が甲斐の所に行くのに遅刻したり、忘れたりしたら困るでしょ?だから、私が甲斐の悪夢を食べる。お腹は・・・壊さないように努力する。」
 ぴたりと甲斐の脚が止まった。ややしばらくの沈黙の後に掠れた甲斐の声が風に乗って届いた。それこそ月に攫われてしまったかのような小さな声音。
「・・・ありがと」




 お誕生日おめでとう。
 君が生まれてきてくれたこと、君が私の傍に居てくれること。
 その全てに心から感謝しています。
 どうかこれからも君が幸せでありますように―――




**********後書きと書いて言い訳と読む**********
甲斐:ねえ、残暑って何?
桐島:・・・だから、書いたのは9月17日なの。
翠:それで、書き直してたら1ヶ月も経ったと?
桐島:・・・はひ。
甲斐:いい根性してるよね。1ヶ月も遅れたくせにこの消化不良。
桐島:自覚しとります。
甲斐:ちっ、仕方ないね。翠、俺らで綺麗に締めるよ。
    桐島は部屋の隅で膝抱えて自己嫌悪に陥ってるから。
翠:ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
甲斐:お誕生日祝いなのに遅れてしまって申し訳ありません。
    桐島が土下座なりなんなりさせていただきます。
翠:祝いの気持ちは精一杯込めたので、どうか貰ってやって下さい。

       Happy Birthday!!


2003.10.17    桐島 上総
 


アリガトウノキモチ
上総ちゃんからいただいた誕生日小説です!!
ありがとう上総ちゃん、君の素敵な小説をいただけるなんて私は果報者です。
翠ちゃん可愛いね……甲斐クンもかっこよい!
上総ちゃん、本当にありがとうございました。

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